序章

 頭を後ろに撫で付けた番頭は平身低頭して謝罪の言葉を並べ立てた。
「まことに申し訳ありません……! こちらの手違いで、お客様のお泊りになるお部屋が別のお客様のご予約と被ってしまいまして、しかもそちらのお客様は昨日からのお泊りでして……」
「……つまりは部屋がないと」
 しどろもどろの謝罪を嵐は低い声で端的にまとめてみせる。それが番頭には冷静に怒り狂っているようにでも見えたらしい。それまで青かった顔を更に青ざめさせて汗を拭く。丸い顔から滝のように汗が流れているが、このやりとりだけで痩せるのではないかと思うほどの量だった。
「本当に申し訳ありません……」
「はあ……まあいいんですが、他に部屋は……」
 過ぎたことをいつまでもとやかく言うつもりはない。既に夕闇が舞い降りる中、新たに宿を探す気分にもなれない。こんな山間の小さなホテルで部屋を逃せば、野宿必至なことは目に見えている。
 だが、この質問に対しても番頭は苦笑ともひきつった笑いともとれない笑みを浮かべて、嵐に外を見るよう視線をちらちらとさせる。それに促されてロビーの窓から見える外に視線を飛ばすと、山は見事な紅葉に包まれていた。
 夕刻の一瞬、暗闇になろうかという頃に映える紅葉の赤は目に鮮やかである。
 そういえばこのあたりは紅葉で有名だった。
「……紅葉シーズンでどのお部屋も満杯でして……」
「それはよくわかるんですが、どうにかなりませんか」
 頭を抱えつつ番頭は言った。実際問題、頭を抱えたいのは嵐の方なのだが、進展のないやりとりに辟易しているのもあって、どうしても口調が投げやりになる。
 更に、嵐は少ないカウンターの内の一つを陣取る羽目となっていた。そうすると自然に後ろに控える他の宿泊客のチェックインも滞るもので、背中に刺さる視線が痛い。心苦しいのは番頭だけではなく、嵐も同じなのだ。
 一向に答えの出ない番頭に半ばいらいらし始めた時、通りかかった壮年の女性を見かけ、番頭は救いの神でも見たかのような声を上げた。
「あ、ちょっと、数野さん!」
 数野、と呼ばれた女性は足を止め、カウンターまでやってきた。
 ホテルの手伝いをしているのだろうか、手提げ鞄にはエプロンが顔を覗かせている。厚手のコートにマフラーを巻き、完全防寒の格好で出ようとするところから、帰りなのだと察しがついた。
 短めに切った髪を整えつつ、人好きのするふくよかな顔に沢山の疑問を浮かべて口を開く。
「何ですか? 残業は嫌ですよ」
「違う違う。そうじゃなくって、数野さんの家に空きってない?」
「どうかしたんですか? ……こちらのお客様?」
 嵐を示して数野は言った。番頭は大きく頷く。
「こちらのミスでこのお客様と他のお客様の予約を被せちゃって、部屋に空きがないんだ」
「はあ、それでうちに。電話番に新人をつけるからですよ」
「本当に申し訳ない。大丈夫かな」
「お一人様で、一晩ですか?」
 数野に問われ、嵐は頷く。そして数野は頼もしく頷いた。
「わかりました。じゃあお客様さえよろしければ、大丈夫ですよ。どうします?」
 どうする、と聞かれても頷くしかない。野宿か人家か、と聞かれているのと同じことだった。
「……よろしくお願いします」
 数野に向かって会釈する嵐の視界の端で、番頭が本当に救われたような笑みを浮かべる。
 それは嵐がここへ来て初めて見る、彼の心からの笑顔だった。



序章 終り

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