大切な人へ


蓮二と過ごす二度目の夏がすぐそこまでやってきていた。

アパートのベランダの手すりに体を預けて、わたしは夜空を見上げていた。
昼間の溶けるような暑さを少しだけ残した生ぬるい風が心地いい。ぼやけた月が淡い光で街を照らしていた。
夏の一歩手前のこの季節が好きだ。特に夜の、それも人が眠りについたような真夜中の。
少し湿った土の香りと植物の懐かしいような匂いと、なんだか浮足立ってしまうこの感覚がたまらなく好きだった。


ベランダから部屋にある時計で時間を確認して、昼間から干しっぱなしだったノースリーブのワンピースを取り込んでそのままそれに着替えた。
ワンピースといってもよそ行きのものじゃなくて、コットン素材のルームウェアみたいなものだ。
服装に合わせて髪をゆるく纏めていると、ふいにインターホンが鳴った。
狭い廊下をすり抜けて玄関のドアを開けると、そこには想像通りの人物が立っていた。

「ふふ。いらっしゃい、蓮二」
「なまえ。他に言うことがあるのではないか?」
「えーと……、ごめんね、かな?それとも来てくれてありがとう?」

窺うようにそう言ったら蓮二は少しだけ頬を緩ませた。

「別に謝って欲しいわけでも感謝されたいわけでもないが……心配するからやめてくれ」

はーい、なんて間の抜けた返事を返したら蓮二はやれやれ、と眉を下げる。
こうやって、もうすぐ日付が変わるという時間に蓮二がわざわざ家まで来てくれたのはわたしがさっき送ったメッセージのせいだ。

"お散歩してくるね"

そんなメッセージを送ったらいつもは返信がくるまでそこそこ時間が空く蓮二から珍しくすぐに返信がきた。

"夜道は危ないからやめろ"

あえてそのメッセージに既読だけつけて無視をしていたら、もう一度すぐにメッセージが届く。

"これから行くから待っていろ"

もしかして蓮二なら来てくれるんじゃないかなぁ、なんてあざとい目論見があったのは内緒だ。多分、そんなの蓮二にはお見通しなんだろうけど。


「蓮二歩いてきたよね。疲れてない?少し部屋で休んでく?」
「いや、いい。伊達に長年テニスをやっているわけじゃないからな。この程度、準備運動にもならない」
「そっか。じゃあ早速お散歩に付き合ってもらおうかな」

サンダルを履いて部屋を出ると、部屋から外を見たときよりも道は明るく見えた。
隣を歩く蓮二の顔もはっきりと見える。
それでも誰もいない夜道はたまに遠くに車のエンジン音が聞こえるぐらいでなんだか心細くて、ひとりだったら5分もしないうちに帰っていたかもしれない。
そんなことを思いながらわたしの右側を歩く蓮二の手を握った。

「ところで散歩のあてはあるのか?」
「んーん。近所をぶらぶらしようと思ってただけ」
「そんなことだろうとは思ったが。では、少し歩くがあっちの公園まで行ってみるか?」
「あ、いいね。ふふ、なんかお散歩っていうよりデートみたい。真夜中のデート」
「俺は最初からそのつもりで来たんだがな」

昼間に街でするデートよりもずっとゆっくりとしたスピードで、手を繋いでぶらぶらと歩く。
ぬるい風が吹き抜けるたびに蓮二の髪がさらさらと揺れて、またあの懐かしさを感じさせる香りがした。

「ねぇ、蓮二は分かる?この季節の特有の香り。友達に言っても分かる子と分からない子がいるんだよね」
「あぁ、どの季節にも違った空気の匂いはあるな」
「なんかさ。この感じが大好きで、懐かしくて、うきうきするんだけど、同時に切なくもなる。どうしてだろうね。
……それでね、こんな時に隣にいるのが蓮二でよかったなぁ、って今、思ってたりもする。はは、意味分かんないよね、何言ってんだろ、わたし。」

本当にわけ分かんない。なんか柄にもなくクサいこと言っちゃったな、恥ずかしい。
そう思ったとき、蓮二が突然足を止めたから、繋いでいた手が自然に離れた。わたしも足を止めて、蓮二を見上げる。

「……蓮二?」

月明かりが逆光になって、表情がよく見えない。
何か言おうと思ったけど、そっと伸びた蓮二の手がわたしの頬を包んで優しく撫でたから、もう何にも言えなくなってしまった。
少しずつ近づく距離に、わたしはそっとまぶたを閉じた。

薄く重なった口唇が離れるまでの短い時間に、わたしの心臓は急激に速度を上げていた。
こんな夜中に人に見られる心配はないだろうけど、蓮二は外でこんなことする人じゃないのに。
あぁ、なんだかいけないことをしてる気分だ。

頬を包んでいた蓮二の手がわたしの頭を撫でる。
蓮二は何にもなかったみたいにまたわたしの手を握ってゆっくりと歩き始めるから、わたしもとぼとぼとあとをついて行く。
突然の出来事で頭はあんまりついていってなかったけどここで、急にどうしたの?なんて理由を聞くのは野暮な気がして黙って歩いた。


熱くなった頬を掠める夜風がやけに優しくて、きっとわたしはこれから毎年この季節がきたら、この夜のことを思い出してしまうんだろう。
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