僕の心臓






一限目の授業は八時四十分から。生徒が登校してくるのは大体八時半前後で、日直や部活の朝練なんかがある人はもう少し早い。
日直でも部活の朝練があるわけでもないわたしは、殆どその人たちと同じくらいに登校している。家が比較的近いから、というのが面立った理由だけど。


「相変わらず早いねーおはよ」
「おはよー」
「もうすぐ来るんじゃない?」
「ちょっと!」


部活の朝練を終えたらしい友達にからかわれる。もう、誰がどこで聞いてるかわからないんだから、迂闊なことを言うのは止めて欲しい。

友達が上げたその人は大体、八時二十分から二十五分の間に来る。長い針が数字の4に差し掛かりそうな時計とにらめっこしつつ、お気に入りの桃色のリップクリームを薄く塗り込む。
ブレザーの、シャツの、下着の、皮膚のその下でばくばくと動く心臓がやけにうるさい――まだ、来ていないというのに。


廊下に近い自分の席に座る。友達と話しながら前髪を手ぐしで整えていると、廊下からきびきびとしたハリのある声。わたしには決して向けられないはっきりとした彼の声が、聞こえた。

ぎゅ、と胸の前で手のひらを結ぶ。扉の滑る音が聞こえたら、ワンテンポ遅く振り向いて――彼の、姿を視界に捉える。


「笠松くん、おはよう」
「…………ああ」


見上げた彼――笠松くんはわたしをちらりとも見ず、小さく相槌だけを打つとさっさと自分の席へと進んでいった。短い髪に隠れることなく剥き出しになった耳を、真っ赤に染めて。



「対して進展も何もないのに、まあよく続くもんだ」
「続くって……挨拶だけじゃん」
「だって笠松だよ?」


無事に挨拶を終えたあと友達と連れ立ってトイレへ。
毎日に近い、端から見れば然してなんでもないようなやりとりを見守っている友達が隣で笑う。やけに冷たい水で手を洗いながら、鏡越しに友達を軽く睨んだ。


「笠松くんだから、じゃん!」
「はいはい。まあ、わからないでもないけどさー」
「反応くれるだけ嬉しいじゃない。こつこつ続けてたら、ちょっとは慣れてくれるかもしれないし」


笠松くんは、女の子が苦手らしい。だから話しかけてもああとか違うとかしか返さないし、こっちも見てくれない。男の子と話しているときは全くもってそんなことなく、むしろよく通る声ではきはきと会話をしているから根っこはそちらなのだろう。


そんな人を、好きになってしまった。
自分でも驚くくらい簡単に、一瞬のうちに。


同じクラスであるだけの彼と、どうにか何か繋がりを持つことができないか。
何にも思い付かず、結局同じクラスなのだから、と次の日から始めて早三ヶ月、毎朝一方的に挨拶をするだけの関係に落ち着いてしまった。わたしとしてはもっともっと、彼を知りたいところだけど。そんなにとんとん拍子にうまくは行かないよね。

彼がわたしという存在に慣れてから。
それからでも踏み込むのは遅くないというか、それからでないと踏み込めないというか。


気は長い方ではないけれど、こればっかりは堪えるしかない。


「出来ることからこつこつと!」
「頑張れー」


鏡に写る自分を見つめ片手を挙げると、気の抜けた応援が返ってきた。もう、他人事だからって。






いつもよりもざわついている廊下を、早歩きで進む。滑らせる間もなく開いている扉から教室へと飛び込むと、もう大半は埋まっている席、席、席。
顔を上げ時計を見ると、長い針は今にも8を差しそうだった。


「珍しいね、ギリギリじゃん」
「寝坊してさー朝ごはん食べられなかった」
「クッキー食べる?」


食べる! と答えると既に席に着いていた友達が袋を差し出してくれたので、ありがたくいただく。さくさく、優しく甘いクッキーを噛み砕いた。


「今日は挨拶出来なかった……」
「ま、仕方ないって。また明日から頑張れ」
「うーん」


ほら、ともう一枚出してくれたクッキーを食べる。挨拶出来なくて笠松くんはなんにも思わなかっただろうけど、そんなことわかってるけど、少しだけ……何か、気になってくれてたりしたら。
嬉しいんだけど、なあ。


口にくわえたクッキーをさくさくと食べながら鞄から筆箱を出していると、すぐ後ろでがたんと物音がしたのでなんとなく振り返る。
座っていたからか胸の辺りまでしか見えないその人を見上げると――笠松、くん。普段はぶつかることのない、意思の強そうなきりりとした瞳。ごくん、とクッキーを飲み込むと弾かれたように目線が、姿が離れていった。


「……び、っくりしたあ……っ」


友達は前を向いていたため小さく一人ごちながら、胸の前で手のひらを結ぶ。突然主張を始めた鼓動はなかなか治まりそうにない。

なんだろう、今のは。
偶然? でも、目があったのは偶然だったとして……笠松くんが、わたしを、見てた?


チャイムと共に現れた先生の話は、右から左へとすり抜けていってしまった。





「おはよ」
「おはよー」
「今日は起きられたんだ」


部活の朝練を終えたらしい友達に、からかわれる。さすがに二日連続で寝坊なんてしないよ。

長い針が数字の4に差し掛かりそうな時計とにらめっこしつつ、お気に入りの桃色のリップクリームを薄く塗り込む。
ブレザーの、シャツの、下着の、皮膚のその下でばくばくと動く心臓がやけに――やけに、うるさい。一日空いただけなのに。

席に座りながら前髪を手ぐしで整え、廊下の方から聞こえてくるハリのある声に頬を押さえる。落ち着け、落ち着け。


扉の滑る音を耳にしながら胸の前でぎゅ、と手のひらを結ぶ。いつも通り、ワンテンポ遅らせて振り返って――


「か、笠松くん、おはよう」
「…………ああ」


見上げた彼はいつも通り、わたしには一瞥もくれずに足を進める。進めた、のだけれど。
わたしには確かに、聞こえたのだ。


「………………お、はよう」


消え入るような声で、たったそれだけ。
短い髪に隠れることなく剥き出しになった耳を、真っ赤に染めて。




僕の心臓を
見ればいい、
君をどれだけ好きか
分かるから

(ああもう、たった四文字でこんなに)



ねえ、少しはわたしのこと気になってくれてるって、自惚れてもいいかな?






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