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たいへんたいへん




「西、どっかお店入って休まない?」

「休まない」

「喉かわいたんだけど」

「俺は渇いてねぇ」

私の三歩ほど前を歩いている西はさっきからこの調子で、一向に歩く速度を緩めようとしなかった。取りつく島もないとはまさにこのことである。

私だって喉など渇いていない。ただ、皮が剥けてしまった親指の付け根あたりが痛むのだ。久しぶりのデートだからと張り切って、おろしたての可愛らしいヒールなんて履いてきたせいだ。

靴擦れした足で人混みを進むのが辛くて、自然と西との距離が開いた。最初は必死で追いつこうとしていたけれど、だんだんとそれが馬鹿らしく思えてきた。振り向きもしない、手を繋いでもくれない、彼女のことを気にもかけない、そんな男のために私だけが頑張る意味はあるのだろうか?

とうとう足を止めると、人々が迷惑そうに私を避けていく。西は決して身長が高い方ではないので、すぐに人の波に呑まれて見えなくなった。

「西のクソバカ」

吐き捨てるように呟いて周囲を見渡す。駅前の広場までやってきたおかげでそこら中にベンチが配置されていた。最後の力を振り絞って木を丸く囲んだベンチに向かう。今日はかなり暖かいはずなのに、木陰に入ったせいか肌寒さを感じた。なんとかベンチに辿りついた私は全てを放り出すような気持ちで腰を下ろす。一瞬にして体中の力が抜け、疲労感が押し寄せた。

はしたないとは思いながらもヒールを脱ぎ捨てた。どうせ西だっていやしないのだ。スカートの中身だけは晒さないように気を付けてベンチに片足を持ち上げれば、案の定、皮が剥けてしまったそこには血がにじんでいた。あいにく絆創膏など持ち歩いていない女子力皆無な私には、街中で配られていたティッシュを当てるぐらいしかできない。赤く染まった紙切れを見ていると、どうしようもない虚しさが襲ってきた。

先ほどまでのデートとは言い難い二人の時間を思い返すが、西の後ろ姿しか記憶にない。深いため息を吐き出すと、私はもう一方の足もベンチの上に乗せた。体育座りのまま両足の血をぬぐっていると、不意に誰かの影がかかった。

「パンツ見えてんだけど」

不機嫌そうな声が上から降ってきて、私は反射的に両足をおろした。ちょうど下にあったヒールを踏みつけてしまい、かかと部分がぐにゃりと潰れた。顔を上げるとしかめ面の西がコンビニの袋をぶらさげて立っていた。

「……何してんの」

「そりゃこっちのセリフだッつの。勝手に離れてんじゃねーよ」

「気付きもしなかったくせに」

「お前が影薄すぎンだろ」

仮にもデート中の彼女に向かって言う言葉ではない。血まみれのティッシュを握る手に力を込めると、西が隣に腰を下ろした。伝わる一人分の重みと振動。ちょっとだけ反対側に滑って距離を開けると、目ざとい西は睨みをきかせてきた。

「なに離れてんだよ」

「別に」

「ウゼーな。言いたいことあんなら言えッて」

「……喉渇いた」

「ほら」

頬に冷えたものが当てられて首をすくめた。視線だけ動かして見ると、西の手にはお茶の缶が握られていた。

「やるよ」

「何これ。……もしかしてこれ買いに行ってたの?」

「……店入るより経済的だろ」

「……ふーん」

別に喉など渇いていなかったはずなのに、手渡されたお茶がすごく美味しそうに見えた。プルタブを引っ張ると、空気の抜ける音がする。両手で持ったお茶を一気に煽ると冷たいものが食道を通っていくのが鮮明に分かった。

「てかお前、その足」

ヒールの上に乗せたままだった私の両足を、西が見下ろす。ティッシュでおさえることをやめたそこからは、新しく赤い血がにじみ始めていた。彼の表情に恍惚としたものが浮かんだのを見て、私は「出たよ」と思った。これだから、靴擦れしたと正直に伝えるのが嫌だったのだ。

「見せてみろよ」

「やだ」

「なんでだよ。ほら」

西が私の太ももの裏を掴んで、ベンチに持ち上げた。さっきパンツが見えているなんて不満そうに言っていたくせに、これでは通りを歩いている人たちに丸見えじゃないか。慌てて体を反転させて、両足を揃えるために西に向き直る。その時に見た彼の瞳には血の赤だけしか映っていない。パンツはおろか私のことさえも意識の外へとはじき出したらしい。

「血、好きだね」

「別に、フツー」

「フツーじゃないよ。変態だよ」

「じゃあその変態と付き合ってるお前も変態だな」

それは私も思う。どうしてこんな変質者とカップルやってんだろうと未だに疑問を抱くことさえある。だけど、のどが渇いた私のためにお茶を買ってきてくれた西は嫌いじゃない。他にもそういうところがあって、それを些細なことだと排除できず、ほだされるように彼を愛する私がいる。

「なぁ、あっち行こうぜ。ここの駅のトイレ、確か広いやつあったよな」

「……なに?興奮してんの?」

「傷がかわく前に舐めさせろ」

「きもい」

「うるせえッて。いいから立て」

二の腕を掴まれて無理やり立たされる。油断していたせいで、お茶の缶を落としてしまった。少しだけ残っていた中身がコンクリートに広がる。渇いていた地面が色濃くなるのを見て、私はもったいないと呟いた。

それを聞いた西は、お前の血が今もこぼれ落ちていることの方がもったいないと言う。あんたは吸血鬼か、と呆れて見せながらも、血液の一滴までも愛されているような気持ちになってしまった。

口元を無理にヘの字にして羞恥心を隠していると、西に手を握られる。靴擦れしただけでコレだ。万が一私の全身が傷だらけになったら、彼はどんなリアクションを取るのだろうか。

そこまで考えかけて、自分の思考が普通じゃないことに気づいて驚いた。このままじゃ本当にヘンタイの仲間入りだ。




End

120630

西くんの機嫌が悪かったのはヒールのせいで身長差が縮まったせいです