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「目をあけて、見えたものだけが世界じゃない。そのことを理解してくれたら、俺は嬉しい」


兄さんがホグワーツに入学する前のことだった。


視線を合わせるように兄さんは片足を床にあずけ、幼子をあやすかのようにゆっくりと僕の頬を撫でた。
目に映る兄さんの瞳は、幼い頃から読んでいた物語に出てくる主人公の瞳そのものだった。
希望に満ち溢れていて、シリウスという名に恥じない輝きだった。


目をあけて、見えたものだけが世界じゃない。


それなら、目をあけた時に見える世界とは一体何のことを指しているのだろうか。


兄さんにとっての世界とはなんだろうか。
僕の目に広がる世界は、兄さんの目に広がる世界とは違うもので、兄さんは僕の見ている世界が正しくないと、僕に目を覚ませと言っているのだろうか。


だからこそ言葉に戸惑うのだ。


目をあけて、見えたものだけが世界じゃないと兄さんは言った。
なら、僕の瞳に映る兄さんは最早、物語の主人公でなくなってしまったのか。それとも、最初から主人公などではなかったのか。シリウスという名に恥じない瞳の輝きは偽りだというのか。


「世界なんて、理解できそうにない」


目をあけて見えたものだけが世界じゃないと、確かにそう言ったのに、兄さんはいつだって世界を、真実を、真相を見せてくれない。


兄さんの世界がどういうものなのか、想像こそは出来たけれど、この家で直接本人の口から語られることはなかった。
見せようとしないものを理解することなんて出来るはずがない。


それに、僕の世界を否定されているようだった。
自分の世界が真実とでもいうかのように、兄さんは僕の頬を撫でる。
悔しさとも悲しさとも寂しさとも判断がつかない感情から唇を噛みしめる。


いつだってこの手の体温が、僕自身の世界を、そして真実を知ろうとする僕の目を塞ぐのだ。


***


「久しぶりですね、名前」


本当にどこにでもやってくるんだな、と思いながらスリザリンの談話室に現れた名前を見る。
彼女はホグズミード村で別れた時のような笑顔を見せてはくれず、少し困ったように笑った。


「久しぶり、レギュラスくん。だいぶ身長が伸びていたから驚いちゃった」
「以前会った時から二年経っていますからね」
「…そっか。もうそんなに経っていたんだ」


呟くように言葉を吐いた彼女に対して、首を傾げる。


あの日から二年経っていることに気付いていないのだろうか。
そもそも彼女に時間という概念はあるのだろうか。


「それにしても、少しだけ身体が透けていませんか?目の錯覚でしょうか」


ホグズミードで出会った時よりも、心なしか彼女の姿形がぼんやりとして見えるのは気のせいだろうか。
このことも、彼女の存在が僕以外の人には見えないこと、グラスに触れられなくなってしまったこと、寒いという感覚が消えてしまったことと、何か関係があるのだろうか。


「だいぶ妖精らしくなってきたと思わない?」


名前はそれだけ言って笑った。


名前と会うのは、これで四度目になる。
彼女のことだからここがホグワーツだと知ったら、案内しろと言い出しそうだった。
だから、そう言われる前に釘を刺しておこうと思った。


「それで、今回は何をしたいんですか。言っておきますけど、就寝時間を過ぎているのでホグワーツ城内は案内できませんよ」
「ううん、大丈夫。今日はレギュラスくんと話をするために来たようなものだから」
「…話?」


尋ねれば彼女は静かに頷いた。
この静けさが少しだけ怖かった。いつもの彼女は少しばかり、というよりも大分騒がしかったから。


一体何の話だろうか。
その表情からは何も伺えない。


「時間がないかもしれないから単刀直入に言うね」


頷けば、彼女は言葉を続けた。


「もしレギュラスくんが今、死喰い人になっていないのなら、先の未来でヴォルデモート卿の傘下に入るのは考え直してほしいの」
「…どうしてそれを」


どうしてそのことを知っているのだろうか。
そう思ったけれど、彼女はやけに勘が良かったことを思い出す。


随分と昔、彼女は僕に、兄さんとの関係を尋ねたことがあった。
僕は穏便に済ませようと思って答えを返したけれど、逆に勘付かれてしまい、堪らなくなり席を立った。
全てを見透かしてしまいそうなこの瞳が怖った。


彼女の種族が"あの方"のことをどう思っているのかは分からないし、彼女が"あの方"のことをどう思おうとも関係なかった。


けれど、僕が"あの方"を崇拝しているということを知られるのだけはまずかった。
僕はホグワーツ在学中の身だ。


「レギュラスくんは覚えていないかもしれないけど、私は君が幼い頃、君に幸せを運ぶことを約束した。だからその幸せのために、死喰い人になるのだけはやめてほしいの。私はこの世界に干渉できない。だからレギュラスくんが死喰い人になろうとしていることは誰にも言えないし、誰かに頼ることもできない。私がこの世界で唯一干渉することのできる人物はレギュラスくんだけなの。君の幸せのためには、君自身が死喰い人になることをやめなくてはいけない」


一気にそれだけ言うと、彼女は僕の回答を待っているようだった。


僕はというと、昔のことを思い出していた。


きちんと覚えている。
幼い頃の僕に、名前は必ず幸せを運ぶと言ってくれた。


僕はそう言ってもらえて、幼いながらも信じていたし、期待もしていた。
けれど一年、二年と過ぎていく中で彼女は本当に実在していたのだろうかと思うようになった。
そもそもあれは、僕の夢の中の存在なのではないのかと、あれは幻想だったのではないのかと思った。


けれど、僕の目の前に現れた彼女は確かに実在していた。


僕に幸せを運びにきたという彼女の言葉と、ホグワーツに入学する前、僕の頬を撫でた兄さんの言葉が重なった。


双方とも、僕の幸せを願っての言葉かもしれない。
けれど、「目に見えるものだけが世界ではない」と教えてくれた兄さんの言葉は、まるで僕の世界を否定しているようだった。
僕に幸せを運ぶと言った彼女の言葉も同じだ。


双方が願っている僕の幸せと、僕の願っている僕の幸せが違う。
価値観が違うのなら、どう話し合っても解決することができない。
だから僕はあの日、兄さんに言ったのだ。


「世界なんて、理解できそうにない」


兄さんが、僕の目に映る世界を否定するように。名前が、今の僕の世界を否定するように。


僕だって兄さんの、彼女の世界を理解できない。


結局兄さんの世界を否定した僕は、その後、兄さんと多く会話を交わさなくなった。兄さんが家を出ていった後に関していえば、一言だって会話を交わしていない。そもそも、あの言葉は僕の幸せを願っていたからこそ出たものなのかさえ分からない。


兄さんと母さんとの関係は、年々悪化していった。
兄さんはその度に僕と比較されていたし、それが面白くなかったのかもしれない。気分が悪かったのかもしれない。


だから母さんに従う、家風に従う僕を取り込もうとしたのかもしれない。
そして母さんに、「ざまあみろ」と一言言ってのけたかったのかもしれない。


今となっては、兄さんが僕のことをどう思い、そしてどういった気持ちであの言葉を発したのか分からない。
兄さんはいつだって、言葉の真相を教えてくれない。兄さんの世界の真実を見せてくれない。


なら、目の前の名前はどうなのだろうか。
彼女の世界の真相は、真実は一体何だろうか。


「一つ聞いてもいいですか」


尋ねれば、彼女は頷いた。
ずっと前から聞きたかったことだった。


「あなたは僕を幸せにすると言った。そのために死喰い人になるのをやめてほしいと思っている。なら、あなたの想像している僕にとっての幸せって、一体何ですか」


彼女は押し黙ったままだった。
しばらくしても何も答えてくれない彼女にどうすればいいのか分からなかった。


けれど、名前も兄さんと同じなのだろうかと思うと、堪らなくなった。
口を開いてしまえば、あとはもう止まらなかった。


「あなたは僕を幸せにすると言った。そのためには近い未来、僕が死喰い人になるのをやめて欲しいとも言った。まるでそれが、僕の幸せに繋がるかのように。確かに、あなたは僕の知らない新種の妖精だ。あなたには、僕の未来を予測する能力があるのかもしれない。それ故の忠告なのかもしれない。幼い頃にした、僕に必ず幸せを運ぶという約束を守る義務があるのかもしれない。だからこそあなたは僕にこのタイミングで会いにきた。僕が死喰い人になる前の、このタイミングで忠告しにきた。僕の遠い未来の幸せのために。……でも、それじゃあ」


止まらないと思っていたはずの言葉が止まった。息が詰まりそうだった。
喉の震えが、言葉に直接振動した。


「…それじゃあ、今の僕はどうやって幸せになればいいんですか」


まるで、彼女に縋るかのように呟いた。


兄さんがグリフィンドールに入った。
その数年後、家まで出ていってしまった。


家を捨てることは簡単だ。
なら、家に残された者はどうすればいい。


泣き崩れる母さんを僕はどうしたら良かったんだ。
どうしたら、以前のようなブラック家を取り戻すことが出来るのだろうか。
僕なりに必死だった。


ブラックの家風にしがらみは感じなかった。
純血こそが全てだと信じて疑わなかったし、今だって間違ったことをしているとは思わない。


だからこそ、偉大なる"あの方"のお役に立てることが出来るのならそれで良かった。
僕が死喰い人に入ることを母さんも喜んでくれた。ブラック家の名誉だと言ってくれた。


昔のようにはならないけれど、少しずつ家が修復されていくような気すらしていた。


それなのに、それなのに、だ。


幸せを運ぶという妖精が、僕の今の幸せを否定する。
死喰い人になるのをやめてほしいと言った。
けれどその言葉は、まるで僕自身の遠い未来のために、家を切り捨てろと言っているようなものだった。


僕が、僕自身の遠い未来のために死喰い人になるのをやめるのなら、それじゃあ、今の僕は、ブラック家は、母さんは、どうやって幸せになればいい。


「幼い頃に僕と交わした約束を忘れずにいてくれて、本当に嬉しく思います。僕は、あなたがまた現れてくれて嬉しかった。僕を幸せにするという約束を守ろうとしてくれて、本当にありがとう」


それでも。
少しだけ深呼吸をしてから、まっすぐと名前の瞳を見つめた。


「それでも、僕自身の遠い未来のために、家族を見捨てることはできません」


彼女の瞳にどんどんと涙が溜まっていく。
拭うために触れようとすれば、それだけで溢れてしまいそうだった。

手を伸ばせば、彼女は僕から一歩距離を置いた。
そして小さく口を開く。


しかし、彼女が僕に何かを伝えようとした瞬間、光が視界を遮った。


一瞬だった。名前の姿がどこにも見当たらなかった。
彼女は、時間がないと言っていた。もしかしたら、その時間がきてしまったのかもしれない。


せっかく幸せを運んでくれると言ってくれた彼女の世界を否定してしまった。
彼女はもう一度会いにきてくれるのだろうか。
もう二度と会いにきてくれないのだろうか。
分からなかった。


自分の答えに後悔はしていなかった。
それでも答えを出した後、名前の表情を見るのが怖かった。


傷付けてしまったかもしれない。
せっかく、遠い未来の僕のために会いに来てくれた。忠告してくれた。
けれど彼女の、彼女の想像する僕にとっての幸せを否定することしかできなかった。


「…名前、またいつか」


既にいなくなってしまった君に対して呟く。


我が侭かもしれない。
彼女の世界を否定するだけ否定した自分が言うような言葉ではないと分かっていた。


それでも、こういった突発的な形ではなく、きちんと君と話をして別れを告げたかった。


たった一度でいい。
せめてもう一度だけ名前に会えることが出来るのならと、そう思わずにはいられなかった。



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