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暫くの間、視線を目の前の本へと向けていたけれど、やはり気になってしまって少しだけ横へと逸らせば、ばちりと瞳が合った。

名前は何をするわけでもなく、座りながら相変わらず僕の姿を見ていた。正直、どうすればいいのか分からなかった。それでも、自分で選んだことなのだ。ため息を吐きながら昨日の出来事を思い出していた。

***

静かな場所で本を読みたかった。
最初は図書館へと向かっていたのだけれど、兄さんとその友人の姿を見かけて、思わず来た道を戻ってしまった。

兄さんのせいで自分が別の場所を選ばなければならなくなったと考えると少し不服だけれど、気まずさには勝てなかった。仕方ないとため息を吐いて、どこへ向かおうかと悩んでいた。

談話室や自室はどうだろうか。たまには、外で本を読んでみるのも良いかもしれない。悩んだ結果、僕の足が向かった先は屋外だった。

闇の力-護身術入門と書かれた本を開く。暫くの間読み続けていると、影が差し込んだ。見上げれば、つい先日言葉を交わしたばかりの名前の姿があった。ぎょっとした。そんな僕を気にもとめず、彼女は隣に腰を下ろした。

「入学早々、教科書なんて読んでいるの?」
「別に、良いじゃないですか」
「闇の魔術に対する防衛術も良いと思うけど、マグル学も面白いよ。三年生から授業が取れるんだけどね、私たち魔法族から見たマグルの世界と文化を学んだりするの」
「そうですか」
「……レギュラスくんは、マグルについてどう思う?」

マグルについてどう思うのか。
その言葉に自分の指が反応した。

彼女はどうしてそんなことを聞いてきたのだろうか。僕が家風に従っているということを兄さんから聞いてからなのか。それともただ、マグル学が本当に面白いから他人の意見を聞きたかっただけなのか。僕が彼女の立場だとしたら、間違いなく前者の意味を含めて尋ねるだろう。ため息を吐いた。

「詮索ですか」

呟けば、彼女は首を横に振った。

「詮索じゃないよ」
「じゃあどうして」
「ただマグルに興味があるだけ。他人の意見も聞いてみたかったの」
「…そうですか」
「レギュラスくんの家のことについて関係しているのかと思った?」

その問いに対して黙り込めば、名前は笑った。

「家のことについては関係ないよ。私がグリフィンドールを選んだように、レギュラスくんが自分からスリザリンを選んだというのならば、それは個性だと思うし、良いことだと思うの。それに、グリフィンドールとスリザリンは昔から犬猿の仲らしいけれど、私はレギュラスくんともう一度遊んだり、お話したいと思っているよ。だって本当に久しぶりなんだもの。またこうして会えて、とても嬉しかった」

彼女の唇から語られる言葉を聞いて、自分の体温が徐々に上がっていくのを感じた。この体温が表情に出てしまう前に、なんとかしなければ。そう思い僕が取った行動は、本を閉じて立ち上がることだった。

このまま立ち去ってしまおうか。彼女の言葉に反応もせずに、聞いていないかのように、意図的に無視をしているかのように。自分の脳内には名前に言葉を返すという選択肢が無かった。面と向かってあんなことを言われるとは思わなかった。気恥ずかしくて、どうしようも出来なかった。

立ち上がった僕を見て、名前は続けた。

「レギュラスくん。また明日、ここに来て一緒にお話をしよう」

言葉の方へ視線を向ければ、彼女の瞳が僕の瞳を捉えた。体温が表情に出てしまう前に、何とかしなければ。自分の身体なのに言うことを聞かない。全ての体温が、頭に上ってしまいそうな感覚。何とかしなければと、本をぎゅっと握る。
彼女の瞳に捕らえられたまま、言葉を口にした。

「…また、明日」

選択肢に無かったそれが僕の口から出てきた時は、とても驚いた。
それでも、名前の顔を見れば彼女は満足そうに笑っていた。こんな風に笑う彼女を見たのは、久しぶりだった。

***

「今日はこの本を持ってきたの」

懐かしいでしょう。
そう言った彼女の手元には見覚えのある本があった。彼女の言う通り、実物を見るのは本当に懐かしかった。幼い頃、名前がよく読んでいた本だ。あの頃の僕にとっては退屈でしかなかった本だ。今も、そうかもしれないけれども。

「薔薇の花言葉は色によって違うんだよね」

本を捲りながら、名前は薔薇の花言葉を次々と口にする。赤い薔薇は愛情、黄色い薔薇は嫉妬、白い薔薇は尊敬、青い薔薇は奇跡、と。彼女の目線は本に向かっているけれど、薔薇のページは開かれていなかった。

驚いた。彼女は花言葉を覚えているのだろうか。なら、ホグワーツに向かう途中に僕が夢の中で見たあの花の名前と花言葉も、覚えているのだろうか。そう思いながら捲られている本を見つめる。

「ああ、この花」

懐かしい。
彼女が呟いた。本の中に咲いていたのは三本の黄色い花だった。確かにそれは僕が列車の中で、夢の中で見た花だった。彼女は懐かしいと口にしたけれど、何故かこの花を懐かしいとは感じることが出来なかった。つい先日、夢の中で目にしたからなのだろうか。それとも、僕の心に根付いてしまったからなのだろうか。

「金糸梅。やっぱりいつ見ても可愛いらしいね」

名前は写真の中で咲くその花を指先で撫でた。
金糸梅。その花の花言葉は一体、何だっただろうかと、それについて書かれた文章に目をやる。
花言葉は。

「花言葉は、悲しみを止める」

ぽつりと、口にした。
悲しみを止めるという文字から瞳を離せなかった。
そうだ。金糸梅の花言葉は、悲しみを止める。花言葉を口にした僕を見た名前は、再度口を開いた。

「そう。金糸梅の花言葉は悲しみを止める。だけどこの写真を見ていると何故か悲しみを止める、ではなくて、悲しみを止めてと、そう懇願しているように見えるわ」

間違いなく私の錯覚なんだけれども。
そう笑いながら言った。

悲しみを止める。
悲しみを止めて。

金糸梅が、悲しみを止めることはあるのだろうか。
金糸梅が悲しみを止めてと、懇願することはあるのだろうか。

可能性があるとするのならば、間違いなく前者だけれども、花言葉が花自身の言葉ではなく、花を贈る人、受け取る人、植える人のためにあるものだとしたら、どちらの可能性もあるかもしれないと、そう思った。

指先で撫でられている金糸梅が揺れているように見えるのは、僕の瞳が霞んでいるからなのか。それとも、僕の身体が震えているからなのか。
理由なんて分からなかった。

***

名前と別れ、自室へと戻ろうとした時に名前を呼ばれた。聞き覚えのある声だった。むしろ、何年もの間、この声を聞き続けてきた。近頃はあまり、聞かなくなったけれども。

「兄さん」

呼べば、兄さんは僕を見た。
いつからだろうか。兄さんの僕を見る目が変わったのは。僕の、兄さんを見る目が変わったのは。

「お前、最近名前と仲良くしてるみたいだな」
「………」
「昔から名前が大好きで仕方なかったもんなあ。いつも付きっきりで」
「僕に言いたいことがあるなら、はっきり言ったら」

一体何だというのだ。
睨むように瞳を見つめれば、兄さんは一度閉じた口を再度開いた。

「なら遠慮なく言わせて貰うけど、名前を取り込もうとするのは止めろよ」

言葉と同時に、僕の瞳も開かれる。

「…言葉の意味がよく分からないけど」
「とぼけるなよ。最近名前とよく一緒にいるだろ」
「それが?」
「同じ寮になれなかったからって、名前をお前の思想に取り込もうとするのは止めろって言ってるんだよ」

そんなつもりは無い。そう言ってしまおうかと思った。思想だの、家系だの、家風だの、血だの、そんな話はあの日から全くしていなかった。兄さんが何を勘違いしているのか分からなかった。くだらないと、一言で蹴散らしてしまおうと思った。けれど僕より先に、兄さんが口を開く。

「名前がどうしてグリフィンドールなのか分かるか?」

兄さんが笑う。
僕は兄さんのこの表情が、反吐が出ると思ってしまうくらいに大嫌いだった。

「スリザリンを、お前を望まなかったからだよ。レギュラス」

兄さんの言葉を、くだらないと一言で蹴散らしてしまおうかと思った。蹴散らしてしまいたかった。彼女がスリザリンを望まなかったから、何だというのだ。僕を望まなかったのなら、何だというのだ。

それでも、口を開くことが出来なかったのは、金糸梅が僕の瞳の中で揺れたからなのか。
誰かに答えてほしかった。



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