12
現在の状況。勢い余った俺はみょうじの家を飛び出して、少し早目の通勤中。
しかしマンションを出た所で何とも初歩的なミスに気づいてしまう。俺は何一つ自分の荷物を持ち出していなかった。
洗面所で顔の落書きを落とした後、洋服を着替えたぐらいで、他に何の準備もして来なかったのだ。携帯はおろか、財布さえも忘れてしまった。仕事のデータが詰まったUSBもだ。
足を止めて項垂れると迷惑そうに人の波が俺を避けて行った。駅の方角に向かって踏み出しかけていたけれど、財布を持っていないのだから電車に乗ることすらできない。
仕方ない。俺は深いため息を吐き出して、ゆっくりとした足取りで本庁へと歩き始める。
幸いここから仕事場まで歩いて行けない距離ではない。一駅分ぐらい頑張るしか道はないようだ。
忘れ物を取りに家に帰ればいいのだろうけど、今戻るのはどうしても癪だった。出てきて十分と経っていないうちに、みょうじのニヤケ顔に迎え入れられるなんて情けなさすぎる。
仕事場について、まず向かったのは笛吹さんの元だった。お金を借りなきゃ昼飯すら食えないと思ったからだ。
「匪口……出勤してきたということは、ちゃんとケジメをつけてきたんだろうな?」
「……」
しかしそれが過ちだったことに気づく。笛吹さんの眼鏡が光を反射するのを見て、ため息をつきそうになった。
ケジメ……もなにもさぁ、最初から俺たちはやましい関係じゃないって言うのに。
だけど言い訳しても面倒だと判断し、「まぁ、大体」とだけ答える。笛吹さんは曖昧な俺の答えに不満を抱いたのか、眉を寄せると眼鏡を押し上げた。
「……大体とはなんだ。ちゃんとあの女の家を出ろと言っただろう。家のリフォームだったか?それが終わるまでは私の家に置いてやる」
「うーん。ありがたいんだけどさ、いいよ。他当たるから」
「当てがあるのか?」
「……まーね。俺だって友達の一人や二人いるよ」
嘘だった。みょうじにも見破られた通り、俺には頼れるような友達がほとんどいない。
でも、ここで笛吹さんの家に泊まるのは得策とは言えないだろう。家を破壊されたことを隠し通すことも面倒だし、みょうじの家に荷物を取りに行くこともままならなくなってしまう。
訝しむようにこちらを観察していた笛吹さんが、何かを諦めたようにため息を吐いた。それから徐に財布を取り出すと、五千円札を一枚引き抜いた。俺はそれを指でつまむように受け取り、にやりと笑って見せる。
「サンキュー笛吹さん。これで昼飯食えるよ」
「言っとくが貸しただけだぞ?返すんだからな。分かっているだろうな?」
「ケチくさいなぁ。分かってるよ」
笛吹さんに背を向けて早々に刑事部を出る。借りた五千円札を折りたたんでポケットに押し込むと、俺は自分の職場に戻ることにした。
五千円……か。こんなんじゃ安いホテルも泊まれないや。そもそも一泊そこらじゃどうにもならないし。
やっぱり、みょうじの家に戻らなきゃ……なのかな。あー、でもあいつのニヤけ顔、想像しただけで腹立たしい。
何処に行こうか、どうやって荷物を回収しようか。そんなことを考えていたらあっという間に一日が終わってしまった。
笛吹さんにああ言ってしまった手前、今更泊めてほしいなんて言い出せない。筑紫さんや笹塚さんも同じだ。あの二人に泊めてもらったら、自然と笛吹さんにも伝わってしまうだろう。
どうしたもんかな、なんて頭を悩ませながら夜の街を歩いていた俺は、自然と彼女のマンションの前に立ち尽くしていた。習慣とは恐ろしいものである。
都会といえど少し中心街から離れたここは、夜の静けさが際立っていた。俺は彼女の部屋があるであろう階を見上げ、ごくりと唾を飲み込んだ。
とりあえず、財布や携帯を回収しないことには何もできない。合鍵だって返さなきゃいけないし、まずはもう一度会いに行こう。
ようやく決意した俺は、マンションへと踏み込んだ。すっかり慣れたエレベーターに乗り込み彼女の部屋の前までいく。
緊張する自分に気づいていながら、そっと鍵を開けた。いとも簡単に開く扉。俺は恐る恐る中を覗きこむ。
「……邪魔するよ?」
ただいま、なんて言葉が出そうになって慌てて引っ込めた。奥を見れば、暗い廊下の向こう、リビングに明かりが灯っている。
玄関に上がった俺は、ゆっくりと、慎重に、できるだけ気配を消して足を進めた。早鐘のように鳴り響く心臓。不法侵入をしているような、酷く落ち着かない心持ちだった。
やっとの思いで辿り着いたリビング前。どうにか気づかれないように向こうの様子を確認できやしないかと息を潜めた。そっとリビングの方へと顔を突き出した時、不意に肩をたたかれる。
「匪口?」
聞き間違えるはずがなかった。みょうじの声。心臓が破裂しそうな程に存在を主張して、全身の血の気が失せるのを感じた。素早く振り返って壁に背中を打ち付けるとそんな俺の動作に驚いたようで、彼女が僅かに身を引く。
「どうしたの匪口……」
「えっ、あ、いや、その、これは……」
「帰り遅いから心配したんだよ?携帯忘れてくから連絡もできないしさぁ」
「……は?」
呆ける俺を気にも留めず彼女がリビングへと入って行った。俺は振り返り、彼女が出てきた場所を見つめる。どうやらみょうじはトイレに入っていたらしい。すっかりリビングに意識を向けていたせいで気づくことができなかった。
慌てて彼女の後を追い、リビングに入る。別に今朝出て行った時となんら変わらない、彼女の家。そしてそこに違和感なく紛れ込んだ俺の私物。すべてが溶け合って、一つの空間を作り出しているような錯覚さえ覚えた。
妙な感情に戸惑っていると、先に椅子に座った彼女が黙々とご飯を食べ始めた。そして何故かその向かい側には、当然のように用意されているもう一人分の食事。
「ご飯先に食べてるよ、匪口」
「え……?あ、あのさ」
「もう冷めてるかも。電子レンジでチンしておいでー」
「ねえ、みょうじ……」
「あ、匪口」
現状が理解できずにただ狼狽えてばかりいる俺を、彼女が静かな瞳で見据えた。急に見せられた真剣な態度。俺は思わず動きを止めて、みょうじを見つめ返す。
「おかえりなさい」
にっこりと笑った彼女は確かにそう言った。その瞬間、全身の力が抜け、疲労が一気に押し寄せるのを感じた。
人の気も知らないで、こいつはさ……。俺はぐっと唇を噛みしめるとみょうじに歩み寄る。
「?どうした匪口」
「どうしたもこうしたもないでしょ……」
茶碗を持ったまま俺を見上げたみょうじの隣に立つ。不機嫌そうな俺にようやく疑問を抱いたのか、彼女の表情が少し曇った。
俺はそっと手を差し出すと、彼女の頬に触れる。驚きを隠せずに瞬いたみょうじが僅かに体を震わした。
「ご飯粒、ついてる」
こいつには適わないや。内心思いながらも米粒を指でつまむと、彼女があどけない笑顔を浮かべて礼を述べた。
乗りかかった船……という表現は少し可笑しいか。でも、そんなつもりで一ケ月、ちゃんと契約を果たそうかな。
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