入水願い 国が敗れた後に残ったのは山河ではなく残された悲しみと喪失感だけだった。 蜀という国が無くなって幾度目の朝だろうか。陽光が殆ど物が無い部屋を照らした。 丞相の、私の、蜀の願いは果たされること無く幕を閉じた。いや、既に蜀の願いでは無かったのかもしれない。 度重なる北伐には蜀内部からも批判が相次いでいた。劉禅様も口には決して出さなかったが、きっと嫌気が差していたのだろう。それでも。 姜維は寝台の横に置かれた机から紺色の紐を取り髪を結う。着替えたあとの寝間着を侍女に渡すと、朝餉も摂らず、足早に邸宅を出た。 「姜維殿、奇遇だな。どこかへ行かれるのか」 邸から出て直ぐの角で、聞き慣れた声が飛んできた。 とっさに振り向くと、そこにはやはり見慣れた姿があった。 「これは……鍾会殿。ええ、少し気分が晴れないので散策でもと」 「ならば私もお供しよう。私も丁度暇でしょうがないところだ」 別に、あなたを待っていた訳じゃない、と鍾会は続ける。髪を弄る手が忙しいのを見る限り嘘なのだろうが、姜維は何も言わず笑顔で返し、では御一緒に、と鍾会の手を取った。 触れた瞬間、鍾会の頬が一瞬赤くなったのを姜維は見逃さなかった。 時たま擦れ違う文官らと挨拶を交わしながら歩みを進める。鍾会は少しつまらなさそうに下を向く。 「鍾会殿、どうかされたか」 「なぜそんなことを聞く?」 いえ、あんまりあなたが下を向いているから、と続けた。鍾会は姜維から目線を逸らして眉を寄せた。 「あなたが、私以外を見ているのが気に入らなかった。それだけだ」 鍾会の頬が少し赤くなる。姜維は目を見開くと、手を口許に当ててくすりと笑った。 「あなたにそこまで大切に思って頂けるなど、私は幸せ者だな」 鍾会の顔がみるみる赤くなり、見開いた目を二回瞬きさせた。そのまま顔を背けると、何も言わず姜維の手を一層強く握りしめた。 朝の柔らかい光が目にしみる。擦れ違う人の数も増え、この地も活気に満ちてきていた。 鍾会は襟元が少し崩れてきたのに気付き、姜維と繋いでいる方の手とは別の手で器用に直す。姜維は空いている方の手でそれを手伝った。 「すまない、姜維殿」 「いえ、それより鍾会殿。そろそろ朝議の時間なのではないか?」 ああ、と返すと鍾会はくるりと踵を返す。 そして上目遣いで姜維を見、今夜私の邸に来てほしい、と言った。 その言葉に姜維は笑顔で答え、朝議に向かう鍾会の背中を見送った。 鍾会と別れた姜維は一人自邸へと戻る。その表情は先程のものとはうってかわって険しい物であった。 >> |