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終わらなかった地球で



◆プロローグ

 あの夏は、蝉の声がうるさかった。
 体育館裏の軒下に座りこみ、直射日光を避ける。外にいるだけで汗の流れる暑さだったが、日影に入れば多少はよくなった。
 夏休みの学校は閑散としており、私とカルマだけがこの場所にいた。一緒にプールへ入った同級生は、ずいぶん前に帰宅した。クラスメイトのことや、自由研究のこと、お気に入りの駄菓子や、発売したばかりのゲームの裏技。話題はいくらでもあり、少しの休憩のつもりが時間を忘れてしゃべり続けた。
 ふと、蝉の鳴き声にさえぎられ、カルマの言葉を聞き損ねた。耳を寄せようと体を傾けると、いまだに湿った二人の髪から塩素の香りがただよった。彼の毛先に意識が向く。今にも垂れそうなしずくに見入っていたら、至近距離まで顔がせまった。くすぐるように頬へ添えられた指先。この先に起きることを理解する。
 唇が重なる。ささくれだっていることを気にしたのは一瞬で、すぐにそのやわらかさへ夢中になった。ついばむように何度か触れて、唇を唇ではさまれる。しばらくして差しこまれた舌は、私を食べ物のように扱った。なめられて、吸いあげられて、押しつぶされる。粘着質な水音が耳の内側で響いた。
 やり方がわからないなりに応えていると、わき腹に彼の手が触れた。これは初めてのことだった。何かを探るように行き来するのがこそばゆく、思わず笑いそうになった。なんとなくそうしてはいけないような気がして、奥歯を噛んで耐え忍ぶ。
 どうやら予感は正しかったらしい。しばらくすれば、脳に熱がこもって、肌に触れる生ぬるい空気すら心地よくなった。あれだけうるさかったはずの蝉の声が遠く、塩素の匂いも消え失せた。
 無性に彼の名を呼びたくなった。呼吸の合間にこぼしたら、何かをねだる甘えた声になってしまった。カルマが息をのむ。指先が上にすべって、私の胸に触れた。
 それが、私たちの最後の夏だった。



◆一章  あなた我が侭、あからさま

 『ぐっちーが定年退職したから八月に集まろう』。小学生のときの同級生からほとんど使っていないSNSにメッセージが届いたのは、社会人二年目の春のことだった。
 ぐっちーは、卒業年の学年主任らしい。らしい、というのはぐっちーについて私が何一つ覚えていないためだ。顔はおろか、本名や性別すら記憶にない。
 本来なら辞退するところだが、私は二つ返事で同窓会への参加を決めた。

「ぐっちー先生の卒業を祝って……乾杯!」
 居酒屋の一角で幹事が音頭をとると、会場は一気に盛りあがった。囲まれた白髪の男性は、目元をゆるめてはにかんでいる。人のよさそうな笑顔に、彼が慕われる理由をなんとなく理解する。
 実際に見ても「ぐっちー」のことはまったく思い出せなかった。自分も教師の印象に残るタイプではない。あちらが覚えていなければ会話する機会もないだろう。かつての恩師を離れた席から眺めていると、向かいに座った旧友がジョッキを傾けた。
「なに一人で飲んでるの」
 乾杯、と半ば無理矢理ぶつけられる。小学生の頃、一番仲良くしていた同性の友人だ。中学ではクラスが分かれて疎遠になってしまったが、お互いの近況はなんとなく把握している。
「久しぶりだね。中学以来?」
「SNSで繋がってると全然そんな感じしないけどね」
「見てるの? 全然投稿してないじゃん」
「たまーに見てるよ。結婚したんでしょ?」
 把握していたのは私だけだったようだ。曖昧に笑ったとき、別の人から声がかかった。
「え、結婚したの誰?」
 正面を指し示せば、彼女が注目される。会話が弾み、結婚式の写真が披露され始め、私は徐々に存在感を消した。
 すっかり一人になったところで、周囲へと視線をめぐらせる。店内は熱気に満ちていた。火照り始めた皆の顔を、一つひとつ眺める。見知った顔はほとんどなくて、自分に友達が少ないのか、それとも記憶力が悪いのかを考えた。残念なことにおそらく両方なのだろう。
 ふと、視界の端に赤がよぎる。鮮やかで色褪せることのないかつての色を、私は見逃さなかった。
「カルマじゃん!」
 同時に響いた誰かの声に、身動きを忘れる。意識は向いているのに、振り向くことができない。
 どうやら彼は遅れてきたらしい。何人か立ちあがり、遅刻者を迎えにいく。数人に囲まれ「お前が来ると思わなかった」「久しぶりじゃん」などと言葉をかけられているが、返答する彼の声までは聞こえなかった。
 赤羽業だ。
 友達が少なく、記憶力のよくない私でも、彼のフルネームは漢字で書ける。
 散々この場面をイメージしてきたのに、どのように振る舞うべきか悩んでいると、ふいに隣の椅子が引かれた。
「ここ空いてる?」
 記憶と重ならない低い声。それでも彼のものだとすぐにわかった。息をのんだことを悟られないよう祈りながら、平常心を装って顔をあげた。
「どうぞ」
 まるで相手が誰かも知らない風に答えた。目が合った瞬間、今気づいたと言わんばかりの表情をするつもりだった。しかし、見あげたカルマはこちらではなく、反対隣の男子を見ていた。
 私に聞いたわけじゃなかった。
 理解したとたん、波のように羞恥心が押し寄せた。
「ちょっと、お手洗い、行ってくる」
 向かいの席に座る旧友に声をかけ、弾かれるように立ちあがる。彼女は結婚式のムービーを見せるのに夢中で、生返事が一つされただけだった。
 急いでその場を離れる間、一度もカルマの方を見られなかった。

 カルマと私の関係について端的に説明するなら「元恋人のようなもの」だ。あの頃の私たちは間違いなく互いを「一番」においていたけれど、それを口にしたことはなく、一般的な告白という手順を経験していない。
 カルマと仲良くなったのは、小学校の中学年のとき。少しずつ話すことが増え、放課後を共に過ごす時間が長くなった。公園で遊んだり、彼の家でゲームをしたり、駄菓子屋へ行ったりと、年相応に楽しんでいた。
 高学年になるにつれて、私たちの関係は変化した。体つきが変わり、二人で過ごすことに対しての周りの反応も変わった。何気なくしていた接触は減り、人目を避けて遊ぶようになった。
 「恋人のようなもの」になった出来事は、そうした日々の中で起きた。気まぐれに借りてきたDVDをカルマの家で見ていたら、ベッドシーンが流れたのだ。映画に年齢制限はなく、映像が流れたのもわずかな時間だった。少し前に性教育を受けていなければ、何をしているかもわからなかっただろう。私はその意味を理解してしまい、おそらくカルマもそうだった。
「試してみる?」
 何でもないことのようにカルマが言った。驚き彼を見やったが、視線はテレビに向けられたままだった。
「何を?」
 勘違いの可能性を考慮し、慎重に問いかけた。彼はそれに答えず、こちらを見て目を細めた。
 距離を詰めてくる。おもむろに頬へとふれ、柔さを確かめるように手のひらで押す。指先が耳をかすめ、心臓が跳ねあがった。そのまま親指を広げて唇にあてる。形を調べ、何かを測るかのように、何度も左右を行き来する。私はその間、ひとつも動けなかった。
 彼が顔を寄せる。唇と唇がわずかに触れ合った。キスは一瞬で、拍子抜けした。指で触れられているときの方が緊張した。カルマも同じだったようで、駄菓子屋ではずれクジをひいたときと同じ顔つきをした。
「……この映画、微妙だったね。ゲームやる?」
「やる!」
 元の状態に戻るためのスイッチが押された。私の返事を聞いて、彼がリモコンを操作する。テレビ画面の深刻な表情の男女は消え失せ、二頭身のキャラクターが映し出された。その日はそれきり、先ほどの行為へ言及されないまま解散した。
 それ以来、カルマは度々そうした行動をとるようになった。ふと目が合うと頬にさわる。かすめるように唇を重ねて、何事もなかったかのように会話を続ける。私はそれにどうしていいかわからず、いつも反応の機会を逃した。彼はそれを肯定とみなしたのか、やがて室内だけでは飽き足らず、学校の帰り道や、移動教室で二人きりになったタイミングなど、人目を盗んでキスをするようになった。
 もしかしたら、ゲームのようなものだったのかもしれない。実際彼は、スリルと背徳を楽しんでいるようだった。いつしか私もほんの一瞬の接触を、今か今かと待ち望むようになった。
 
 お手洗いに駆けこめば、居酒屋の喧騒が遠のき、現実に戻ってきたような心持ちになった。深呼吸をし、鏡に映る自分を見据える。あのときとは異なる大人びた顔が、熱気に当てられて上気している。
 同窓会に誘われたとき、真っ先に思い出したのはカルマのことだった。小学校を卒業してから一度も会っていない。SNSのアカウントも知らない。今どうしているだろうかと気になったら、にわかに顔が見たくなった。馴染みのない恩師のための集まりにわざわざ参加することを決めたのは、そういう理由だ。
 もちろん、過去と今を混同するつもりはない。昔の彼の思惑について知りたくないと言ったら嘘になるが、どうせあちらは忘れているに決まっている。今さら問い詰められても迷惑だろう。
 軽く挨拶ができればいい。先ほどは失敗したが、きっと上手くできるはずだ。
 気合いを入れ直すようにして、その場を離れる。離れてからふと思い立って鏡の前へ戻った。ポーチを取り出し自らの唇に紅をさす。何を期待しているわけではないけれど、これぐらいはしておきたい。
 
 皆の元へ戻ると、私の席には名前も知らない女が座っていた。よく見ると彼は数名に囲まれて「官僚になったってマジ?」「彼女はいる?」などと、合コンまがいの質問をぶつけられていた。
 あの群れにまざる気にはなれなかった。単純に勇気が出なかったこともあるが、カルマがあの手のタイプにいい印象を持つとは思えなかったのだ。同類になりたくなくて、元の席へ戻ることを諦める。タイミングを計ろうと、今は空いている席を探すことにした。
「ていうか、赤羽って椚ヶ丘に行ったよね」
 聞こえた声に足を止めた。そちらを見ると、カルマの隣に座る男が身を乗り出していた。
 椚ヶ丘学園――。非常に偏差値の高いことで有名な進学校だ。同級生で受験した人は他にもいるが、合格したのは彼だけだった。
「怪物の話、お前なんか知らないの? 当時すっげー話題になったじゃん」
「あぁ! そういやそんなことあったねぇ」
 およそ十年前の事件について、知らない者はいない。月を壊した怪物が椚ヶ丘学園中等部の下位クラスに居座っていたという、にわかには信じがたい話だ。
 当時はマスコミが散々騒ぎ立て、情報が錯綜した。曖昧な部分は多く、内情を知り得る彼に好奇心が向けられるのは必然だった。
「あれってホントの話なの?」
「落ちこぼれクラスに友達いなかった? なんでもいいから知ってること話してよ」
 私の場所から彼の表情は見えない。背中が軽く揺れているので、笑っているのかもしれない。喧騒にまぎれて聞こえないが、何か言葉を返しているようだった。
 私のよく知る彼は、踏みこまれることを良しとせず、あのような不躾な質問を穏やかに流せる人物ではなかったはずだ。
「ほら、飲めよ」
 隣の男が酒をそそいだ。酔わせて口を軽くさせようという魂胆が透けて見えた。周囲の者もそれを止めることなく、同じ笑顔で見守っている。カルマは素直にグラスを受け取り、そのまま酒をあおった。あっという間に空になったグラスへ素早く次がつがれる。
 とうとう私は見ていられなくなり、彼らの元へ向かった。
「私にも飲ませてよ」
 呆気にとられた顔が並ぶ。カルマの隣を陣取る男の肩を掴んで、無理矢理おしのけた。間に割って入ると、適当なグラスを手に取った。うながすようにグラスを見せれば、戸惑いながらも酒をそそいでくれる。
 私はそれを一気に飲み干し、テーブルへ叩きつけるように置いた。「おかわり」と呟くように言えば、男は体裁が悪くなったような顔つきになり、その話題はうやむやになった。

   ◎

 宴会が終わる。幹事が会計を済ませている間に、一人、また一人と店の外へ出た。居酒屋は大通りから少し逸れた場所にあるため、店前の道路に数十人が広がっても多少の余裕があった。同級生の群れから離れ、道の隅に立つ。胸元を抑えて目を閉じ、自身の内側へ意識を向ける。
 気持ち悪い。
 酒を飲みすぎたせいか、具合が悪かった。このままだと吐き気がくるだろう。幸い既に会費は支払い済みだ。二度と同窓会へ顔を出せなくなる惨事を起こす前に帰った方が良さそうだ。
 大通りに向かって歩き出そうとした、そのとき。
「顔色悪いね」
 すぐ近くでした声。見あげると、こちらをうかがうカルマと目があった。周りの数人が振り返り、注目を浴びる気配がした。
「タクシー呼ぶよ」
「いい、歩いて帰るから」
「あ、ちょうど来てるじゃん」
 肩を抱かれた。子供の頃のような距離感に、緊張よりも焦りが生じた。対応に悩む間に大通りまで連行される。カルマが手をあげると停まっていたタクシーのドアが開き、流れるように押しこまれた。
「どちらまで?」
 運転手が問いかける。後から乗りこんできたカルマが、うながすようにあごを出した。困惑したまま住所を伝えれば、車はすぐに発進する。遠くに見えた好奇心や羨望の眼差しに、複雑な感情をいだいた。
 タクシーの車窓に夜の街並みが流れ出した頃、背もたれに寄りかかって慎重に息を吐き出す。いまだに胃の奥はムカムカしているが、悪い気はしなかった。
 先ほどの飲み会では、結局カルマとまともにやりとりをしていない。彼も同じ気持ちだったのだろうか。少しでも話をしたいと思って声をかけてくれたのかもしれない。横目に見ると、視線が交わった。一瞬にして小学生時代に引き戻されたような、どうしようもない懐かしさと心地よさに包まれた。
「二次会の話とか出てたからだるくてさー。利用させてもらったわ」
 膨らみかけていた何かが呆気なくしぼむ。無意識のうちに助けられたつもりでいたことを自覚し羞恥した。
「別にいいよ。私も帰るところだったし」
 進行方向へ向き直る。何かが喉の奥から迫りあがってきて、気持ちの悪さを思い出した。
「マジで顔色悪くね?」
「……」
「これ。飲みかけだけど」
 彼が鞄から探り出したのは水のペットボトルだった。わずかに悩んでから受け取って、深くもたれたままキャップを外す。
「酒よわいの?」
「ふつう、だよ」
 食道の違和感を水で流そうとするけれど、かえって迫りあがってくるものの嵩が増しただけだった。
 ペットボトルを返そうとして、カルマと手が触れ合う。子供のときよりずっと大きくて硬い。意識したとたん、先ほど肩を抱かれた感触がよみがえる。身長もとても伸びていた。目線が高く、互いが合わせようと思わなければ二度と合わないだろう。
 彼を見る。今度は視線が交わらない。前髪をあげたヘアスタイルはずいぶんと大人びて見えて、あの頃の面影を見失う。隣にいる男は誰だろう。私は彼に会って、どうしたかったのだろう。迷いが生まれたら、声のかけ方さえわからなくなった。
「カルマ」
 名前を呼ぶ。彼が振り向く気配がする。私が口をおさえる姿を見て、すぐに察したようだった。
「で、出る…………」
「運転手さん、停めて!」
 急かす声を聞きながら、彼も焦ることがあるのかと他人事のように考えた。タクシーが急停車したせいで、胃の中身が喉奥までのぼってくる。
「お金……」
「いいから。早く降りて」
 ほとんど突き飛ばされるようにタクシーから降ろされたが、文句を言う気力もなかった。降りた先にあった電柱へ、しがみつくようにもたれかかる。
 タクシーの走り去る音がした。最悪の別れを上塗りしてしまった。そう思いながら振り返って、仰天する。カルマが私の鞄を肩に引っ掛け、呆れ顔で立っていた。
「え、タクシー……」
「嫌な顔されたから行かせたよ」
「そうじゃなくて、……なんでそっちまで降りてるの。一人で平気だよ」
「さすがにこんな状態のヤツおいていけないでしょ」
 力が抜ける。電柱にすがりついたまましゃがむと、視界がゆらめいた。嘔吐感を一層強く感じ、口元をおさえる。
「一人で平気、ねえ」
 心配しているというよりも、揶揄するような響きがあったため、言い訳がましく反論する。
「車に乗ったせいで酔いが回ったんだよ」
「へー」
「落ち着くまで歩くつもりだったのに……」
「俺が悪いって言いたいの?」
 彼が私の腕を掴んで引っ張り立たせた。あまり無理な動きをさせないでほしかったけれど、抵抗する余裕はなく、掴まれた腕と反対の手でしがみつくのがやっとだった。
 彼は無言のまま私の肩を支えると、ゆっくり歩き出す。
「しょうがないね。休憩していこうか」
 優しい言動とはうらはらに、その口調にはどこか刺々しさが感じられた。寄りかかりそうになっていた私は、我に返って背筋を伸ばす。
 顔をあげたところで、周囲が夜とは思えないほど眩しいことに気づいた。煌々とネオンに照らされる道。独特な形のオブジェを飾りつけた建物たち。その看板のほとんどには「ホテル」と書かれていた。
 彼がわざわざ休憩≠ニいう言葉を選んだ意味を理解する。
「俺のせいみたいだし、責任とるよ」
 うっすらと笑ったカルマの横顔が、幼い頃のものとようやく重なった。

 彼が受付に向かう間、近くの壁に寄りかかってぼんやりとしていた。この状況について深く考えることもできず、気持ちの悪さから意識を逸らすことに精一杯だった。いつの間にか手続きを終えた彼が私の手首を引き、奥へと向かう。自分だけ幼い頃に戻ったような心地がして、足元がふわふわした。
 階をあがり廊下を歩く。彼は手際良くルームキーで解錠すると、部屋の扉を開いた。すぐさまトイレへ駆けた私を、心底おかしそうな笑い声で見送った。エレベーターの揺れにトドメを刺されたのだ。
 個室に入るや否や、扉を閉めるのも忘れて、便座にしがみつく。へたりこんで嘔吐する私を、彼はわざわざ確認しにきた。
「大丈夫?」
 半笑いで問いかけるので、彼が昔の想い人であることを忘れて恨めしく思った。
「……大丈夫」
「やっぱり『大丈夫』って言うんだ」
 言葉の意味が頭に入ってこなかった。咳きこみながら、せりあがってくる物を吐き出していると、背中にあたたかいものが触れた。おぼろげな意識でも、彼に撫でられているとわかった。ひどく優しい手つきだった。ごつごつした男の手なのに、子供を想起させる。
 私は息ができなくなって、むせているうちに涙がにじんだ。
 
 胃の中身をすべて吐き出した。歯磨きとうがいを終えて、少しは気分もマシになった。それでも目眩は残っていたし、とてつもなく体力を消耗した。何より醜態を晒したことによる羞恥心が後からやってきて、精神的にも摩耗し、すっかり疲弊してしまった。
「横になりたい……」
「いいよ。起こしてやるから寝れば?」
 洗面所から出てきた私のひとりごとに、彼は意外にも真面目に返した。備えつけの冷蔵庫から水のペットボトルを取り出すと手渡してくれる。
 礼を言って受け取り、ベッド横へ移動した。やっとの思いでキャップをひねり、立ったまま水を飲む。車内でもらったものよりずっと冷えていて、食道をすべりおちてゆく存在をまざまざと感じる。
 このまま横になっても大丈夫だろうか。
 頭の芯まで冷えたのか、今さら状況に危機感を覚えた。しかし熟慮するにはまだ足りず、すがるように最も警戒すべき相手を見つめた。
「寝ていいのかな」
「いいって言ってるじゃん」
 心底不思議そうに見つめられ、自分だけがこの状況を意識していることに気づいた。気恥ずかしくなり、曖昧な返事をしてからベッドを見おろした。変な形をしていたり、回っていたりすることのない、一般的な寝具だ。改めて室内を見れば、内装は普通のビジネスホテルと大差ない。私はヒールを脱ぎ捨てて、子供のようにベッドへ乗りあげる。
「終電まで三時間くらい寝る」
「ガッツリ寝すぎじゃね?」
 何もかもが億劫で、ペットボトルをそばに転がしながら、掛け布団の上に倒れこんだ。視界がゆらめく感覚は残っているが、慣れてしまえば揺籠のようですらあった。
 天井を見あげているとベッドが軋んだ。カルマが隣に座ったのだ。体が強ばったのは一瞬で、彼が足を組む姿に脱力した。
「どれぐらい飲んだ?」
「どうだろ。十杯も飲んでないと思うけど……」
「あれくらい平気だから、余計なことしなくてもいいのに」
 代わりに酒を飲んだことについて言っているとすぐにわかった。
 呆れた物言いのわりに、穏やかな顔つきだった。間に割って入ったときは彼の方を見ていないが、もしかしたら同じ表情をしていたのかもしれない。
「……余計なことしてすみませんね」
「あんた昔からそういうとこあるよね。ほら、四年のときのさぁ。覚えてる?」
 続いたカルマの言葉は自然なもので、私はつられるように記憶をたどる。
「……ひょっとして社会科見学の日のこと話してる?」
「そう、覚えてたか」
「忘れるわけないじゃん! カルマのせいでひどい目にあったんだから」
 無邪気に笑い、憤慨する私をなだめるように、おざなりな謝罪をした。私は今この瞬間まですっかり忘れていた出来事に対して腹を立てたふりをする。
 そこからは、それぞれ思い出話を口にしては、一緒に懐かしんだり、記憶違いを訂正したりした。校長先生の口癖、クラスメイトの失敗、授業中の先生の小話、学校で飼育していた動物のこと。とりとめなく、際限なく話し続けた。話題は尽きず、今の話をする必要は一切なかった。始めは彼の低い声に違和感があったけれど、それもすぐになくなった。
「そんで、そのときのアイツの顔と言ったらさぁ」
 カルマが話しながら、ふと私の向こう側を見た。目線の先を追うより前に腕が伸びてくる。上体をひねりながら覆い被さるような姿勢になったので、部屋の光がさえぎられた。彼の下に収まって、私の心臓は縮みあがる。呼吸を忘れてじっと見つめていると、呆気なく離れた。手の中には、私が先ほど投げ置いたペットボトルがある。
「ベッド濡れてる。あんたってホント雑――」
 視線がかち合う。ひどい顔をしている自覚はあった。顔に熱が集中し、耳に通う血管を意識するほどだった。先ほどまでの雰囲気は刹那に消え失せ、彼をまとう空気が一変した。
 ペットボトルがテーブルに置かれる。彼はベッドへ完全に乗りあげると、慎重に距離を詰めた。まるで私が逃げることを警戒する動きだ。
 二人分の体重でベッドが沈む。今度こそすっかり覆われて、彼以外は見えなくなった。
「相変わらずだね」
 一層低い声。言葉の意味はわからなかったものの、翳った表情に、背筋が粟立った。
「……カルマは?」
 顔の横についた手首に指を絡める。
「カルマは変わった?」
「どうだろ。確かめてみたら?」
 試すような笑み。至近距離で目を合わせながら、くすぐるように頬を撫でた。胸の奥がしめつけられるような息苦しさを感じる。愛しさと懐かしさで張り裂けそうだった。
 名残惜しく思いながら、まぶたをおろす。すぐに唇が重ねられ、彼の手が私のわき腹に触れた。

「や……!」
 胸に触れられて、力いっぱいカルマを突き飛ばした。反動で近くに置いていたプールバッグが地面に転がる。幼い目を丸くして、彼は不意を突かれたような顔をした。
 蝉の声が戻ってくる。いつの間にか太陽の位置が変わっており、日差しの中にいた。触れられた肌に汗がにじむ。ふくらみ始めたばかりの胸に、彼の指の感触が残っていた。
「どうしたの急に」
「……」
「『嫌』って言った?」
 機嫌の悪そうな声に、うなずくことも首を横に振ることもできなかった。ただ服の裾を押さえつけてうつむいていると、ため息が聞こえた。
 彼は立ちあがり、衣服についた砂を払う。それからしばらく迷った後で、私に手を差し伸べた。
「帰ろう」
 いつも通りの声音に、彼がスイッチを押したとわかった。顔を見られないまま目の前の手を掴むと、力強く引っ張られる。しっかりと握りこまれた手を見おろして、これで元通りだと私は確かに安堵したのだ。
 結局、その日を境に私たちの関係は変わった。また同じことをくり返したらと思うとぎこちなくなり、次第に二人きりになることを避けるようになった。カルマも私に飽きたらしい。そのうちメッセージを送っても返信がこなくなった。
 共に過ごす時間が減り、一つ、また一つと約束が忘れられていく。放課後の待ち合わせも、毎週きまった曜日に駄菓子屋へ通うことも、夏休みのうちに遊園地へ行きたいという話も、なかったことになった。
 そして卒業の日。とうとう私たちは言葉をかわすことなく別れたのだ。
 
 同窓会でカルマに会いたい。会って、自分の気持ちに折り合いをつけたい。それが私の願いだった。
 喧嘩別れのようになったことをずっと悔やんでいた。もっと上手くやれたのではないかと何度も幼い頃の自分を責めた。過去の失態を消せると思っていたわけでも、彼に何かを求めていたわけでもない。今もなお記憶がよみがえる度、切ない気持ちになる自分と決別したかった。
 しかし、これならこれでいい。過ちを正すように二人の関係を立て直すことができるなら、これ以上ないほどに幸せだ。
 彼の腕に強く抱かれながら目を閉じる。本当はずっと、こうしてほしかったのかもしれないと、つじつま合わせのように考えた。

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