逃亡(劇)

06



「ぁの、…寝癖、…じゃなくて、えっと」
「ああ寝癖。ありがとー」
「あ、じゃ、なくて、その…その、橘って呼ぶの、やめてくんねぇ?」

 くしゃくしゃと手櫛で髪を整えようとした霙が、手を止めて遊糸を真っ直ぐ見据える。穏やかに微笑む。

「じゃあ、おれも、霙でいいよ」
「え、…と」
「遊糸。へへ、綺麗な名前だからさ。前から呼んでみたかったんだー」

 やはり知られていたらしい。
 霙は「お大事に」と声を掛けて、そのままあっさりと保健室を出ていった。

 今度こそひとりになった部屋の中で、恐る恐る遊糸はソファに座って、それから横たわった。浮ぶのは、橘ではなく、霙の顔。
 もぞもぞとジャケットを脱いでブランケット代わりにし、遊糸は静かな気持ちで眠りについた。


+++


 3限から授業に参加し、帰路は橘がいないか辺りに気を配りながら、海の家へ向かった。

「母さん、ちょっとしばらく遊糸泊めるから」

 そうあっさり告げただけで、海の家族も、海も、それ以上何も訊いて来ようとはしなかった。『14年間離れていた父が帰って来た』くらいは、話題として会話に昇ったことがあったのかもしれない。

 それでもいざ海の部屋に来ると、申し訳なさが募ってくる。
 部屋に入れず、ドアの前で竦んだように足を止めた遊糸を、海は笑いながら振り返った。

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