ベランダの蛍


「みょうじさんって煙草吸うんですかぁ?いっがーい!」

後輩の女の子の甲高い声にパソコンに向かって仕事をしていた周りの社員が一斉にこちらを振り向いた。

「ちょっと、声大きいってば」
「だってぇ、煙草なんて大嫌いですって顔、してるじゃないですかぁ」

してねーよ。それよりその語尾を伸ばす喋り方どうにかならない?
そんなことを心の中で吐き捨てながら作り笑顔を貼り付ける。
煙草を吸う女なんて今時珍しくもなんともないけど、なんとなく隠しておきたかったのに、どうして軽い雑談でこの口の軽い後輩の子に話してしまったんだろうとわたしは激しく後悔した。
まわりに知られないように会社の喫煙所なんて絶対に利用しないし、知ってるのも恋人か仲のいい友達くらいだったのに。ああ本当に失敗した。
まだその話題についてあれこれ話している後輩の女の子は、さっきよりもさらに甘ったるい媚びた声を出して、近くを通りかかったわたしの同僚である幸村精市を呼び止めた。

「あっ、幸村さーん!知ってましたぁ?みょうじさん喫煙者なんですって。なんか意外じゃないですかぁ?」
「へぇ……、知らなかったな。確かに意外かもね」
「ね、イメージにないからなんかびっくりしちゃった!今時男の人ですら吸ってる人少ないのに」
「まぁ男とか女とかは関係ないけど、体に良くないことは確かだからほどほどにね」

そう言ってどこかで女子社員にもらったであろう市販のクッキーの小袋をわたしに差し出して、彼は去っていった。
みょうじさんだけずるーいと後輩の子が騒いでいた気がするけど、わたしはさっさと包みを開けてクッキーを口に放り込んでやった。



「なんであのスピーカーみたいな子に言っちゃったんだろ」
「あはは、あの時のなまえの顔ったらなかったよ」
「え、嘘。ちゃんと笑ってたでしょ?」
「表面上はね。でもバレバレだよ」

昼間の出来事を酒の肴にしながらテーブルのお皿からチーズを取ってちびちびと齧る。
仕事終わりにわたしの部屋には恋人である精市が来ていた。
会社の誰もわたしと精市が付き合ってるなんて知らない。別に隠すことではないけど、バレたら色々と面倒だし。会社には精市を狙っている女の子は少なくないし、中にはかなり積極的にアタックをしている子もいたりして、とにかく黙っているに越したことはない。今日の煙草の話みたいに、間違っても口にしてはいけないのだ。

「ちょっと煙草吸ってくるね」
「俺も付き合うよ」
「外、結構寒いよ?」
「少し外の風に当たりたいんだ」

精市は煙草なんか吸わないくせに時々一緒にベランダに出てきてはただ隣にいることがある。
本当は煙草の煙なんて嫌なはずなのに、精市のすることは時々よく分からない。
今日は風がないから、煙草の煙はゆらゆらと漂ってまとわりついてくる。煙を吐くときに一応精市から顔を背けてみるけど、あんまり効果はないかもしれない。

「精市、煙大丈夫?」

そう言いながら不意に精市の方へ顔を向けると、精市の顔が思ったよりも近くにあって、近付いた唇が重なった。そのまま精市の濡れた舌がわたしの唇を舐めたかと思うと、唇を離して精市は笑う。

「うん、煙草の味だ。苦い」

わたしもつられて笑ってしまう。

「分かってるなら、やめとけばいいのに」
「それでも無性にしたくなる時があるんだよ」
「やめた方がいい?煙草。」
「正直言うと最初は嫌だったんだけど。それでもなまえを好きになっちゃったんだから仕方がないよね。やめろなんて言う男、嫌だろ?」

今まで付き合った人にも何度か禁煙しろと言われたことはあったけど、その度に喧嘩になってきた。
付き合う前から知ってたくせに、付き合ったらコントロールしようとするのが嫌で堪らなかった。
でももし今、精市に煙草をやめてと言われたら、もしかしたらわたしはやめられるのかもしれないな。
そんなことを思っていたら、精市は思いついたように言葉を重ねる。

「もしこれからなまえが煙草をやめたくなって、口が寂しかったらその度にさっきみたいにキスをするのはいいかもね」

その台詞に、指に挟んでいた煙草を危うく落としそうになった。
キスは嗜好品に入るのかしら、そんなことを思いながら、わたしは最後になるかもしれない苦い煙を吐き出す。
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