好きと嫌いの攻防戦


この人と一緒にいられるだけで幸せ。
そんな風に思っていた時期があった。
その言葉が過去形になってしまったのは一体いつからだったんだろう。
勿論思いが突然ひっくり返ってしまったわけではない。
知らず知らずのうちにじわじわと。気が付いたらそうなってしまっていた。
少しずつ会話が減っていって、同じ部屋に暮らしてるだけ。最近ではそんな感じだった。


「オサム。……私、明日ここ出てくから。」
「…またえらい急やな。なんで?」
「……なんでも。もう決めたの。」
「…さよか」


そう言ってオサムは煙草を咥えると、100円ライターで火をつける。
吐き出す白い煙を見つめているだけで、それ以上の理由は聞こうともしないし、何の言葉発しない。
それどころか、私のことを見もしない。

ほら。やっぱり。もう私のことなんてどうでもいいんでしょう?
そんなの分かっていたことだけど。
オサムのボロアパートに転がり込んで3年。
付き合ったとほぼ同時にそうなったから"恋愛は3年で冷める"という格言らしきものは間違いではないんだろう。
長くて短かった日々が少しだけ思い出される。
もうちょっと淡々と終われると思っていたのに、やっぱりこうなってしまうと色んな思いが込み上げてくる。
あぁ、もう。違うんだよ。こんなの思い出しちゃったらさ、後悔してしまいそうだ。

沈黙に耐えるために握りしめていたこの部屋の鍵は、温くなってしまっていた。
それについている趣味の悪い小さなこけしのキーホルダーは、どこで見つけて来たのか昔オサムがくれたものだった。

「…これも、返すから」

目の前に鍵を差し出すと、オサムはやっと私に目を向けて、思いきり私の手を掴んだ。
同時に、咥えていた煙草の長くなった灰が、カーペットに落ちる。
あーあ、今朝掃除機かけたばっかりなのに。
オサムは私と暮らすまで掃除機なんてかけたことなかったって言ってたっけ。
ふいにそんなことを思い出してしまって、視界が揺れはじめる。

「もう嫌いなんか。俺のこと。」
「嫌い、…ではないよ」
「なら別れる必要なんてないやろ。」

静かに私を見据えるその瞳は、怒りすら含んでいるように見えた。
ちゃんと目を見て話すなんていつぶりだろう。
こういう時だけ真面目になるなんて本当にどうしようもない男だ。
ちょっと狡いんじゃないかな、そういうのって。
いつもいい加減でさ。私のことなんかもう何とも思ってないくせに。

「…ちゃんと見てくれなくなったのはオサムのほうでしょ。ちょっと自分勝手なんじゃない。」
「自分勝手やから引き止めてんねん。なまえがおらんと生きていけへんで、俺。」
「そんな安っぽい言葉…いらないよ。今さら。」
「きっついこと言いよるなぁ。そない信用できへん?」
「そういう問題じゃないよ。信用とか、別にどうでもいい。」

信用とか信頼とか。本当にどうでもいいの。
ただ、付き合い始めた時みたいに。好きとか、一緒にいて幸せ、とかさ。そういう言葉を聞きたくて。
本当はオサムがいないと生きていけないのは私のほうなんだよ。
あぁやだ。本当に安っぽいよ、こんなの。

泣くつもりなんかなかったのに、意志に反して目から涙がポロポロと零れ落ちていく。
握られた手を引き寄せられてそのまま床に膝をつくと、煙草臭い服に包み込まれる。
昔は嫌でたまらなかったこの匂いが、懐かしくて、愛しさすら覚えた。

「おーおー。そないに泣くんやったら、出てくとか言わんかったらええやんか。」
「別に…泣いてないから。」
「強がるとこもかわええなぁ、なまえは。」
「…またそうやって適当に誤魔化して。本当に嫌い、オサムのそういうとこ。」
「別にええでー。なまえが嫌いでも。俺が好きやから一緒におりたいねん。そんで俺が幸せならそれでええわ。自分勝手やからなぁ、俺は。ハハッ」

…呆れた。
こんなダメな男が本当に教師なんかやってるんだろうか。
でも、そんな男を好きでいる私も私なのかな。
結局さ、惚れたほうの負けなんでしょ、恋愛ってやつは。
だったらきっと、この恋に勝者なんかいないのかもしれない。
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