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期待してなかったと言えば、嘘になると思う。私は黒板の右端に書かれた日付を繰り返し確認する。何度見ても変わらない、三月十四日。
「やけにそわそわしてやすね」
後ろの席の沖田君が私の椅子を蹴った。驚いて振り返ればにたにたと嫌な笑い方をする彼が私を見据えていた。
「……別に、そんなこと」
「ホワイトデー」
明瞭に紡がれた言葉に自然と固まった体。私はどうも嘘が苦手なようだ。沖田君は露骨な態度に確信したのかさらに笑みを強めた。
「終わりやすね。もうすぐ今日が」
「……そうだね」
「そろそろ銀八が来て帰りのホームルームでさァ」
「そうだね」
「言っとくけど俺も何も用意してねーからな」
「……期待してませんー」
嘘。沖田君もなんだかんだでくれるかと思ってたのに。ケチー。もう絶対あげないんだからァァァ!……というかあげた覚えもない。奪われたんだった。
拗ねたように前に向き直ればちょうど銀八先生が教室に入ってきたところだった。すぐにかけられた号令。お辞儀しながらも思うのは高杉君のこと。どうして、今日、学校来ないの?
「おーい、この高杉ばか。聞いてんのか?」
そこまで考えていた時、銀八先生と視線がぶつかっているのに気づいた。我にかえって何度も頷けば、先生は少しだけ眉を寄せた。
「おめーだけだぞ、進路希望出してねェの。後で国語準備室来なさい」
「えっ?」
やばい。一週間くらい前に進路希望調査の紙を配られたのをすっかり忘れていた。確か翌日提出のはずだったのに。かなりすぎてる!
「そんじゃー、解散ン」
先生は面倒臭そうに言い捨てると教室を出て行った。私はクリアファイルの中をあさり、進路希望調査を引っ掴むと、慌ててその白衣の後姿を追いかけた。
「はい、ごくろーさん」
必死に追いかけて提出したというのに、銀八先生はたいして興味なさげに呟くと、私の紙を他の人の進路希望調査の山に無造作に重ねた。彼の座る回転椅子が軋む。
先生の右手は止まることなく何かを記入している。左手は彼のトレードマークともいえるイチゴ牛乳のブリックパックがしっかりと握られていて、たまにストローをピンク色が昇っていった。
「せんせー」
「なんだ」
煙草の匂いが広がる部屋の中、私は彼が言葉を続けないのを確認すると、遠慮がちに問いかけた。
「先生さっき、私以外全員……って言いましたよね?」
「言ったな」
「それって……高杉君も出したんですか?」
「ああ」
意外にも簡単に先生は口を割った。生徒の個人情報は護られていないのだろうか。少し不安になったけれど、聞いたのは私なので文句も言えない。
「……でも、高杉君一週間休んでたじゃないですか。一体いつ……」
「あいつ今日来てるよ」
私の質問を遮った先生。驚いて言葉を止めれば、ずっと動かしていた右手を止めて先生が私を見上げた。
「……なんで、教室……来ないんでしょう」
もしかして、私が嫌だから?ホワイトデーなんて面倒くさいとか思ってるのかな。一回マイナス思考になると、どんどん落ち込んでゆく。だんだん小さくなった語尾に気づいたのか、先生がじっと私を見据えた。
「……ホワイトデー?」
「……」
探るように先生に問いかけられて、言葉を失った。どうしてこんなに、私の考えていることは筒抜けなんだろうか。
「もらってねーの?」
イチゴ牛乳を置いてから回転椅子をまわし、私に向き直った銀八先生が真面目な表情で問いかけてくる。私は黙ったまま頷き、少しだけ視線をそらした。なんだか、つらい。
「別に見返りを求めてチョコレートあげたわけじゃないんですけど……」
どうしてだろう。このまま何事もなかったかのように流されてしまったら、嫌だ。
矛盾した考えやわがままな思いに自己嫌悪。俯いたまま黙り込んでいれば、不意に頭に温かいものが触れた。驚いて顔をあげれば、柔らかい視線とぶつかる。それで漸く先生に頭を撫でられていることを知った。
「まー、大丈夫だって。なんとかなるだろ」
「……先生」
きっと覚えてるって。そう付け足して先生はにやりと笑った。私はそれに弱々しい笑みを返すことしかできなかった。だって、覚えていて返してくれないことだってあるはずだ。
「あ、そーだ。坂本が呼んでたぞ」
「え、坂本先生が?」
「職員室だ。悪ィな、忘れてた」
私は慌てて身を翻すと国語準備室と廊下を隔てる扉に手をかける。
「失礼しました!」
「おうよ」
最後に視界の端に映った銀色。銀八先生は私のことを慰めてくれたに違いない。感謝の気持ちを抱きながらも国語準備室を後にした。廊下を走れば放課後で人の少なくなった校舎内に足音が響き渡る。何故だかそれが更に切なさを増幅させた。
「その表情をどーして高杉に見せねェかなァ……」
銀八先生の呟きは既に遠く離れた私には届かなかった。
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