08
「みょうじ……」
どこか力ない声とともに体を揺さぶられた。重たい瞼を開ければ飛び込んでくるのは眩しい限りの朝日。
「あと五分……」
「俺もう家出るから、起きれなくても知らないよ」
「それは……困る」
「じゃあ、起きなって……」
やけに弱々しい匪口の声に、だんだんと覚醒し始めた脳みそが昨夜のやり取りを思い出した。
「匪口……眠そう」
「んあ?」
「徹夜したの?結局」
「……誰かさんのせいでね」
体を起こして彼を見やると調度欠伸をかましている所だった。確かに目の下には濃い隈ができている。いつもぱっちりしている可愛らしい目は半分の大きさだった。
「起きたね。俺行くからね」
「うん」
「じゃあね」
「いってらっしゃい」
部屋の戸が閉まってから数秒後、玄関の扉を開け閉めする音が響いた。
私は布団の上でしばらく呆けた後、思い出したように活動を開始する。
リビングに出ると、ローテーブルの上に広げてあったたくさんの書類は綺麗に片付けられていた。存在感のあったノート型パソコンもなくなっている。
「……ちょいとやりすぎたかな」
誰に言うでもなく呟いたのは罪悪感からだった。眠たげな表情とふらつく背中。思い出すだけで後悔の念が押し寄せる。
けれど、私が思い悩むのは一瞬のことだった。彼が一晩中作業をしていたローテーブルの下、何かが落ちているのを見つけたのだ。
嫌な予感がした私はすぐさま駆け寄ってそれを拾う。それは匪口が一晩かけてまとめたと思われる今日のための資料の一部のようだった。
「匪口ってばドジ!」
慌てて携帯を取り出し電話してみるけれど、彼は出なかった。ひょっとしたらひょっとしなくとも二日の徹夜のせいでぼんやりしているのかもしれない。
だとしたら、これは私の責任……なのかな。
電話で呼び戻すことは諦め、携帯を潔く閉じた。私はできる限りのスピードで身支度を始める。幸いなのは私の用事まではまだ時間があることだった。
罪滅ぼしではないけれど、同居人として少しぐらい優しくしてやってもいいかな、なんて。
この間美味しいケーキ買ってきてくれたしね。
「…………迷った!」
悲痛の声を張り上げたというのに、すれ違う人は皆目を逸らして通り過ぎてゆく。
ここは天下の警視庁。それなのに迷子一人助けないなんて、警察の風上にも置けん。……確かに、迷子というには大きいかもしれないけど。
書類を強く抱きしめて周囲を見渡す。この景色、もう何度見たことだろう。私はさっきから同じ場所をぐるぐる回っているようだった。
そもそも匪口が忘れ物なんてしなければこんなことにはならなかったのに。私だって暇じゃないんだ。早くしないと用事に間に合わなくなってしまう。
もう諦めちゃおっかな、なんて考えかけたところで、不意に肩を叩かれた。びっくりして素早く振り返ると、勢いに気圧されたのか少々背を沿った男がいた。くたびれたスーツに色素の薄い髪と目。目の周りを縁取る隈は、今朝の匪口といい勝負だった。
「…………誰、ですか」
「俺は普通にここの職員。それより君こそこんな所で何してんの?」
「これ、知り合いに届けに来たんですけど」
抱え込んでいた書類を男の前に突き出せば、観察するような視線がそれを滑った。特に悪いことをしていなくても、警察といると妙な緊張を抱いてしまう。私は息をひそめて彼の言葉を待った。
「……確かに、この右下の印は本物だな」
「疑ってたんですか?失礼な……」
「職業柄ね。で、どこに行きてーの?」
「出口どっちですか?」
「……?せっかく来たのに届けずに帰るの?」
「もう疲れたから諦めようかと」
「根気なさすぎだろ……。誰に届けようとしてたわけ」
「匪口……、下の名前忘れた」
契約書に記入してもらった時の記憶を辿ろうと首を傾げるけれど、そこだけ靄がかかったように思い出せなかった。名字が珍しくてインパクトが強すぎたせいだ。
私の目の前の緩んだ空気をまとう男が僅かに表情を変えた気がした。私のことを上から下まで観察した後、頭を僅かに傾けて問う。
「あいつと知り合い?」
「まあ、知り合いというかなんというか。嫁?」
「……」
「……」
「…………」
「…………冗談ですよおじさん」
「おじさん……。いや、違いない。案内するよ」
なんだよ預かってくれないのかよ。時刻を確認すると大分余裕がなくなっていた。
私は仕方なく、深いため息を吐き出したあと男の背中を追った。
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