不可視の声 03 ところが、土曜日のバイトも締めに掛かる頃、厨房ののれんを上げて伊織が言った。 「遊糸ぃ」 「はい?」 「啓斗がさぁ、インフルで明日来られへんらしいねんけど、お前厨房って入れたっけ?」 「えっと、飯作れませんけど、皿洗いくらいなら」 「てんちょー、遊糸皿洗い入れるってー」 「芋の皮剥きくらいも出来んだろ!」 振り向いて伊織が厨房の奥に声を掛ければ、店長のだみ声ががなり返す。ちなみに別に怒っているわけではなくて、これが彼の通常のトーンだ。遊糸は笑う。 「はい、出来ます!」 「よっし明日10時に来い!」 「え、早過ぎません?」 「てんちょーが昼奢ってくれんねんて。ついでに『狩ろう』って」 「絶対『ついで』の順が逆でしょ…。…店長、さすがにフルフルに殺されないくらいにはなったんすよね?」 「白いのにはな!」 「亜種はあかんらしいで」 厨房から誇らしげな声が応じるが、こっそりと伊織がにやにやと耳打ちする。あまり上達はしていないと考えて良いだろう。 そんな下らないやりとりも楽しくて、遊糸は明日の勤務を快諾した。 けれど、となると学校近くであるバイト先から、家までは少し距離がある。上がりは深夜、普段はのんびり歩いて帰っているところだが、そうしていたら明日の体力にやや不安が残る。 家に帰って、なにもなければ良いのだが。 浮かない顔で思案する遊糸に、伊織が言う。 「もう1日泊まるかぁ? 昨日の服も乾いてるやろーし」 「…いいんですか?」 「ええよー、気ままなひとり暮らしやし」 ──…不可抗力、だよな…。 きちんと帰るつもりだった。 でも、バイトの都合で帰れなくなった。 ただそれだけだ。 ありのままをメールに書いて、橘に送信しておいた。 『わかった。気を付けて』と返信が来て、安堵した。 [*前] | [次#] 『カゲロウ』目次へ / 品書へ |