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「妖精さん?」


妖精なんて言われたのは生まれて初めてだった。
しかし、ここが現実の世界ではないのなら、私の人生において「妖精」と呼ばれたことはノーカウントになってしまうのだろうか。


そんなことを考えながら、広がる現実から目を背けようとした。
けれど、それが出来なかったのは肌に突き刺す寒さが原因だった。


おかしいなとは思っていた。今、日本での季節は夏に向かっていたはずだ。
だからこそ私はパジャマを長袖長ズボンから半袖半ズボンへと衣替えをしたのだ。


クーラーを使うのはまだ早かったため、扇風機を強に設定して眠りにつくのが日課だった。
本当に出ているのかは分からないけれど、マイナスイオンのボタンを押すのも忘れなかった。


それなのに、だ。
ここは一体どこで、何月何日なのだろうか。


どう寝ぼけたらこんな土地にやってきてしまうのだろうか。目の前には見たことのない建築物が広がっていた。


とにかくこの寒さを凌ぎたい。
建物の中に人はいるだろうか、勝手に入ってしまってもいいのだろうか。

そうやって悩んでいると、後ろから小さくパジャマを引っ張られた。
引っ張られたことにより、パジャマの隙間から冷たい風が入り込んで来て、身体中に鳥肌が広がる。


「私を寒さで殺そうとしているのは誰だ!」と後ろを振り向けば、小さな男の子が立っていた。
男の子の背丈は私の腰に届くか届かないかほどで、年齢を推定するのなら四、五歳ぐらいの子だった。


雪のように白い肌、血のように赤い唇、黒檀のように黒い髪を持つ彼は、私が今例えたものの通り、性別こそ違うけれどまるで白雪姫のような子だった。


「どうしたの、迷子かな」


可愛らしさに負けて彼の目線に合わせるようにしゃがみ、髪の毛を小さく撫でる。
男の子はなんの反応も示さないまま私を見続けた。


ここが私の知っている土地でなくて良かったと思う。
まだ夢の世界だと確定したわけではないが、もし仮に現実世界だとしたら、警察を呼ばれていたかもしれない。


最近の子どもは疑い深いというか、デパートで迷子になっていた子どもをインフォメーションまで案内しようと手を引いたら、思いきり泣かれたことがある。あの時は、あやうく御用になるところだった。


けれど目の前の男の子は相変わらず大人しく私の顔を見つめるだけだった。
それでもしばらくすると、男の子は口を開いた。


「妖精さん?」


細い声だった。
けれど私はその声音よりも、男の子の言葉に驚きを隠せなかった。


私は私の人生で妖精と呼ばれたことなんて一度もなかった。
それなのに男の子は、この寒い中、半袖半ズボンのパジャマを着ている私のことを妖精さんと呼んだのだ。


自分で言うのも悲しくなるけれども、妖精さんというよりも変態さんと呼ばれた方がしっくりくる気がした。


今の私の服装は間違いなく場違いであり、私自身が想像する妖精とはほど遠いものだった。


首を傾げたままの男の子にどう返事をすればいいのか悩んでいた。
妖精だと肯定することが彼の夢を壊すことになるのかならないのか、という点が重要だ。


もし仮に妖精を信じていて、それでも他の子どもたちに妖精なんていないと言われているのなら、私が妖精を名乗って「君は正しいのだ!」と、夢を与えた方が良いのだろうか。


それとも、私が自分自身を妖精だと肯定することによって、彼の中にある「妖精」のイメージがぶち壊しになってしまうのなら、否定したほうが良いのだろうか。


そこまで悩んでから男の子の顔を見る。
けれど、彼の可愛らしさを見た瞬間に、もうどうでもよくなってしまった。


「そうです、私が妖精です!君は普段から良い子にしてますか?良い子にしていたらいずれ私が、必ず君に幸せを運んであげますよ」


妖精というものがいまいちどういうものか分からないけれど、それらしいことを言ってみたりした。


良い子にしていたら何か良いことが起きる。そういう教訓めいたものが、神話やら童話なんやらにはつきものだ。
そう思いながら男の子の髪の毛を梳かすように撫でれば、どんどんと男の子の目に涙が溜まっていった。


「ど、どうしたの?」


あまりに突然のことで驚きを隠せない。
また私は子どもに泣かれて、今度こそ御用になってしまうのだろうか。それだけは避けたい。なんとか泣き止んでもらえないか焦るけれど、焦れば焦るほど、どうすればいいのか分からない。


男の子の下瞼が何とか涙を取り留めているけれど、今にも溢れ出しそうだった。


「兄さんと、喧嘩しちゃった」
「え?」
「兄さんの大切にしていたおもちゃを壊しちゃって、怒って家から出て行っちゃった…」


僕のせいで、戻ってこなかったらどうしよう。
呟いた男の子の瞳から、涙がどんどんと溢れ出た。親指でそれを何度も何度も、赤く腫れないようになるべく優しく拾い上げる。


「お兄さんが家から出て行ったのは今日が初めて?」


たずねれば、男の子は首を横に振った。
なるほど、過去にも何度か家を出て行ったことはありそうだ。一度だけじゃないとなれば、この男の子もなかなかお兄さんに振り回されているのだろう。


一人っ子の私は、兄弟喧嘩なんて出来るはずもないからどんなものか分からない。それでも、男の子はどんどんと溢れてくる涙を止められそうにないのだから、きっと悲しくて辛いものなのだろう。


男の子の下瞼からそっと手を離し、再度頭を撫でる。


「大丈夫。お兄さんはきっと帰ってくるよ。今までだって帰ってきてくれたんでしょう?だから泣かないで、家の中でお兄さんを待とう」


そう伝えれば男の子は私の瞳を見つめてから、口を開いた。


「…妖精さんは怒らないの?」
「怒る?どうして?」
「僕、悪いことしちゃったのに」
「怒らないよ!ちゃんと謝ることが出来る子は良い子だもの!」
「良い子?」
「そう、良い子!」
「…それじゃあ、僕にも幸せを運んでくれる?」


たずねてきた彼に対して、満面の笑みで答える。


「もちろんだよ!良い子には妖精さんが必ず幸せを運ぶの!だからお兄さんにきちんと謝ることが出来たら、私が必ず君に幸せを運ぶよ!」
「ほんとう?」
「本当!」


気付けば彼の目からはもう涙が全て溢れ切ったところだった。これでもう大丈夫かなと安堵していると、男の子は先ほどまで掴んでいた私のパジャマからそっと手を離した。


「あのね、妖精さん。妖精さんの言う通り、家で兄さんを待つね。それで、ちゃんと謝る」
「うん、偉い!」
「ありがとう、妖精さん。またね」
「いいえ!お兄さんと仲直りできるといいね」


そう言いながら手を振れば男の子は家路と思われる道を走っていく。
転ばないといいけどなあ、と思いながら見ていると、どうしたことか、また男の子がこちら側へ戻って来た。


「どうしたの?」
「あのね、妖精さん」


息を切らした男の子が、再度私のパジャマを掴んだ。


「レギュラス・ブラック」
「え?」
「僕の名前。忘れないでね!バイバイ」


男の子の言葉を聞いた瞬間、視界を遮られたかのように目の前が暗くなった。


***


目が覚めて飛び込んだ光に、せっかくあけた目を閉じてしまいそうになった。
起き上がれば、見慣れた自室に、見慣れた扇風機。やはり夢だったのかと、ため息を吐いた。


「レギュラス・ブラックかあ…」


私は彼の名前をよく知っていた。
あの有名なハリー・ポッターに出てくる登場人物の一人だ。


まさか夢の中で、しかも幼少期の彼に会うとは思わなかった。
けれど私は、夢に出て来た男の子がレギュラス・ブラックだとは知らないまま接していた。
だから夢の中で彼に会ったという事実が、しっくりとこない。


また夢に出て来てくれないだろうか。
そんなことを思いながら起き上がり、時計についているカレンダーと時刻を確認する。
土曜日、予定は何もなし、現在九時過ぎ。二度寝は可能だ。そう思いながら私は、再び眠りについた。




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