戦国msu | ナノ





豊久よ、お前もいよいよ一端の妖力が付く歳になった。掟に習い女を孕ませよ。

伯父が言ったことを思い出しながら、早速見つけた獲物である、初めて見る人間の女を離れた木の上から狙っていた。

豊久はヤマコという猿の怪であった。雄ばかりしか生まれないヤマコは、子と親の境目の妖力が付く歳になると、人里におりて苗床探しをする風習があった。種の存続の為に、人間の女と結ばなければならなかった。
その形は様々で、人里に下りて人間に成りすまし、そのまま人間界に馴染んで暮らしていくものも居れば、ヤマコの山里に攫ってきて強引に事に及ぶ非道な輩も居た。本来在るべきは後者なのだが、年々人間と分かり合いたいと考えるヤマコが増加していたのだった。

だが、豊久はあえて後者の考え方に賛同していた。懸命に修行に明け暮れるあまり、人間を下に見て怪の誇りを重んじるようになってしまっていた。両親が物心つく前に他界してしまったのも影響されているだろう。豊久の母も人間だったにも関わらず、だ。

人間の女なんて、子を生むだけの下等な存在だろ。




人里に下りる途中で、偶然にも山奥に年頃の人間の女を見つけたのだ。
気高い怪の種の繁栄の為、掟に従う他無い。豊久は不快感を抑え、獲物を早々に手中に収めるべく、気配を消して木から飛んだ。

驚異的な跳躍で、山道を掻き分けて歩む女の背後に綺麗に着地した。音も立たなかった。
一歩一歩、徐々に近づいて…。

「捕まえた!」

鍛え上げた腕を女の脇にまわし、羽交い締めにした。我ながら隙もなく綺麗に仕留められた。誇って攫おうと、女をしっかり抱え直そうとした。

「よ、よかった、人がいた!」

だが、羽交い締めにされたにも関わらず、女は恐れるどころか明るい声を上げた。これには豊久も目を瞬かせる。襲われた癖に何故そんな反応なのか。

「人?人間だって、違うぞ俺は誇り高き…」

「よかったよかった!実は友人と山登りがてら山菜取りに来たんですけど、迷子になってしまって。怖くて寂しくて死ぬかと思っていたんです」

下等な人間だと侮辱された気になり、豊久は言い返そうと言葉を発したが、女が高速で一息に感情を露にしたので叶わなかった。
あまりの声の大きさ、初めて聞く女の声の高さに豊久は耳が痛い。頭に響くのを耐え、ムキになり食いかかろうとするが、女は途端に静かになり肩が小刻みに揺れて、途端に嗚咽を漏らし始めた。

豊久は動揺する。明るく騒ぎ立てたと思ったら今度は泣いた?人間の女は訳がわからない。

「えっ、え、どうしたんだよ?」

「あ、安心したら…力が、抜けちゃって…うう」

身を寄せているので嫌でも震えているのがわかる。こいつ一人で本当に怖かったんだな、と考えていると、女の膝ががくんと下がった。足腰から力が抜けたらしい。そのまま豊久が抱えたままでも良いのだが、女の様子が気になってしまい、女の肩を支えてゆっくり地に腰をつけてやった。

「ごめん、なさい…会って早々こんなんで」

背後から俯く女の前にまわって、どう扱えばいいかわからずに豊久自身も落ち着かない。あんなに馬鹿にしていたのに、対面してみれば振り回されっぱなしである。
足りない頭で必死に考え抜き、子どもの頃に泣く自分をあやしてくれた父のように、女の頭に手を乗せて撫でた。恐る恐るだが。
すると女は、触れた瞬間数秒固まったが、すぐに涙を手で拭って表を上げた。

「ありがとうございます」

涙が未だ目尻を光らせているが、少し頬を染め女はふわりと笑った。

豊久は虚を突かれて真顔になるのだが、次の瞬間。
豊久の脳髄に電流が走ったような感覚に陥った。鳥肌が立つ。そして自分でもわかるほど急速に顔面に熱が集まってくるのだ。

あ、俺今、こいつに惚れた。

顔面の筋が緩んだような、締まったような、なんともいえない表情に歪めて、豊久は口を咄嗟に抑えた。
狩りをする筈が、逆に女に心を狩られてしまうとは。初めて会う女にこんなんじゃ、俺はなんて未熟者なんだ。免疫が無いからすぐ惚れてしまうのか?いや違うと信じたい、この子だからだ。
胸が煩いほど脈を打っている。伯父上に何て言おう。

「あの」

「なっなんだ?」

「私は名字名前という者です。貴方のお名前は?」

一人で慌てふためいていると、名前と名乗った女は名を尋ねてきた。自分も人間の女から生まれ、育てられた身だ。名前は人間に通用するだろう。…名前くらいよいだろうか。
自分のすべき事を心に持ってきて、頑張って頭の中を切り替えて、極力普通に答えた。

「…俺は島津豊久。よかったな、俺に会えてて。ここ人はあんまり通らないんだ。おっかない熊も出るし」

「熊?!それは怖い」

「ああ。雌の熊なんだけど、黙ってれば別嬪なのにおっかないのなんのって」

「島津さん熊が別嬪かどうかなんてわかるんですか?凄いですね!」

豊久は再び素早く口を手で塞いだ。つい調子に乗って、普通に怪の話をしてしまった。この熊は普通の熊では無く、甲斐という名の鬼熊である。美しい人間に化けてはいるが、怒らせると手をつけられなかった。
いや、それ以前に熊を別嬪かどうかなんて普通の人間がわかるはずがない。

「お、俺は昔からこの山の育ちで、山のことならなんでも知ってるんだ」

「そうなんですか!素敵ですね島津さん」

豊久は里から降りてくる前に考えた、自分の嘘の設定をそのまま述べる。
人間に溶け込んで女を娶ろうなどど露ほども考えていなかったので、豊久はこれからうまく話せるかとても不安である。
だけど、こいつは逃しちゃ駄目だ。胸の深くからそう思った。

「豊久でいいよ。敬語もいらない、年は多分同じくらいだろ。それに…島津って言われるのまだ荷が重い気がするし」

「じゃあ遠慮なく…えーと、豊久君で。よくわからないけど豊久君は家の事考えてるみたいで偉いね」

すぐ心を開いてくれた事に安堵するが、家の事を深く知られる訳にはいかないので、話題を変える。
名前の腹から腰にかけて手をまわして、軽く持ち上げ立たせた。名前は「わっ」と声を漏らしたが、豊久の力のされるがままに立たされた。

「よし、もう立てそうだな。山の入り口まででいいか?」

「力持ちね豊久君…私重いのに。お願いいたします」

深々とお辞儀をされて、豊久は如何したものかと頭を捻りつつ、流れのままに山の麓まで送る事になった。












「それにしても相当山奥なんだね、ここ。昼過ぎたくらいよ時間なのに暗い」

極力他の人間に見られないように、豊久が深い道を通っているのもあるが、確かに茂っていて光があまり入ってこない。草木を手で薙ぎながら豊久は進み、その後ろを名前が続いた。

「本当におま…名前はなんでこんな深くまで来たんだ?山菜取るなんて、嘘だろ」

如何しようか頭の中で捻りながらも、豊久は気になっていたことを聞いた。豊久が知る限り、人間が山菜取りに足を踏み入れる場所はあの辺りではなかったからだ。

「あ、ばれちゃってたんだね。実は私探し物をしていて」

「探し物?」

「大切なお守り。友達と山菜取ってたのは本当だよ?数日前にだけど。その時に落としたみたいなの」

豊久は掻き分ける手を止めた。

「そうだとしても、一人でよく森に来る気になったな。そういうのって駄目だって叱られるものなんだろ?普通」

「あはは…それを突っ込まれないように山菜取りっていったの。ましてやこの森は妖怪が出るって噂あるし」

名前の言葉は豊久の胸に刺さる。俺はその妖怪なんだ、名前は俺が妖怪だと知ったら恐れてしまうのか。そうだとしたら、例え人里までついていったとしても、拒絶されてしまう結果なのか。妖力や術で何とか誤魔化せるにしても、何時かはボロが出るだろう。
…こんな思いをしてまで、先代達は人間界まで馴染みに行ったのか。どうせ傷つくくらいなら、攫った方がよっぽどいい。
目に光をともして、豊久は拳を握る。当初の意思が蘇って、全身に力がこもる。
攫ってしまおうか。

その時、背後の名前は笑いながらこう言った。

「お守り、亡くなった祖父がくれたものなの。刺繍が綺麗って私が眺めてたら、普段厳しい祖父が珍しく買ってくれたんだ。病気で死ぬ直前だったから、きっと自分の死期を悟ってたんだろうね。…でもま、結構年代物でボロボロだったし!自分なりに探したんだからよしとするよ」

笑いながら話しているくせに、何処か気が漫ろな言い回しだった。振り向かずに目だけで名前を見ると、目はまた少し潤んでいた。
拳の力は自然に緩まっていき、豊久は平静を取り戻した。

やはり名前を攫うわけには、いかない。

豊久は名前の手を握って、足を進め始めた。

「もし名前自身になんかあったら、爺さんに怒鳴られるぞ。一人で森に来るなよ、危ないからさ」

「あはは、うん、もう来ない。約束します」

小さな掌を、しっかり自分の手で包み込み、誘導する。今度は迷いなく真っ直ぐと進んだ。名前を山の麓へ返すべく。

ちらりと高い木の枝を見ると、鳥が数羽とまっている。豊久は鳥に目配せをして、それに気づいたのか、鳥は数度鳴いてから、何処かへ羽ばたいていった。







「わあ、ついた!」

麓に着く頃には、日が傾いて夕方になっていた。山の出口から見晴らせる街や遠くの山々、空が美しく茜に染まっている。景色の良さに名前は豊久を抜かして、開けた場所で眺めを楽しんだ。

喜ぶ名前を他所に、豊久はこっそりと木の陰に隠れた。すると、先程目配せをした鳥が、所々破れた古いお守りを咥えて豊久の前に飛んできた。

「ありがとな、後で礼する」

先程目で鳥にお守りを探すよう頼んでいたのだ。帰る前に見つかってよかった。お守りを受け取ると、鳥達はまた山へと戻っていった。

古いお守りを見つめながら、豊久は思う。人との縁には、何か意味があるんだと。そして人と妖怪はそう変わりないものなのだと。先程の名前の顔を思い浮かべて、お守りを軽く撫でた。

木の陰から出ると、名前が小走りで駆けてきた。安堵と感動からか、目が輝いている。その表情が豊久には眩しすぎて、照れて少し目線を空に投げた。
暗くなる前に送れてよかった。

「豊久君、今日はありがとう」

「礼言われるのはまだ早いよ。これ」

お守りを差し出すと、名前の顔は殊更に明るくなった。

「うそ!どうして?」

「その辺の木の根元に落ちてた。おっちょこちょいだな」

「な…なんだ!入り口らへんに落ちてたのね。本当私ドジで。でもよかったあ…。本当に本当にありがとう、豊久君」

「よ、よかったな」

お守りを受け取り大事そうにそっと手で包んで、大層嬉しそうな笑顔で礼を言われた。今日一日付き合ってきたが、今迄のどの笑顔より眩しく、美しく見えた。豊久の胸が跳ねる。

「何か改めてお礼がしたいの。よかったら、連絡先を教えてくれるかな」

「礼なんかいいよ、それよりさ…」

お守りを鞄にしまいながら、名前は携帯を取り出す。豊久も知ってはいる機械だが、それよりも今は名前に伝えたい事があった。

「なあ、家はそんなに遠くないんだろ?今度は俺が一緒だからさ、また森に来てくれよ。…というか、来なきゃ俺がお前のところに行く」

「ぶはっ!豊久君可愛い。お礼もしなきゃいけないし、絶対また来るよ。今度はお勧めの場所に案内してね」

豊久自身ではかなり勇気を振り絞って伝えた筈のだが、名前はその懸命な様子が幼く見えたらしい。吹き出してあやされる言い返しをされた。先程から思っていたのだが、もしかして年より若く見られてるのか?

もしそうだとしても、次会う時迄に隠し通せない。隠し通したくない。拒絶されるなら、早い方がお互い傷つかない。

すると、豊久の周りを急に渦巻いた風が包んだ。名前は驚いてただ立ち尽くすが、豊久の様子を目に写しているとー。

「豊、久くん…?」

瞳は黄色に、八重歯や爪は先程より尖り、髪の毛が雄々しく逆立った。そして何より名前は豊久の背後から伸びるものに目がいった。

「…尻尾?」

「俺は猿の怪。人間じゃないんだ…。でも絶対、もっともっと修行して人間に近くなる。努力するから、お前と一緒に…!」

固まる名前に、今度こそ怖がらせてしまったかと悲しむ豊久だが、それでも必死に気持ちをぶつけた。
しかし名前は豊久の側に寄って来て立つと、口を小さく動かして呟いた。

「…か」

「…か?ぎゃん!」

「可愛い…。あっごめんなさいつい驚いちゃって変な行動を」

くるくる長く伸びる猿の尾に、呆然としていたと思っていた名前が、急に両手で鷲掴みにした。感覚が研ぎ澄まされている尾を強く掴まれて、豊久は悲鳴を上げた。
しかも、この姿を恐れられるどころか可愛いとぬかした。本当に人間は予測できない。

「ごめんなさい、痛かった?」

「痛いとかじゃないけど、吃驚した!ここはあんまり触っていい場所じゃないんだ!」

「敏感な場所だったのね?ごめんね…っあはは!やっぱり可愛い」

腹を抱えて笑う名前に、豊久はまだじんわりとあたたかい尻尾を丸めて摩った。あれ、怖がっていない?

「名前は俺が怖くないんだな」

「えっ、妖怪って言われてすんごく困惑してるよ。でも豊久君は大丈夫な気がする。豊久くんになら全然憑かれても平気」

拒絶されない事がわかるとより気持ちが昂り、逃すまじと名前を力強く抱き締めた。

「そうか!可愛いっていうのが引っかかるけど、嫌われないなら嬉しい、頼む…俺と一緒になってくれ」

妖怪だと打ち明けられただけでも困惑物だと言うのに、あまりこういう事に免疫が無い名前は、直球に行動に示されてしまって心臓が胸から飛び出しそうになる。が、接している豊久の胸からも早く脈打つ鼓動を感じとると、ああ豊久もとても一生懸命なのだと思う。素直でわかりやすい、それならば自分も誠心誠意接せねばと気を振るう。

「にっ人間はすぐ抱き締めないよ!」

胸を手で押して少し間をとる。豊久もその言葉に慌てて力を緩めた。だが、名前を見る豊久の目は潤んで懇願するおねだりの目であった。
駄目だ気を保て名字名前。人間としての常識を彼に伝えねば。

「もう少し、人間の常識を学んでから来てくれるなら…急に一緒とかじゃなくて、お友達からで。それだったら私も文句なんて…」

「やった!ありがとう名前!」

「わ!だから抱き締めないでって」

想像以上の嬉しい返事だったのか、たった今制止されたにも関わらず、再び豊久の胸板に押し付けられた。今度は大変勢いがよろしかったので、痛い。顔も押し付けられて息ができないので、酸素を確保しようともがき、なんとか顔だけ逃れたのだが。
顔を上げた瞬間に、打って変わって柔らかい感触に包まれた。それも、唇が。目の前には目を閉じた豊久の顔があった。あれ豊久君は思いの外男な顔してるな、ってそうではなくて!
豊久に口付けをされている。理解したら全身が熱くなり、名前は全力で顔を逸らし、押して豊久の顔を引き剥がした。どの流れから、何が起こったのだ。

「うわあああ!」

「あ、ごめん!つい勢いで」

「たがら何でそんなに性急なの?!」

「男ばかりしか生まれない俺たちの掟で、年頃になると絶対に人間の女と夫婦にならなきゃいけないんだ。今日は人里に下りる途中で名前を見つけたんだぜ」

「へえ。そうだったの」

「本当なら攫ってもいいんだけど、俺は名前に惚れたんだ」

「?!」

突然の告白に、名前の脳はついていかず、体だけが異様に熱くなった。きっと今自分は真っ赤だ。抱き締められたまま話しているので、顔は至近距離から変わらない。その距離で先程の懇願する瞳に見つめられているのだ。最早名前の頭は一杯一杯である。

「嫌か…?」

「…嫌では、ない」

なんとかそれだけ返事をすると、豊久は満足したのか、やはり制止も聞かずに再度唇を落としてきた。

きっとこれから想像できないような、波瀾万丈な日常が来るに違いない。

------------------------------------------------
ヤマコ(カク猿)
猿の妖怪。山中の林の中に潜み、人間が通りかかると、男女の匂いを嗅ぎ分けて女をさらい、自分の妻として子供を産ませる。子供を産まない女は山を降りることを許されず、10年も経つと姿形や心までが彼らと同化し、人里に帰る気持ちも失せてしまう。
(Wikipedia参照)

back


---------------