私の家近くの森、奥の少し開けた場所に、古くから伝わる大樹があった。何百年と前からある木らしく、太くて立派な木だ。田舎の、更に森を少し進んだところとあって、中々人には知られていない場所だった。名前は家の近所ということもあり、その森の大樹にいつも遊びに行っていた。
そしてもう一つ、大樹にはいつも美しい青年が一人、根元に腰掛けて本を読んでいた。その青年に遊んで貰ったり、時には本を読んで貰ったり。とてもたのしく毎日を過ごしていた。
「ねえ、たかかげさんはいつもここにいるのね」
「ええ、此処は気持ちがいいでしょう?絶好の読書場所なのですよ。二人の秘密基地ですね」
「えへへ、そうだね!二人の"ひみつきち"だ!」
幼い名前は秘密、という言葉に大層喜んだ。そしてその日も上機嫌で隆景と名のる美しい青年と遊ぶのだった。
ある日、名前はこの場所で遊び尽くして少し退屈して、隆景に切り出した。
「ねえたかかげさん、私のお家であそばない?おばあちゃんがおもしろいカルタをくれたの」
いつもどんな我儘を言っても、全てに付き合ってくれた隆景だから、自分の家に来てくれるだろう。そう思って聞いたのだが、隆景を見ると、少し眉を下げて申し訳なさそうに言った。
「すみません名前、とてもお邪魔してみたいのですが、私は遠慮しておきます」
隆景に初めて断られて驚く名前だったが、今まで散々我儘を聞いて貰っていると自覚していたので、それならばと立ち上がった。
「たかかげさんは本当にここがすきなのね」
「…ええ、此処が、好きなのですよ」
隆景は返事に間を空けたが、幼い名前には察する事はできない。
「わかった!じゃあ敷物とカルタを持ってくればここであそべるよね。そしたらあそんでくれる?」
「はい、勿論。喜んで。」
「とってくるからまっててねー!」
「気をつけて、前を向いて走りなさい!」
それからも、何度か他の場所で遊ぶ様に提案したのだが、何度何処を指名しようが隆景は断った。申し訳なさそうに、その都度断るのだ。そのうちに段々名前も、隆景はこの場所でしかな遊べ無いんだと察しがついてきた。
だがそれなら自分から会いに行けばいい。隆景の悲しい顔は見たくなかったので、その後も名前は色々な遊び道具を持っては通い続けた。それは小学生になっても続いた。
隆景はいつもそこにいた。晴れの日も曇りの日も。名前が訪ねるのは保育園や学校が終わる昼から夕方にかけてだが、何時でもそこに居た。
ある日。台風の影響で学級閉鎖になり、早めに帰宅したことがあった。名前は心の中でもやもやと隆景の事を思っていた。
まさかね、こんな日にまで。
そうは思っても、今までの例を考えると可能性は高い。居ても立ってもいられず、自分は雨合羽を来て父の予備の傘を片手に大樹まで向かった。
「隆景さん!」
「!名前…」
名前はつい隆景に抱きついてしまった。やはり隆景はそこに居たのだ。風が轟々と吹き荒れ、雨が槍の様に降り注ぐ。それでも彼は居たのだ。名前は隆景に必死にしがみついて泣いた。「やっぱり、来てしまいましたね…優しい子だ」と困った声で頭を撫でられるが、名前は泣き続けた。彼はこの天気なのに、一滴も濡れておらず髪も服も乱れていなかった。薄々と隆景が普通の人間ではないと理解してしまったのだ。
そして思ったのだ、可哀想だ、と。この人は自分が行かなきゃひとりぼっちなのだと。
中学生になると部活動が活発になり、帰宅時間が遅くなったが、暗くなっても隆景の元を訪れた。
「こんなに遅くに森に来るなんて。無理しなくて良いのですよ」
「え、何を言ってるんですか隆景さん。試験対策会ですよ。隆景さん頭いいんですから、利用しなくちゃ」
名前はあの夜からも変わらず隆景に接した。水に濡れない事、いつも此処にいる事、そして彼が年を取らない事。聞いてしまったら関係が終わってしまう様に考えていた。だから名前は聞かなかった。
隆景は名前が気を回している事に気付いているようだが、それでも無視して聞かなかった。
「よし、ノルマ達成!帰ります。お休みなさい隆景さん」
「はあ、全く…貴女には敵いません。お休みなさい、名前」
真っ暗な中帰宅するのだが、今までに一度として危険な目にあったことは無かった。名前は、隆景が何かしらの方法で守ってくれているのだろうと確信していたので、余裕綽々だった。
「名前、貴女にはもう会えません。明日から来ないでください」
高校3年生、受験にも合格して、大学の進学も間近に迫った頃。隆景の元に訪れると、第一声で隆景が言った。受験も終わり、漸く隆景との時間がまた取れると喜んでいた矢先だった。隆景は何時に無く厳しい表情をしている。あんな顔初めて見た。
今まで一度も拒絶されたことが無かったので、頭を金槌で殴られた様に響いた。
「え、急にどうしたの隆景さん」
「私の本名は隆景ではありません。ドリュアス、ドリアード。人々は我々をそう呼びます」
「ドリュ…?」
「この大木の化身とでも言いましょうか」
隆景は大樹を撫でた。名前に驚きは無く、それどころかしっくりと納得していた。付き合いの年月がこれだけ長いのだから仕方が無い。だが何故拒絶されるのか。
「私は貴女が初めて此処に訪れた頃から、貴女を引き摺り込んでやろうと狙いをつけていたのですよ。精気が豊富になる年までか待とうと、何年もね。こんな森に来る人間は中々居ませんから」
「…」
「しかし、貴女の顔は見飽きてしまいました。暇つぶしにと今まで付き合って来ましたが、私は好みの女性の精気が欲しい」
名前は、すぐにこれは嘘だとわかった。隆景が言うとおりならば、これだけの年月をかけて待っていた獲物だというのに、飽きたという安直な理由で手放す筈がない。それに、自分を逃がしたら、こんな場所本当に人っ子一人来ないのだ。次の獲物が見つかるまで何十年、もしかしたら何百年待つかもしれないのに。
「…またうんと長い月日を、一人で過ごすつもりなんですか?次の獲物が来るまで?」
「ええ、私にとっては十年二十年はほんの一瞬のようなものですから」
「これまでの私と接していた時間も?」
「瞬きの間ほどの時間潰しでした」
これには、名前も胸が抉られた。自分にとって生きてきた半分を捧げたような人物に、こうまで拒絶の言葉を浴びせられるとは。
いや、急にあの隆景がこんな強行策取るわけない。理由がある筈だ。でもー。
大粒の涙が零れた。例え拒絶されたとしても、自分は今までと変わらずに此処に来てしまうだろう。いつも大樹の側に居て、儚くて、私が見えなくなるまでずっと見送ってくる癖に。
「私は隆景さんが好きです。人間の短い一生ですけど、私はその半分を貴方に捧げる覚悟があります、隆景さん」
隆景は表情を歪めた。それは、いつも帰り際に悲しそうにする表情の何倍も苦しそうだった。無意識に名前に向かって一歩踏み出す、が、目を固く瞑り、止まった。
隆景が大樹を一撫ですると、突風が吹き荒れた。あまりの勢いに目が空けていられず、名前は反射的に目を瞑っててで顔を隠した。
「貴女は人間の時を生きなさい。名前…大好きな名前」
突風の最中、隆景の声が耳元で聞こえた。それはとてもあたたかくて、悲しい声だった。
「こっ、この嘘つきお化けー!!」
叫んで届いたかはわからない。だが突風が止む頃には、大樹に居た筈が名前は一人森の入り口の前で佇んでいた。
それから何度も大樹まで行こうと試みても、また入り口まで戻って来てしまうのだった。隆景の仕業に違いない。
隆景は自分の将来の事を思っての行動なのだろうが、名前はそんな事これっぽっちも望んでいなかった。
こらからもあの大樹の根元で、ー。その一心で名前は毎日通った。
その行為は大学生3年生まで続いたが、大樹までたどり着けることは一度も無かった。
そんな行動を家族は不審に思わない訳が無かった。名前の両親が、名前が不在の時に、娘が通う森に立ち入った。するとどうだろう、何時かに幼い頃娘が話していた大樹があるではないか。こんなところに毎日通っていたのかと、両親は気味悪がった。霊や怪奇現象の類いを一切信じない両親だったが、業者を雇ってこの木を伐採することに決めてしまったのだった。
「なっ、お母さん達、あの木まで行けたの?!」
「行けたも何も、そう深くにある場所でも無いし。だから貴女も小さい頃からあそこにかよっていたんでしょう?一体何をしているの?心配にもなるわ」
「!」
母の言葉を最後まで聞かずに、名前は家を飛び出した。行き先は、森。
お願い、繋がって。
そう思いながら直向きに大樹目掛けて走った。何時もの山道、木々、そしてー。
名前は眼前に広がる見慣れた大樹に両手を思い切りついて、洗い息が整わない内に、叫んだ。
「なんで?!なんで私は通さないで両親は通しちゃうの?お陰で隆景さん、着き次第人間に切られちゃうんだよ。隆景さんの事だから、人間の時に身を任せようとでもしてるの?ふざけないで!その前に、私を引き摺り込んでよ、私の時間を貴方に預けさせて…!」
瞬間。幹が裂けて隙間から伸びてきた。枝が、葉が。
名前の身体中に絡まりついた。だが、最終的に伸びてきたのは見覚えのある腕だった。腕が背に腹に絡まり、包まれた。ゆっくりと目を開けると、あたたかい香りがする、変わらずに美しい青年の胸の中だった。
「私は貴女に初めて会ったあの時から、貴女の時の一部として捕まっていたのですね」
隆景は泣きじゃくる名前の顎を掬い上げ、そっと口づけをした。
「もう…独りは疲れました。今度は、私が、捕まえた」
ずるり、と唇を舐められた瞬間。名前は隆景に抱かれたまま、幹に覆い包まれていった。最早来た道など振り返る気も起こらない。
捕まった。
視界には隆景しか映らない。
その後、大樹は予定通り切り倒された。同時に名前は行方不明になり、両親は大層後悔したそうだ。
だが、大樹の根はもはや彼方此方に長く伸び、いくら取り除こうとも絶やす事は出来なかったという。
-------------------------------------------------
木の精霊ドリュアス(ドリアード)
ドリュアスたちは普段は人前に姿を現すことは滅多にないが、美しい男性や少年に対しては緑色の髪をした美しい娘の姿を現し、相手を誘惑して木の中に引きずり込んでしまうことがあるという。そこで一日を過ごしただけで、外では何十年、何百年もの時が経過している場合がある。
自らの宿る木から離れる・木が枯れる・切られるとその命を閉じる。
(Wikipedia参照)
● back