03
椚ヶ丘中学校では、年に一度、校外に出る行事がある。一年はスキー教室で、三年は修学旅行で、二年は東京見学だ。国会議事堂はクラス単位で見回るが、その後は事前に決めていた班での行動となる。なまえはカルマと渚と名前の四人で組んでいた。
ところが四人になるや否や、カルマは他の班から離れるように大通りを避けた。予定とは違う方向へ進む彼を不審に思った三人が追いかけようとしたら、彼はなまえの手首をつかんで引いて、一気に走り出した。「カルマくん!?」渚が声を張り上げると、曲がり際に振り返った彼が人差し指を自分の口元へ添えた。
「俺たち抜けるけど、もし先生に見つかったら人混みではぐれたことにしといて〜」
なまえは角を曲がる時、渚と名前の呆気にとられた表情を見た。けれど有無を言わさぬ力で引っ張られて駆けるのは、悪い気がしなかった。二人で風を切っているとどこまでもいける気がしたのだが、足が疲れてくると残された二人への申し訳なさや、課外授業を抜け出してしまった罪悪感が膨らんできた。
ようやくカルマが走るのをやめ、ゆっくりと歩き出した。まだ息の荒い彼女を気にせず、手首を握る手のひらを滑らせ恋人つなぎにする。
「どこ行こうか。ゲーセン?それとも見たい映画とかある?」
いつもの調子で問いかけるカルマの無神経さに、なまえは腹が立つというよりは困りきってしまった。
「……こんなことしたら、二人に迷惑じゃん!」
「渚君たちだってカップルなんだし、俺らがいるよりいいでしょ」
無邪気に笑うカルマを見て、本当に悪気がないのだと理解した。彼女は先日の渚と名前のやりとりを思い出して、悪いことを悪いと言い合える二人の関係に羨望した自分を強く感じた。
(私はカルマの言いなりになってばっかりだ。こんなのは、よくない)
なまえは勇気を出して、繋いだ手をそっと離した。カルマが違和感を覚えたのか、ふと笑みをけして彼女をまっすぐに見る。
「確かに渚たちも二人になりたかったかもしれない。だけど、それなら相談すればよかったじゃん。急にいなくなるのは勝手すぎるよ」
カルマの足が止まったので、自然と彼女も従う。上から刺さる視線に耐え切れず、なまえは彼の胸の辺りを見つめて押し黙った。
「何それ、俺と一緒にいたくないの?」
「違うよ!そうじゃなくて……」
うまく伝わらない気持ちをもどかしく思いながらも否定しようとするが、カルマは返事も待たずに歩き出した。先ほどよりずっと歩みが速く、あれでも彼が自分を気づかっていたことを知った。
険悪な雰囲気がただよって、彼女は自分の言葉を後悔した。やはり自分は流されるように生きているべき人間なんだと思い知った。もはや追いつくことを諦め、少し離れたところを歩いていると、人にぶつかった。うつむいていたせいで向かい側から近づいてきた人に気づかなかったのだ。
「すみませんっ」
咄嗟に謝って顔をあげると、相手は男子高校生だった。明るい茶色に染められた髪がまぶしくて、不良かもしれないと怯む。なまえが恐る恐る相手の出方を窺っていると、予想に反して彼は笑顔を浮かべた。その柔らかい人懐っこそうな表情に、彼女は思わず安堵する。
「いやいや、こっちも悪かったね。ていうか大丈夫だった?怪我はない?」
「は、はい。私が前見てなかったんで、すみません」
「こんな時間に一人でどうしたの?中学生かな?学校サボってるの?」
矢継ぎ早に問いかけられ、なまえは戸惑った。カルマは背後で起こる出来事に気づいていないらしく、どんどん距離が離れていく。
「ボーっとしてるけど本当に大丈夫?やっぱり痛かったんじゃない?」
「いえ、あの」
人がよさそうな分、振り切って進みづらかった。どう対応しようか彼女が困り果てていると、突然目の前の男子高校生がつんのめるように地面に転がった。びっくりして後ずさったなまえは、先ほどまで彼がいた辺りにカルマが立っているのに気づく。
「……なまえに何してんの?」
彼が走ってきてとび蹴りをかましたのだと理解した途端、血の気が失せた。目の前で男子高校生の背中が踏みつけられるのを見て、なまえは呆然としている場合ではないことを思い出す。もう一度蹴ろうとしたカルマの腕を掴んで走り出せば、不満げな表情を見せたものの、仕方なくといった様子で従った。
しばらく逃げてから隠れるように脇道へ入り込む。なまえは振り返ってカルマに向き直ると、両腕を掴んで「どうして蹴ったの?」と問い詰めた。
「なまえが絡まれてたからじゃん」
「ぶつかっちゃって、心配されてただけだよ」
「平日のこんな時間に学校サボってうろついてるような奴にろくなのいないから。下手したら路地裏とかに連れ込まれてたかもよ?」
自分のことを棚に上げてカルマが言った。彼は自分のしたことを正しいと信じて疑っていないようで、その表情には微塵も後悔の色がなかった。彼女はそれに納得がいかず、唇を歪める。
カルマが頻繁に喧嘩をしていることを知ってはいたが、目の当たりにしたのは初めてだったので、衝撃を受けた。なんのためらいもなく人に暴力をふるう姿を見て、彼女は恐怖さえ感じた。
(渚や名前ちゃんなら、こういう時なんて言うのかな)
なまえは意見を伝えたことを悔やんだばかりだというのに、このまま感情を抑え込むことに抵抗を感じた。そうだね、ごめん。そう謝れば彼は満足するかもしれないけれど、それではきっと、一生あの二人みたいな関係にはなれないとも思った。先ほどはきっと言葉が足りなかったのだ。彼女は掴んだ相手の腕を滑らせて両手を握り、指と指を絡めた。
「助けてくれたのは嬉しい。ありがとう。……だけど、やっぱり暴力はよくないよ」
カルマの眉が寄せられる。だけど手を振りほどくことはしなかった。
「……今日どうかしたの?今までは何も言わなかったじゃん」
不機嫌さを露わにした彼に、なまえは怯んだ。それでも言葉を続けようとしたら、カルマが何かを察知したように素早く視線を逸らし、絡んだ手を振り払って彼女の口をふさいだ。壁際に体を押し付けられ、突然のことになまえは身動き一つとれなかっただけでなく、カルマがひどく怒っているのだと思った。
恐怖に負けて大きな手の下で口を閉じると、大通りの方角から口汚い叫びが聞こえた。ただ事ではないと感じ、息をひそめてそちらを見ていると、先ほどの男子高校生が怒り狂いながら駆け抜けていくのが見えた。その罵詈雑言の内容から、カルマとなまえを探していることは瞭然だった。唖然と立ち尽くしていると彼女の口が解放される。カルマは片方の手を彼女の傍らの壁についたまま、「ほらね、ろくな奴じゃない」と言った。
「……ありがとう」
守ろうとしてくれたことは、素直に嬉しかった。彼女がおずおずと礼を述べると、カルマは何も言わずに視線だけを返した。なまえはそこで距離が近いことに気づく。彼も思ったのか、そのまま唇を寄せるように身を屈めた。
二人の間が埋まるまでの数秒間、なまえの中では葛藤があった。ここで彼の口づけを受け入れれば、先ほどまでの気まずい空気はなかったことになるだろう。だけどそれをなかったことにしていいのか、それだけが彼女の心残りで、判断を下すより前に二人の顔の間に手を滑り込ませていた。
彼は拒否されたことに驚いているようだった。彼女の指の腹に触れた唇が、戸惑いのせいかわずかに開く。なまえは視線を逸らしたい欲求を必死に抑え、カルマの目を真っ直ぐに見つめた。ちゃんと伝えられずに、誤解されてしまうことだけは避けたかったのだ。
「……私は、カルマが危ないことするのがヤなんだよ。カルマは少し、自分を大切にしないところがあるように思うから」
カルマの表情は変わらない。試すような視線が彼女を見つめ返す。
「今まで言わなかったのは、実際に見たことがなかったから、ちゃんと理解できてなかっただけ。さっき初めて見たからこそ、びっくりした」
とうとう堪えきれずになまえは俯いた。無意識のうちに彼の胸元のシャツを握りしめていたことに気づき、慌てて手を離すが、しわがくっきりと残ってしまった。
「……別に、私、カルマに嫌われたくて言ってるんじゃない。でも、だからって流されてるばっかりな自分が嫌で……」
「もーいいから」
遮られた彼女は最初、切り捨てられてしまうのだと予感した。けれど次の瞬間、彼の腕が優しくなまえを包み込む。
「なまえの言いたいことちゃんと分かったから。心配してくれてありがと」
髪の流れに沿って後頭部を撫でられ、なまえは心が満たされるのを感じた。カルマの言葉に不安だった気持ちが溶けていく。理解してもらえたことに安堵し、彼女はおもむろに彼を抱きしめ返した。
「流されてるんじゃなくて、なまえは人に合わせるのが上手いんだよ。それは短所じゃないから」
なだめるような言葉のあと、触れるだけの口づけ。今度は抵抗する理由がなかった。
彼女はふと、もしかしたらこの性格を見抜いたからこそカルマは自分を選んだのかもしれないと、悪い予感を抱いた。
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