私たちのアジのほぐし身
“しゃけ”は肯定、“おかか”は否定。それ以外はなんとなくのニュアンスで。最初は苦労したコミュニケーションも、恋人となった今では難なくこなすことができる。
「いくら」
抱えた膝に額をつけて丸くなる私を、横から覗き込む気配。窺うような声音から、機嫌を取ろうとしていることがよくわかった。
「こんぶ」
戸惑いながらも謝罪する。軽く鼻をすするつもりが、静かな部屋には良く響き、彼はますます動揺しているようだった。
――棘君は悪くないのに。
喧嘩の発端について思い出し、心から思う。それでも涙のにじんだ情けない顔を彼に見られたくなくて、私はうつむき続けていた。
用事のない放課後は、デートへ行ったり、どちらかの自室でのんびり過ごしたりするのが一般的だった。今日は棘君の部屋でそれぞれの任務の報告書を仕上げていた。しばらくローテーブルに向かっていたけれど、やがて集中力の切れた私は紙の端に落書きをした。
「見てみて、おにぎり〜」
シャーペンの先端で机を叩く。横から覗き込んだ棘君が、隣に歪な三角形を描いた。
「棘君のおにぎり、とんがり過ぎじゃない?」
「おかか!」
「私のは中に入ってる具が大きいのー」
納得いかないとばかりに、彼がさらにおにぎりを描く。私も負けじと張り合うので、報告書にはどんどん三角形が増えた。どちらが上手いか競い合う内に、ふと思い立った私は文字を連ねる。
「しゃけ、おかか……あといくら、明太子もか」
「すじこ?」
「そうそう、棘君の語彙。すじこもあったね」
並べてみると本当に少ない。よくこれで会話ができるなぁと妙に感慨深い気持ちになった。
書く手を止めて、彼を見る。部屋着でくつろぐ棘君は、普段隠している口元を惜しげも無く私に向けていた。四つの瞳を見ていると、甘えたな気持ちが込み上げた。彼に寄り掛かるようにして、すっかり落書きだらけになった報告書を眺める。
「ねえ、合言葉みたいなの作らない?」
提案の意図が伝わらなかったらしく、首を傾げてその心情を表現してくれる。
「おにぎりの具って他にも色々あるでしょ。炒飯とか塩とか。私専用の語彙つくって欲しいなーって」
「こんぶ」
「例えばなんだけど、“炒飯”なら『好き』、“塩”なら……『キス』みたいな……」
「…………」
「しゃけ!」と返されるつもりでいたので、考え込むような沈黙に羞恥が押し寄せる。
「あっ、塩は日常的に使うから微妙かな。マイナーなので全然いいんだよ。“とろろ昆布”とか“アジのほぐし身”とか……」
「おかか」
そうじゃない、と言わんばかりに腕でバツ印を作る。棘君はいつも私のくだらないワガママや無茶振りに応えてくれるので、頭ごなしの否定を意外に思った。
「何でダメなの?」
「……すじこ」
ニュアンスを伝えるのが大変だと判断したのか、棘君がシャーペンを手に取る。報告書の片隅へ走り書きした彼の言い分は、いたって真面目なものだった。
なんでも呪言師である彼が、『言葉』に『言葉以外』のニュアンスを持たせることは、大変危険な行為らしい。それこそおにぎりの具を口にするだけで呪いが発動するようになってしまう恐れがあるという。
懸命に書き文字で説明する棘君の姿を見て、「仕方ない」と諦める反面、思っていた以上にがっかりする自分に気づいた。
「そっかぁ……。一度でもダメ?」
「おかか」
「だよねえ」
寂寥感を抱く。語彙に限りのある棘君と付き合うということは、普通の恋人みたいな会話はできないということだ。
例えば私は棘君に『好き』と言われたことはおろか、名前を呼ばれた試しがない。そんなことは最初から了承した上で一緒にいるのに、棘君といると欲が膨らむ。したいこと、して欲しいことが増える。
『好き』もそれに準ずる言葉も一生もらえないのか。そう思った瞬間、ぽろりと涙がこぼれてしまった。とっさに顔を隠したけれど、既に見られてしまったらしく、棘君が息を飲む。私はすぐさま体育座りをし、顔を隠すように項垂れた。
心配そうな彼の気配を間近に感じる。こんな仕方のないことで悩んでいるなんて知られたくなくて、機嫌を悪くした理由も言えなかった。
こっそり深呼吸して、どうにか涙を引っ込める。ぱっと顔をあげると、暗闇に慣れた目が蛍光灯の光でチカチカした。棘君を見ると、何か言いたげに口を開きかけるので、遮るように謝罪した。
「ごめんね、困らせて。今日はもう部屋に帰るね」
できるだけ視線を合わせないまま、ローテーブルに広げた筆記具をかき集める。落書きだらけの報告書を持ち上げて、角をそろえた。そのまま立ち上がろうとしたら手首を掴まれた。掴みかけた筆箱を下ろされて、引っ張るように向き合わされる。
「……棘君」
名前を呼んで、また思う。私ばかりが想っているみたいだ、と。いつも彼の優しさを感じているくせに、こんな風に考える自分が嫌だった。表情を隠すようにうなだれていたら、一層強く引き寄せられた。バランスを崩して彼の胸に飛び込むとき、何かが耳たぶを掠める。
囁き。
全てが無声音になるように、空気を震わさないように、慎重に。何かを必死に抑えるようなかすれ声で、彼は私を呼んだ。
耳をとっさに抑えてから、唇が触れたのだと理解する。驚愕し面を上げると、眉尻を下げた棘君と目が合った。
「……私が拗ねてる理由、わかってたの?」
「しゃけ」
当然とばかりに頷いた棘君は、なだめるように前髪を撫ぜつけた。そのさりげない仕草が、荒んだ心にぴたりとはまる。私が棘君の言葉を理解できるようになったのと同じで、彼もまた私の心を見透かすことが得意になったようだ。
正座と胡坐で向かい合う。いつの間にか両手を掴まれ、指を絡めとられる。まるで形を確かめるように、ほどいて、撫でて、握られる。
「ツナマヨ」
「わかってるよ」
「こんぶ?」
「うん……知ってる。でもなんか、見える形で欲しくなっちゃったの」
「……しゃけ」
手のひらを開かれた。彼はその上に人差し指を置くと、同じ場所を何度もなぞる。それが少しとがった歪なハート型だと気づいたとき、胸の奥が熱を持つ。
「わ、私も……好き」
棘君が、何度も首を縦に振る。繋いだ手に力が込められる。想いが伝わったことを全身で喜ぶ姿に、途方もない愛しさが込み上げた。
キスがしたいな。思った瞬間、お願いするよりも前に、肩を掴んで寄せられる。あっという間に唇を奪われ呆けていると、棘君はいたずらが成功した子供みたいな表情で笑った。
End
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