Narkissos


やっぱりもうやめたい。

教室に静かに響くなまえちゃんの声は震えてた。
あまり使われてない教室の少し黴臭いカーテンの向こうでは部活が始まって、挨拶をしている生徒の声が聞こえる。この張り詰めた空間とは全く別の世界の出来事だと思った。
秒針がゆっくりと時を刻む音だけが室内に響く。
それを何十回とやりすごして、机から放り出した足をぶらぶらさせてたら、なまえちゃんが小さな掠れた声でごめんなさい、って謝ってくるから、俺は仕方なく言葉を返した。

「俺、何かなまえちゃんに嫌われるようなこと、したかなー」
「…してないよ、何も。ジローは悪くない。」
「じゃあなんでそんなこと言うの」

なんでそんなこと、なんて、理由は分かりきってた。
なまえちゃんには恋人がいて、その恋人は俺じゃないってこと。
そんで、俺とこうやって隠れて会ってるってこと。
そうなるように仕向けることぐらい簡単だった。なまえちゃんは優しいから。
いつになく真剣に、それでいて哀しい表情をするなまえちゃんを、俺は意地の悪い気持ちで見ていた。
下らない道徳観なんか捨てちゃえばいいのに。

「ジロー、本当にごめん。でも、だめだよ、やっぱりこんなの。」
「何がだめなの。あいつのことなら、俺は別にいいって言ってるCー」

子どもみたいに屁理屈をこねて手を伸ばしてみれば、ほらね。なまえちゃんは絶対振りほどかない。

あいつと喧嘩でもしてさみしくなったら俺んとこ来なよー。誰かに話したらすっきりするかもよー。なんて言葉を使って甘えさせて。
なまえちゃんからしたら、ちょっとしたお悩み相談だったはずが、いつの間にか物理的な距離まで縮めて。
こうやって触れ合うことが当たり前になって。
一体、さみしかったのはどっちなんだろうねー。

「ねぇ、ジロー。こんな関係、やめよう?わたし…ジローを利用してるんだよ。」
「うん、知ってるー」
「…本当にいやな女なんだよ。」

優しいなまえちゃんは、ホントにイヤな女だと思う。
矛盾してるけど、どっちも嘘じゃない。
どっちもすっげー好きで、大嫌いだ。
だまって俯くなまえちゃんはいつまでもずっと哀しい顔をしてるから、俺はへらへらしてどうにか笑わせようとするんだけど、なまえちゃんはちっとも笑ってくれない。

「なまえちゃん、笑ってよ。ほら、こうやってさー」

そう言って無理やり両手でなまえちゃんの口の端をつりあげてみせたら、なまえちゃんは哀しいのか笑ってるのか分からない表情になった。
こんな顔が見たかったんじゃないのに。
ただ、あいつの隣にいるときみたいに俺の傍でも笑っててほしかっただけなのに。

どうしようもなくなってなまえちゃんの身体を両腕で包み込んで抱き寄せたら、やっぱり優しいなまえちゃんは俺の腕を振りほどかなくて。
きっとこのままキスをしても、なまえちゃんはかなしい顔のまま黙って受け入れてくれるんだろうね。

ねえ、なまえちゃん。優しいなら優しいなりに、ずっと傍にいてよ。
イヤな女ならイヤな女なりに、ちゃんと悪者になってよ。
笑いながら欺いてよ。あいつのことも、俺のことも、自分のことさえもさ。
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