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私を忘れても、呼吸はやめないで



爪を切ったんだ。ずいん伸びてたもんね。でもちょっとヤスリをかけた方が良さそう。引っ掛けて痛い思いをしないといいな。そんな風に考えていたら、こちらを上目に見つめた彼が「センセ、何?」と居心地悪そうに問いかけた。私はそれで、自分がだいぶ見つめ過ぎていたことに気づく。ふっと表情筋を緩めて、足を組み直す。椅子を回転させて自分のデスクに向き直りながら「よくできてると思って」と宿題のノートを返却した。途端に職員室のざわめきが帰ってくる。匪口君は受け取りながら肩をすくめていた。

「次は提出期限までに間に合わせてね」
「はーい」

すぐにでも立ち去ると思ったのに、彼は動かなかった。不審に思って横目に見ると、その丸い瞳はデスク上のパソコンに向けられていた。

「それ新しい?」

短くなった爪で差しながら覗き込んでくる。どきりと心音が大きくなるのを意識しながら、私は「まあね」とだけ答えた。できるだけ彼を視界へ入れないよう視線を背けたのは、抱く必要のない罪悪感を覚えたせいだ。

匪口結也という生徒は、問題のある生徒だ。それは別に、彼がインモラルだとか、勉強のできない不良だというわけではない。彼は過去に両親を自殺で失くした「気を配る必要がある生徒」なのだ。

彼のクラスの担当を任されたときは、相当身構えたけれど、実際に話してみれば実に気さくな良い奴だった。直すべき場所といえば、提出物忘れや遅刻ぐらいで、あとはごく普通の素直で明るい優しい子だ。本当にそんなことがあったのかと疑うほどハキハキしていて、話すときにこちらが気後れすることさえある。

それでも時おり耳にする彼の話にはハッとさせられることがあるから、私はあまり大人になりきれていないようだ。生徒がひそひそ言い合っていた、彼の両親が「ネトゲ廃人」だったなんて噂話、本当かどうかさえ分からないのに。理解しているつもりでも、こうして彼がパソコンに興味を示すだけで、肩に力が入ってしまう。

「そのパソコンいくらぐらいした?」
「えーっと、二十五万くらい」
「げー、思ったより高い。パソコンってそんなすんだ。先生の仕事ってもうかるの?」
「いやー」

先生だらけの室内で、「そうでもない」とは言えず、「どうだろうねえ、先生なってみたら?」とごまかしてみる。はぐらかされたことに子ども扱いされたとでも思ったのか、彼はあからさまに拗ねた顔つきをすると「ただの進路相談じゃん」とぼやいた。

「え?先生めざしてるの?」
「そうじゃないけど、どの職種がどんぐらい儲かるのか知っときたいじゃん」

随分シビアな答えに思わず口ごもったけれど、最近の子供はみんなこんな感じだ。いちいちまともに受け合っていては身が持たないので、首の骨を鳴らしながらため息をついた。

「先生は、なんで先生になったの?」

まだ会話が続くことを意外に思いながら、違和感を覚えていた。勝手な印象だけれど、彼は他人に興味がなさそうだと感じていたので、こうして誰かの思想に触れようとすることが不思議だったのだ。もしかしたら、案外本気で進路に悩んでいるのかもしれない。そう判断するや否や立ち上がり、「じゃあ、進路指導室いこうかー」と気の抜けた声をあげると、匪口君はわずかに目を見張ったものの、素直に従った。

机の間を抜けて、職員室を出た二人を気にかける者はいなかった。放課後の活気ある廊下を歩きながら、背後に付き従う気配を意識していた。進路指導室には誰もおらず、私は長机に添えるように置かれたパイプ椅子の、二つのうちの一つを手に取った。それを持って机の反対側へ移動し、彼と向かい合って座れるようにする。腰を下ろしてから、長机の細い幅では案外距離が近いことに気づき、椅子半分ぐらい下がった。

「わざわざこんなところで話したがるなんて、先生が今の職業目指した理由って、そんな恥ずかしいの?」

匪口君に言われて、先ほどまでの会話の流れを思い出す。話を聞き出すつもりで呼んだのだけれど、彼からしたらわざわざ自分の質問に答えるため、場所を変えたと感じたのだろう。

「やーべつに。私が先生なろうと思ったのって、なんか、そういうものだと思ったからだし」
「なにそれ」

面白かったのか、ふき出すように口元を緩めた。私はそれに安心しながら、机の上に無造作に置かれた、切りそろえられた爪を眺める。

「結構そういうもんだよ。将来の夢なんて」
「じゃあ先生は中学の時から先生目指してたの?」
「いや、匪口君ぐらいの歳の時は、また別の夢があったよ」
「なんでそれ諦めたの?」
「なんでだろう。そういうものだと思ったからかな」
「またそれ?」

今度は笑ってくれなかった。呆れたように眉根を寄せるので、私は切り替える。

「うん、でもほんとそんな感じだよ。将来の夢なんて、そのうち決まるから、焦んなくていいよ」

匪口君がまた目を見開く。視線を斜めに落として、「別に、焦っちゃいないけどさぁ」と言い訳がましくつぶやいた。そういえば、彼の書いた進路調査表は、なりたい職業が空欄だったように思う。別に珍しい話でもないし、志望校は決まっていたから、あまり気に留めていなかった。

「匪口君がなりたいものは何?」

私の問いかけに、視線を伏せたまま口を曲げる。いつもは大人びた態度をとろうとしている彼らしくなくて、なんだか愛しかった。なかなか返事がこないので、私は手持無沙汰に近くのファイルを引っ張り出した。彼の志望校のデータを確認していると、「俺、何かになってもいいのかな」とこぼした。聞き間違えたような気がして顔をあげたら、黒縁眼鏡の奥、瞳が揺れていた。まるで、彼自身、己の言葉に戸惑っているような表情だった。

私はいよいよ困ってしまう。教師になって数年、生徒の言葉に翻弄されることは何度もあったけれど、随分深刻な問題にぶち当たっているような気になった。道端であった猫を逃がすまいとゆっくりと距離を縮める時のように、目線はファイルに戻しながら、慎重に言葉を選ぶ。しかし途中でレスポンスの速度のほうが重要だと思い直し「いいんじゃないかな」とだけ発言した。あとに続ける言葉を考えていたら、匪口君はますます項垂れる。

「先生、俺、生きてていいのかな」

何でもない風を装うつもりだったのに、つい顔をあげる。どんな表情で吐き出された言葉なのか気になって覗き込むと、自嘲気味な笑顔が張り付けられていた。それを見ただけで、彼が今までどんなことを考え、どんな風に生きてきたかを、知ってしまったような気になる。実際、物事の表層すら見えていないのだろうけど、想像力が働くには十分だった。そんな言葉を笑って言えるような人に会ったのは、初めてだ。もしかしたら今まで、痛みを誤魔化しながら、平気な振りで生きてきたのかもしれない。

「生きてていい、っていうか。生きてて欲しい人は、いっぱいいるんじゃないかな」
「……例えばー?」
「匪口君のことよく知らないから無責任なこと言えないけど、まぁ、私も、その一人だよ」

彼が黙り込む。彼も近くのファイルを目の前に持ってきて、雑にめくった。

「でもさぁ、俺がいなくなったって、先生には何のダメージもなくない?」
「それをあなたが決めるのは勝手だよ」
「だって、ただの担任と生徒でしょ」
「確かに、ただの生徒だけどさ」

意味もなくばらばらとめくられていくファイルが、風を巻き起こして彼の前髪を揺らした。爪の次は伸びきった髪の毛だなと思う。彼にまとわりつく余計なものすべてを、取り去ってしまいたい。

「結構お気に入りの生徒なんだよ。匪口君は」
「えこひいきじゃん」
「される側なんだからいいでしょ」
「……ていうかなんで俺なんか気に入ってるの?」
「なんでだと思う?」

匪口君の手が止まる。じっと上目にこちらを覗くので、あぁそれ小動物みたいで可愛いよと思ったが、みすみすヒントは与えない。

「俺けっこー問題児だし、先生受けするタイプじゃないと思ってた」
「そだね。でもまあ、先生っていうのは手がかかる子ほど可愛くなっちゃうもんだよ」
「へー。じゃあ遅刻とか授業中の居眠りとか、やめられそうにないな」
「あ、授業中の居眠りは別。あれむかつくから」
「え、マジかよ」

匪口君が笑い、ほっとする。その場しのぎの幸福しかあげられないことに無念さを感じながらも、満足感はあった。

匪口君がこの十五年をどうやって生きてきたか知らないし、多分今後、教えてもらえることもないだろう。だけど、来年また新しい受験生を担当することになっても、再来年、別の学年を受け持つことになっても、数年後、この仕事を辞めたとしても。きっと恐らく、彼の記憶は私の中に生き続ける。

「私が将来、ふと匪口君のこと思い出した時に、匪口君がこの世にいないのは寂しい」

匪口君の笑顔が消えた。廊下を誰かがかけていく音の向こうで、吹奏楽部の楽器のチューニング音が聞こえる。

どんどんと、耳元で戸を叩くような響きがあった。それが自分の体内にある、脈の音だと理解した時、ふと冷静に自分の言葉を認識する。咄嗟に椅子をもう半分後ろにずらして、冗談みたいに付け足した。

「たとえニートだろうがフリーターだろうが、生きててくれれば、喜ぶ人は必ずいるから」

しばらくの沈黙の後、固く結んでいた唇を、ふと緩めた。「教師の言葉とは思えないね」とファイルをしまい込むのを見て、やっぱり切りそろえられた爪に目がいった。

「ま、焦んなくていいから。失敗してもいいから。まずは生きて、やりたいこと探しな。そしたらあっという間だから」
「うん、サンキュー」

口の端をあげて笑う匪口君。正しい答えなど存在しないだろうけど、自分の回答が及第点だったのだと言い聞かせる。

匪口君がこの先、どこへ行くかは分からない。何を選択していくのかも、知り得ない。卒業を最後に、一切交わることのない道を、それでもいいと思う。彼がふと中学時代を思い出す時、その一端にでも私がいたら僥倖だ。




End

160926

「永遠の19歳」に提出