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これはきっと報いだ。ずっと逃げ続けていた臆病者な私の自業自得。
今思えば伝えるチャンスなんて、いくらでもあったんだ。
どうやって家まで帰ったのか覚えていないけれど、高熱で遊び歩いたことを親に酷く叱られたのは覚えている。私はあのまま力尽きて、三日間寝込んだ。健康だけが取り柄の私がこんなことになったのは、生まれてはじめてだった。
寝たり覚めたりする中で、私は何度も夢を見た。
高杉君の、夢。
忘れよう、止めようって思っていても、何度も思い浮かぶ彼。消したいのに、消えない。だって、幻なんかじゃない。あきらめようと思えば思うほど、幸せだったあの時のやりとりを思い出す。
ボタンだって結局捨てられないまま。未だに自分が何かにすがりついているようで、酷く情けなかった。惨めで悔しくて、高杉君のアドレスを消してみた。でも、何度も見つめていたアドレスは、すっかり私の脳内に刻み込まれていて、簡単に思い出せた。つくづく自分には呆れる。
測定終了を知らせる電子音。脇に挟んでいた体温計を見やれば、平熱よりは少し高めだけれど、大分下がっていた。
もう大丈夫だろう。私は軽く息をついて体温計をしまう。ベッドから体を起して立ち上がれば冷えた空気が体を包む。思わず身震い。
ぼんやりと立ちつくせば、久しぶりの感覚。どうしようもない焦燥感が私を襲っていた。私の中の大切な部分が欠陥したような、そんな感じ。手に入らないものに焦がれたことは何度もあったけれど、この苦しみと悲しみは異常なほどだ。
再び考え始めた自分に気づき、慌てて思考を遮断する。寒さを感じたことを思い出し、私は近くにあった上着に手を伸ばした。
その際、目の端で何かが光るのを感じた。それを視線で追うと、机の上にこの三日間放置していた携帯が点灯していた。何気なくそれを手に取った私が久しぶりの感触を感じつつ中を見れば、予想外の光景。思わず固まった。
見慣れない番号からの着信通知、53件。尋常じゃない。
「何、これ」
思わず零れた独り言。怖くなったのと同時に不安になった。何か緊急の連絡かと思い、慌ててメールフォルダを確認する。着信ほどではないけれどこちらも結構溜まっていた。見れば、送り主はさっちゃんや近藤君、それに山崎君だった。
ああ、謝らなくちゃ。ぼんやりとした頭で思い出すのはあの日の最後の会話。山崎君の表情が頭から離れない。
憂鬱を感じながらも画面をスライドさせていくと、沖田総悟。その四文字に指が止まった。
あの時対峙した鋭い双眸を思い出し、緊張した。全てを見透かすような責める視線に、何も答えることの出来なかった自分を思い出す。
冷たい言葉が並んでいることを想像しながら、私は恐る恐るメールを開封した。しかし、私の予想に反して「電話、出ろ」の簡潔な文。なんだ…。あの大量の着信履歴は沖田君だったのか。
拍子抜けすると同時にわき上がった疑問。私は沖田君に携帯の番号を教えた記憶がない。それに、ここまでして伝えたいことって、何?
頭を悩ませ始めた時、掌で携帯が震え出した。驚いて取り落としそうになりながらも画面を見れば、やはり先ほどの番号。
沖田君、だよね。
私は少々の迷いを振り払うように深く息を吸い込むと、意を決して通話ボタンを押した。
「もっ、もしも」
『おせーよバカ』
鋭い声が遮るように吐き出された。低くて冷たい声に思わず肩をすぼめる。
「おっ、沖田君だよね?!なんで電話番号知ってるの?」
『ストーカー女に……ってあんたもストーカーだったねィ。銀八追っかけてる眼鏡に聞いたんでさァ』
「さっちゃんがそんな簡単に教えるわけ……」
『銀八の写真やったら一発でィ』
「さっちゃんんんん!」
正直、恨めしく思った。今は沖田君と話したくない。カラオケボックスでのやりとりを鮮明に思い出し、恐怖を感じた。
「……なんでそんなこと、したの」
『山崎に全部聞きやした』
ああ、山崎君が…。彼等が仲の良かったことを思い出し、納得すると同時にうんざりした。またこうなるんだ。自分で撒いた種なのだから仕方がないけれど、もう周りの干渉を受けるのは疲れた。
『高杉のこと、諦めるんだって?』
言葉にされると、心臓が脈打つ。携帯を握る手に汗が滲んだのがわかった。
「うん、そうだよ」
できるだけいつもの調子を意識して答えたつもりだったのに、私の声は情けないくらいに震えていた。
『なんで』
「……だってもう、会えないし」
自分に言い聞かせているようだと思った。私は机の端に転がる第二ボタンを横目に確認する。
いつだって私は口先だけだ。
『じゃあ、会えんならいいのかィ』
「……?」
突如、沖田君が私を試すように問いかけた。意味が理解できずに答えかねていると、彼は普段通りの調子で淡々と続けた。
『高杉の野郎が、あんたに会いたいって』
「え」
『あんたにとってはこの上ないことなんじゃねーのかィ』
彼の言っていることが、よく分からなかった。取り落としそうになった携帯を、強く握りしめる。
「うそ」
『嘘じゃねェ』
沖田君の表情は見えない。でも、ひどく真剣な声音だった。嘘をついているようには到底思えなかったけれど、私は自分に言い聞かせるように、強く首を左右に振った。
「嘘、だよ。だって、高杉君がそんなこと……」
『嘘じゃねェって』
さっきより強い声で繰り返されてしまい、何も言えなくなる。下がったはずの熱が、再び上がってきているような気がした。
『行くんだろィ?』
「やっ、やだよ」
反射的に否定してから、改めて思う。嫌だ。会いたくない。もう私は、彼に立ち向かう勇気がない。
当たっても当たらなくても終わってしまうなら、このまま消してしまった方がきっと楽。
「私、会わない」
やっぱり声は震えた。でも、今度ははっきりとした口調で伝えた。
高杉君はどんな心境で沖田君に伝言を託したの?それすら気まぐれの様な気がしてならない。色々な思いが交差しかけたその時、私の意識は沖田君の怒鳴り声で呼び覚まされることになる。
『ふざけんじゃねェ!』
電話を持つ手がしびれを感じるくらいの大きな声だった。耳鳴りの様な痛みが走りぬけ、息が止まる。沖田君が、怒鳴った。いつも飄々としていて感情を表に出さない彼が、確かに私に怒鳴ったのだ。
『今さらやめる?冗談じゃねェ』
「え……」
『うだうだ言ってねェで会いに行きゃァいいんでさァ!』
先ほどよりは声の大きさは下がったけれど、彼の怒りはおさまらない。私は携帯を握る手に一層力を込めた。沖田君の言葉に心中を渦巻いていた感情が、ふつふつと沸き上がり始める。
ああ、まただ。この感じ。苛立ちとか悔しさとか、悲しい感情が支配していく。私はその気持ちの盛り上がりに身を任せ、負けじと声を張り上げた。
「しょうがないじゃん!」
沖田君が言葉を止めた。
「私だって苦しいんだよ!沖田君に……沖田君に私の気持ちなんて分かりっこないんだからっ!」
呼吸もせずに一気に叫んだせいで、肩が揺れる。
言ってしまった。後悔の念が襲う。つい先日山崎君に八つ当たりしてしまった時のように、恥ずかしさと情けなさが込み上げた。
私の、馬鹿。最低。いつも関係のない人に感情を叩きつけて。罪悪感に泣きたくなって、表情が歪んだのを感じた。
『ああ、分かんねェよ』
冷たい声に背筋が凍る。怒らせてしまった。相手の表情が見えないために、一層恐怖が膨らむ。緩んだ涙腺を感じ、目元に手を当てたら濡れていた。
もう駄目だ。本当に最低。自己嫌悪の嵐に何も言えずにただ鼻を啜る。沖田君は何も言わない。沈黙が続き、通話時間だけが刻々と増していく。
『あんたはただ、悲劇のヒロインぶってるだけでさァ』
漸く開口した彼の言葉は、直接胸に突き刺さった。あまりにも刺々しい言い方に、余計に涙があふれた。ショックで、でも、それが事実であることも分かっていて、やるせない感情が広がっていく。
ふと、山崎君にも逃げているだけだと言われたことを思い出した。ああ、私は今まで、何をしてたんだろう。無性に悲しくなって、もう一度鼻をすすった。
「お、沖田君、私……」
逃げちゃだめなんだね。
改めて心の中で紡いだ言葉。ここまで好き勝手やってきた私は、最後までそれを通さなくてはならない。
悲劇のヒロインになんてなれやしない。
私は最後まで戦う、できそこないのヒーローにならなくちゃいけないんだ。
例えそれがどんなに滑稽なことになろうと、最後まで物語を終わらせることはできない。
できやしないんだ。
『……慰めてやらァ』
「……!」
『お前が砕けたら、慰めてやる。だから跡形も残らねェくらい、粉々になって来なせェ』
「……」
一瞬、ときめきかけた自分が馬鹿だった。でもきっと、彼なりの応援なんだろうと思い直し、私は小さく笑いを零した。
「ありがと、沖田君。私、思い切りぶつかってくるよ」
『おう』
どうやら私は思っていたより、沢山の人に支えられていたらしい。心の奥底で燻っていた感情が、霧が晴れるかの如く消えていくように思えた。
『高校の屋上に午後五時』
「え?」
『高杉からの伝言でさァ』
それだけ言うと沖田君は潔く携帯を切った。無機質な電子音が耳の奥まで響きわたる。
私はしばらく呆けた後、漸く我に返り、時間を確認した。壁に掛けられた時計を見れば、午後四時を過ぎていた。
やばい、ここから学校まで一時間はかかる。自分がまだパジャマであることを思い出して、血の気が失せるのを感じた。
慌てて携帯を放り、支度をしようと慌ただしく動き出す。
その時、視界の端に入った第二ボタン。私は目尻にたまったままだった涙を拭い、意思を固めるように、深くゆっくりと息を吐きだした。
End
090915
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