転がる珠

08



***

「おかえり」
「!」

 夕刻と言うよりも夜に近い時間。帰宅してすぐに声を掛けられて、遊糸はぎくりと動きを止める。帰宅して誰かがいるという状況は、ここ1年どころか、遊糸を養うために母親はずっと働きに出ていたために、ほとんど体験したことのないものだ。

 咄嗟に顔を背け、無視しようと身体が反応したが、海の言葉が脳裏を過ぎる。『話し掛けてきたら、相手してやれよ』。ポケットの中の、鍵。

「た、…ただい、ま」

 ポケットに手を突っ込み、作ってもらったばかりのふたつの鍵を握り込んだ拳を、突き出す。

「? なんだい?」

 訝りながらも、橘はその拳の下に手を差し出した。遊糸が指を開くと、その手の上に鍵が落ちる。ちん、と小さく音がした。

「鍵。作って来たんで。使って下さい」
「あぁ! ありがとう、夜の間に借りようと思ってたんだ。待っててくれ、今お代を」
「要らない、です。それじゃ」
「遊糸。夕食は?」
「…食べて来ました。あの、俺のこと、気にしなくていいんで」
「そういうわけにもいかないだろう。遊糸、」

 返しかけた踵がそわそわする。こんな気まずい空間など早く撤退したいのに、話し掛けて来るから終らない。
 こういうものなのか。橘が特殊なのか。どう対応すれば良いのか。どうしたら終るのか。

 答えが、出ない。


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