みぎ、ひだり、ひだり
はい、と目を見てプリントを回してくれた手が、左手だった。それだけで私は犬飼君が気になるようになった。
左利きの人ってちょっとかっこいい、と友達にこぼしたら、そう?と言われたきりだった。同意されたいわけじゃなかったので、うん、そう。とだけ答える。それきりその会話ははずまなかったけれど、言葉にした効果か、気持ちはますますふくらんでいった。
席替えをしたのは二週間前。犬飼君の後ろの席は、退屈しない。授業中に首の裏をかく左手も、器用にペン回しをする左手も、見ているだけでわくわくする。きれいなようで意外にたくましい手に触れてみたいとさえ思った。
「さっきの授業で言ってた、絶対テスト出る問題ってどれだっけ?」
降ってきた声に顔を上げかけて、私の机の上のノートをつつくような形で置かれた左手に視線が止まる。相手を見なくても犬飼君だと分かった。
私は彼の手を見つめたまま、今まさにしまいかけていたワークを引っ張り出し、印をつけたページを開いてみせる。
「この問題と」
きちんと後でワークごと手渡すつもりでいた。だからまず、出ると言われた三問を示してやろうと思ったら、置いていかれると焦ったのか、ページを変えようとするのを阻止するように、左手を挟み込まれた。
「待って待って、メモするから」
大きな掌でワークの中心を抑えながら、彼は逆向きに椅子へと座り直した。机の上に広げていた自分のワークを取ってくると、パラパラとページをまくって同じ場所を探す。その時に見えた中身がどこもかしこも真っ白で、私は心配になる。
「ワークの提出って、テストの一日目だけど間に合う?」
「あてがあるから大丈夫」
あてがある、ということは友達に助けてもらうのだろうか。いつも誰かしらと一緒にいて、楽しそうに笑い声を響かせている犬飼君はおそらく人気者の部類だ。私なんかが心配するまでもなかったなと、それ以上は踏み込まずに「そっか」とだけ返事をした。
左手は私のワークを抑え、右手は自分のワークをめくるのは、難しそうだった。そっとワークを抑えるのを手伝ってやると、彼は左手を引っ込め、自分のワークを支えるのに使った。離れてしまったことに寂しさのようなものを感じていると、犬飼君がページをめくる手を止める。自らの左手を覗き込み、表、裏、表と確認し、何もないのを確認すると、すぐにワークへ意識を戻した。私が見すぎたせいかもしれないと、慌てて視線を伏せた。
「で、どの問題だっけ」
「あ、えっと、そのページの問四と……」
腰を浮かせて彼のワークに手を伸ばす。問題を指さした時、犬飼君が感心したような声をあげた。
「爪、きれいにしてるねー」
ふと見下ろした自分の指先は、教室の蛍光灯を反射してキラキラしていた。うちは校則が厳しく、色つきのマニキュアはつけられないので、トップコートだけ塗っていた。嬉しさと気恥ずかしさから、「ありがとう」とだけ言うと、じっと見上げられる。
「みょうじちゃんって、あんまそういうの興味なさそうなんだけど、意外と細かいとこ気づかってるっていうかさ、そういうのいいよね。ぐっとくる」
目を細めて笑う犬飼君に、緊張した。こんなことを、同い年の男の子に、それも面と向かって言われたことなど初めてだった。彼が人気者たる所以を知った気がした。ぎこちなくお礼を繰り返し、「手フェチだから、自分のもせめてちょっとは良くしようって思うのかも」と付け加える。付け加えてから余計なことを口走ったかもしれないと思った。案の定、犬飼くんが食いついてくる。
「へー、みょうじちゃん手フェチなの?」
「まぁ、うん。犬飼君はフェチとかある?」
「うーん、脚とか?いやでも手フェチってなんなの?どういうとこ見るの?」
話題をそらしたくて相手にふったのに、犬飼君は気づいているのかいないのか、ますます掘り下げた。浮かせていた腰をおろして、視線を泳がせながら、「なんか、ちょっと目で追っちゃうってだけなんだけどね」と言葉を濁した。
「ねぇ、俺の手はどう?」
心臓がひときわ高く鳴った。犬飼君はとうとうワークを机に置いて、本格的におしゃべりの姿勢に入ってしまう。
「どうこれ。特徴もなんもないけど、みょうじさんのお眼鏡にかなう?」
どこか悪戯っぽく笑う犬飼君に、なんと返すのが正解なんだろうと考える。
実はあなたの左手がすごい好きなの。だからそんな本格的なフェチじゃないって。いつも犬飼君の手見てたりして。フツーかな。六十点ぐらい?うそ、本当は九十点。
そんな様々な返答が浮かんで消えてを繰り返すので、口をもごもごさせながら言い淀んでいたら、どうやら彼は自分の手が幾重にもわたる審査を受けているものだと思ったらしい。
「……そんな真剣に考えてくれるとは思わなかった」
「え、いやぁ……まぁ、うん」
歯切れの悪い返事に、犬飼君は目を細める。
「じゃあ、今日一日俺の手のこと考えててよ。そんで放課後、テスト出る問題と一緒に結果教えて」
彼が言い終えたと同時に、チャイムが鳴る。返事をする前に次の科目を担当する教師が入ってきて、みんなが席に着き始めた。犬飼君も、ひらりと軽い身のこなしで座りなおしてしまう。
やけに緊張している自分を意識してからは、鼓動のペースもいつもより速い気がした。日直の起立、という号令に合わせて立ち上がりながらも、自分の耳の中で響く血流の音を強く感じる。
彼が椅子をしまう際に左手を使うのを見た。とっくに犬飼君のこと一日中考えてるのになぁ、と思う。思ってから、教室中で響く椅子のガタガタ音に紛れて、自分自身の声を聞いた気がした。礼の合図と一緒に深々とお辞儀をした彼が、覗き込むように私を見て、にやっという表現が適切な笑い方をする。問題は、今のが声に出ていたか、出ていなかったかじゃない。この気持ちの正体を、彼が知っているか否か、だ。
End
160310