なつのあお、よるのあお

 なにもかもが斜陽の色を帯びている。
 そそぐ光にあたためられては渦を巻き、そのうち冷えゆく部屋の気流はじれったいほど緩慢だ。それは、湯溜めに満ちた静かな真水とよく似ている。表皮を撫ぜる流れは弱く、あまりに微かで、からだへは肌のうぶ毛の小さな囁きのようにひそやかな感触しか残らない。
──光の色が降りつづく。
 空から来ている眩しい熱は、窓の硝子の格子縞からさらさら透ける。放射状に直進するまま体表面をぴったり覆い、じわじわぬるい気温のなかへ水没させる。外界から勝手気ままに入り込むたび放熱してゆく光線は、質量のない温湯おんとうみたいに無形のぬくさを持っている。あぶくのようにきらきらしている。
 あお向けの頭上へは、水中みたいにゆったり舞いつつただようほこり。群れ成しちいさく渦巻いている微小で細かなつぶつぶたち。……ほこりのくせに、ひかりの粒子と間違えそうに見栄えがいい。
 その群れが、光線の帯に染色されてたぷたぷ湛えた暮れのいろ……。こまごまと反射されるあかるさは、夜が迫った逃れられない衰退の、ほんの手前でさいごに輝度を増しつつあった。

 目線をやったすぐそばで、男は依然すうすう寝息を立てている。そのとなりにのびる筋骨の、明かりの方とはそむいた顔のうす暗がりへも夕の気配が染みていた。
 まぶたを閉じた白皙のうえ、頬から下方にまっすぐ走る寒色は、常より見ための温みがつよい。青紫せいしのすじに、影に紛れてほんのりとしたあか橙がうつっているのだ。斜陽を含んだ辺りの空気は、床や敷布や皮膚へと落ちる陰翳にまでその色あいを滲ませる。
……寝こける男の胴部へは、硝子の外から原色に近いかがやきの線が遮るものなく降っていた。その背甲せごうの石片じみた真っしろさも反射のひかりと混ざって見えて、いつもよりは人いろに近い肌目のように錯覚された。
──もうすぐ失せるあかりでも、これではひりひり熱かろう。
 しょうのないと、剥かれたままの背すじへ沿ってうすい布地をかけておく。そのまま、伏せた姿勢で寝違えそうによこ向くうなじへ引っ張った。
 拇指ぼしと食指がぴとりと接して布をつまんだ僅かなすき間、指の股の曲線と、くっつきあった爪の先とが囲って切り抜く空白に、相手のくびの表皮が見えていた。
 手のひらのひさしによって日光の色を抜いてしまえば、それはやっぱり頑なほど混ざり気のない白色だった。

(いろ、うんと白いのに……)

 この男の色素のうすさ、それによって想像される繊細そうなかたちと反し、その頸の径は皮下の器官に造形されて案外ふとく頑丈だ。……だらりと寝そべり緩んでなお、体幹を通るがっしりした骨をつつんだ筋は分厚く、つよい。
 うつ伏せだから見えないけれど、このうなじと上下を返した逆様にある喉もとも、入り組む内部の突起が生み出すふくざつで強固な外貌をしていた。
──見えなくたって、かたちを脳裡にえがくのは、とても容易い。
 いちばん印象深いのは、男だけが持つあの特有の形状をしたのどぶえあたり。声帯のうえで組み合わさった骨片の、白い皮を押し上げながらも張りでて嵩み、はっきりと突出している多面のかたち。
 それから、すじの厚さに盛り上がり、耳の下から鎖骨のあたりへまっすぐ落ちる、あのかたい二条の境界線。
 そうして──、……横幅はさまざまに、頸部がつくるおうとつ・・・・に沿って浮き沈みする血潮のながれはみな青い。
 色素のごくごく薄い肌は、それらの線もようを、青磁器の淡くも澄んだ釉薬の色みたく透かし出していた。
──そういう数多の集まりが、白膚ひふ裏面りめんを圧迫し、ねくびがかたどる丈夫な太さの円柱は、くびれに欠けてかくかった。

(……いがいに、猪首いくび。)

 ぽそっと思うそのあいだ、おのれの目玉の底の方でまたたくかたちを幻のように見ていれば、へんな具合に落ち着かない。見えない筈の形状は、目玉のおもての彩色してある部分をくぐり、光の行き着く膜のあたりへ記憶され、まぶたを閉じた暗さのなかでもちかちか・・・・ちらつき離れない。
──このしろさの下になってそべるとき、あのおうとつはいつだって、すぐ上ざまにあったから。
 残ったそれを眺めているのがくるしくて、ぎゅっと視界を歪めてつくった細い亀裂の向こう側、不意に、うんとまぶしいひかりの線が差し込んだ。

(……あ、)

 しずむのだ。……すぐにわかった。
 衰えに逆らえず、次第によわくなりつつあった果汁のような橙は、いまこのほんの僅かな間でちがう風味の濃さを増す。管を流れる血液のそれを思わせる、あのどぎつい色へとぐんぐん近くなってゆき、蘇ったみたいにかがやく。……落陽の円盤の、大地に触れたふち・・の方からはじまる侵食、そのとてもみじかい、けれど少しまのびた時を有している瞬間だ。視界を焼いてはえんえん落ちない焦げを生む、あの色あいがもっとも強く鮮やかである一瞬だった。

(……こんな、どうにもならないさいごの時まで──、)

 岩石と、いさごの地平がたいらに続く直線と、炎をまとう天体のまるい輪郭線がぴったり接する刹那のはじまり、あの色に、あかにちかい光線は、いちばん多く瞳へいたる。はかり知れないとおさの場所からただ唯一、あらゆる塵に邪魔されず、この身のうちへ飛び込んできた放射のかたち。屈折を受けてなお、ねじ曲がりもせず、脇目も振らず、せつせつと直進するばかりのかがやき。
──その、愚直なくらいにまっすぐとしてかれた線。

(──いったい、なんで、あれ程はげしい色を隠し持っていられたんだろうか)

 天から大地へ続いたそれは、広げた翼でくうをするりと直下へ滑る、すなおな気性の鳥がえがいた迷いなき尾羽の軌跡 とよく似た線を引いていた。

「……ペル、」

──すごいんだ、見てみろよ。そう、ねむる男に教えてやりたい気持があった。

 都を有する花崗岩の台地は高い。さらには、王の有する、輝かしい白石ばかりが象嵌された巨大なみやと、それを囲んだ斜面に連なる下臣の居住区──乾いた赤茶のいえ々は、日干しのそれより幾分高価な、焼成された粘土の壁。その色が、うねるように続く──外宮あたりは、もっと高所に存在した。……首を起こして伸びあがれば、窓枠へ走っていけば。眼下に、すべてが見える。
──この地で眺める夕暮れの、日輪のかたちが欠けゆくさいごの過程を見られることは、ごく稀だった。
 砂塵が多い大気のくすみに掻き消され、落陽の丸さはいつも曖昧模糊に薄ぼんやりした終わりを迎える。……けれどいま、外界にあって赤く揺らめくあの輪郭。それはじわじわ欠けつつも、まだくっきりとぼやけていない円のかたちを保っている。もしかしたら、きょうこの日はそういう類いのめずらしい一日なのかもしれなかった。

「ペル、」

 しろい耳介の、起伏がしずかな波線はせんの仕切りへささめけば、ううと呻いて寝返った。……あおむけのかたち。掛け布のずれをひっ剥がそうと降りていった手のひらへ、まろやかさがするりとあたる。……見やったしもざま、胸郭の外縁がいえん、分包された筋と浮き出た骨組みは、皮膚のしろさに研磨されてますますとしてなめらかだ。

「ペル、空がね……」

 逞しい白色によって形づくられた肢体。輪郭は、夕陽の垂らした数多の線を跳ね返す。反射された赤は、痛いほどにまぶしい。
──いや、それを弾いたこの白さこそがまなかいに刺さるのか。
 ふと、なにもかもが遠のいた。窓辺の景色の稀少さも、眠った相手に見せてやろうと思い立った行ないも。
──ひかりが、あまりにつよくて目がくらんだからかもしれない。
……尻すぼみした語尾のあと、半身立に起きたばかりの胴部もつられてまた沈む。ねむった相手と高さを均した目線には、とんがりと、なだらかさとがよく見えた。……そう、落ちてゆく球体よりも。

(……影絵みたいだ。)

──こちらのほうが、見ていたい。そんな気分が強かった。


◆◆◆◆


 まなこを瞑る白い男の側頭部へと差し込んで、そのよこがおを縁取る、あかく澄んだおわりのひかり。
 光線の色を片側にした尖峰は、影を濃くして立つ鼻梁。降りたひだりのまなぶたへは、ゆがみなき球の輪郭線がやどっている。
 ほろほろ落ちたかがやきは、日に焼けすっかり痛んでなお、ひかりを浴びれば繊維状に結晶された石絨せきじゅうみたくきらきらと舞うほそい髪筋。
 ほほを通った寒色は、くれないじみた陰翳の濃さにほとんど青がわからない。……それでなお、すこしも狂わず垂下にのびる。

──照らされるのは、石に刻んだ造形だ。それと、見紛うばかりの……。

 あの十全に充ちみちて、常には衣服がぴったり覆う胴部のかたち──、白亜がつくった輪郭を、すこしも乱さず無欠に満たせる、これは、たったひとつの頭像だ。不変のような石彫と、ほとんどおなじの──、

(……かんぺきな?)

 発声を伴わなかったそのつぶやきが喉より下に降りた時、胸部のうしろが異物のように凝り固まってごそごそして、みょうに狼狽えかぶりを振った。──それは疼きと名付けるには、あまりにうつろで寒いような心地だった。揺れる髄だか肺臓だか、そのあたりに隙間なく詰まった密度のものや、呼吸と一緒に膨張し、やがては縮む気体の入った場所いっぱいに、さびしさが満たされていた。

「……いいかげん、起きろよ」

 ずっと眠っていられると、ほんとうに石像なんかと同衾している気分になる。岩石をつくる硝子質の斑晶で、薄明かりにきらきらひかる石……。つるつるに磨かれた、あるいは未だ荒いままの肌理きめをした、寒いくらいにひんやりとした石……。そんなふうなものと。

(……いや、ちがう……)

 あるいは、もっと……、ひとのからだの届かない、とおく、潔癖なかがやきの場所にある、そういうなにか……。それこそ、古今東西、人間の手がなめらかな石によってかたどろうと試みてきたものたち、それそのもののような。

「……ねぼすけ」

 物思いの合間、みたびぶつっと起床を促す。
 返事を待ったすぐあとに、眠りこけたほほ骨あたりをばつっばつっとつまはじく。……あおむらさきのくち色は、お、だか、う、だか意味をなさない母音でわめく。──完成されたかたちにそぐわぬその声音、あんまりにも不恰好な間抜けさに、なぜだかふしぎとほっとした。
……ふわふわひらいた目をのぞき、ますますそれは強くなる。とろんとくろいその色は、焦点がまだぼんやりして、羽翼のしたでうとうと微睡む雛鳥じみた様相の──、はじめて景色を見たような、惚けた顔をしていた。……いっそ、いとけないくらいの目をしていた。

「……いま、」
「日の暮れだ、もう」
「うん……」

 ゆったりとまたたいて、格子の外をぱしぱし見たあと、くろめの濃さがこちらを向いた。
 こわいろは、ひかるほこりの粒子のように、睡気のあいまでふわふわ何処かをさまよっている。……それでも依然低いまま、おさなさの音も混じらない。

「どうした……」

 いち音づつ、ほんのりまのびた余韻がついて、そう、問うてきた──、こちらを向いた朱色のなかの黒檀こくたんは、あまりにふかい。……気を抜けば、刹那にするっと吸われてしまう予感があった。
 ふっと視線を背ければ、目の膜が夕陽にあてられたのか、なにもかもがみどりに見えた。

「顔を、みてた」

……返事といっしょにまぶたを閉じた。
 焼け焦げに近いかたちが、ぼんやりと浮かび出る。
 まぶたが覆った暗闇へは、黄緑おうりょくじみたまたたきや、輝度の高いせき色をしたふちどりで、仰向く男の横顔の線が残っていた。それは、むらなくぴんと張られた表皮や、その下の筋ばった肉や、それらを支える丈夫な骨や、そういう、この男をかたどるものの稜線だった。
……ひかりで塗られた残像だけになってなお、あの鼻梁が描いたするどい角は完璧だ。額や下あごの斜線も、頬やまぶたの曲線も、ほたる火みたいな有色光をぴしっと囲んだ輪郭は、なにもかも無駄がない。

「……おまえ、きれいな顔をしてるな」

 しばらく、だれの声だか気がつかなかった。
 視界に焼けた色あいが、刹那に閃めき強さを増す。
──女の声だった。
 それは、反射でまばたく目よりもさきに喉の骨がひとりで開き、気道を逃げて口から落ちた音だった。


◆◆◆◆


 曖昧な表音で、えっ、と男の声がする。
……ああ、でも、いまの音。大の男が口にするにはふわふわしすぎていた。たぶん、まだ意識の半分くらいは夢のなかにいるのだろう。
 ねぼすけでよかったと、ちいさく思った数秒後……、えっ、と、声量をややあげて、またおなじ音。
──響きにあるのは寝ぼけが半分。……あとは、知らない音を聴いたとき、ぶわっと羽毛を膨らませて大騒ぎするもこもこの鳥みたいな。

 頭の温度に同期して、みどりの焦げが膜の上でちかちか五月蝿い。引っ込みかけた熱さが再びぶり返す。鼻腔のあたりがじんじんして、額や襟や頬の表皮がみるみるうちに発汗する。……返すことばの思案より、ちかちかまぶしい蛍光色を追い払うので躍起になっていた。
 忌々しいほど焦げついて、確かなかたちを留めたままの残光に、ぱしぱしとまばたきする。
 眼球を部屋のどこへ向けても、そのひかりは点滅しながらしつこく付きまとってきた。懐いてさんざん飛び回り、鬱陶しくまとわりついた、羽毛の色の鮮やかすぎることりみたいに……。

「……ペル、」
「……うん」
「……いま、わたし、なんにも言わなかったから」
「………うそつけ」

 声ははっきりそう言った。……もう、まどろみの片鱗すらも残していないそれ。
 聞こえないふりをして、目をつむった。


◆◆◆◆


 まぶしいくらいの色調で、すこしも落ち着くことがなく、ころころ変色しつづける、緑や紅やだいだい色に塗ったくられたまぶたの裏側……。
 けれど、あの横顔の縁をかたどり隙間なく組み合わさった図形のえがく稜線は、くっきりとした黒色で切り取られ、けばけばしい原色の闇へ影絵のように浮き出ている。
──額のほのかなまるみ。眼窩の谷とその完全をやどす球。毅然と立った鼻梁のするどさ。頬骨きょうこつのひくい盛り上がりに、くちびるのうすさ。ほんのりと鰓張って、長さにはいくらか欠けても、じゅうぶん頑丈にできている下あご……。
──この、かんばせのかたち。
 極彩色の瞬きに、の消されたかげのなか……、それでも物想いのうちへ、この男の持つ元来のいろは忘れようもなく染み付いていた。……石のような白色も。あぶらで溶かれた没薬ミルラの樹脂と油煙ゆえんを焼いた墨で刺され刷り込まれた、あのあおの強いむらさきも。喪服を飾る、つるつる磨いたまんまるの黒檀みたいな暗やみ色も……。
──この男は、いつも、ああいうつめたく、寒々とした色を纏って立っていた。
 ほんとうは、あたたかさのすべてを持っているくせに……、そういう顔もすうっと消して。

 焼き付けられた釉薬によってぬめりにちかい反射を帯びる陶磁器みたいな、あのしろ目がちな丸さと、虹彩の黒。それらが、いっときの隙もなく球の左右へきろきろ滑動するさまは、かならず腰の帯刀と、ふさわしい衣装をともない現れた。
──たとえるならば白く曇ってきしきし凍てつく氷片を、うっかりと口に含んでひ弱な粘膜を焼かれてしまったとき、剥離される痛みを伴う、あの血の味を含んだ冷気──、そういう、皮の色みや刷られた青をうつしたようなひややかさを、この男は着ていた。
 縄張りに踏み込めば、するどいはしや蹴爪の先で引き裂かれそうな……、そういう、猛禽じみたつめたさを、着ていた。

(──じゃあ、なんだ。……これ。)

……まぶたを瞑った向こうから、えへ、えへ、とわらう声。なさけないまですっかり照れて、もぞもぞと身じろぐ……、あどけなさの戻ったおと。
 目線だけでちらっと見やれば、そこに恥じらいの表情があった。ごまかそうとしてか、しろい皮はせわしなくまばたきを繰り返す。

「……おれ、男前?」

 照れ隠しにおどけたらしいその声も、さいごの半分くらいはほとんど消え入るようだ。
──そう、この男は、こんなに純朴な声をしていたのだったと……、ひとりでぽそっと思った。

 その目玉をじいっと覗く気力はなくて、頬と顎の境界あたりの丈夫な骨が張り出た場所や、顔をふちどるかたちの外に目をやった。
……白皙の輪郭へぴったりと接し、男のまぶたや鼻梁やのどや胸部と同じ色をたたえる、ゆるやかな曲線を有した耳介が、じわじわ血の気を帯びはじめていた。
 集音部のまろくうつくしい線をかたちづくる骨組みの組織から、表皮をつたってみるみる温度が伝播したのだろう。……赤みをもった体温は、またたきよりも短い時間のおしまいに、音のための器官の外側、そのもっともはずれに垂れるささやかなたぶ・・の面積までを染め上げた。
 あかくなった下地のおかげでそのぽってりした部分のうす皮に生え揃う、さわれば薄手の天鵞絨ビロードのように繊細なうぶげたちが、光の加減で金色じみてきらきらひかる様子が見えた。
──また、えへ、と……、はにかみの音が聞こえた。
 その顔から首から鎖骨まで、色がどんどん延びてゆく。
 皮膚の色素が薄いため、茹で上がった海老だか蛸の濃度から、花びらみたいな淡さまで、血の巡りの速度の差異でむらになった皮下のぼかしもきれいに透けて発現する。
 眺めていると目があって、そのたび余白がますます赤く侵食される。ちょっとおもしろい。

 目視で濃淡を判別できる程度には、視界の膜のけばけばしい症状も回復していた。べっとり付いた焦げ模様は、もはや透き通るように希薄だ。
 まばたきのあと、まだほんのりと痕跡が残る視界で、窓辺の硝子に隔てられたその向こうへ目をやった。
 残像のかたちは、視線のさきで浮遊しながらだんだん薄まり、ふと気がつくその時にはもう消えている。同じく、大気がもった色あいもまた落陽の埋没と共、いつの間にか濃度の薄いむらさき色へと変遷しつつあった。……すでに、他よりも輝きのつよい幾つかの星が光りはじめている。

 しかしながら、茹だった男の照れの音はえんえんつづく。……えへえへ言うのがちょっと止み、あおむらさきの口がむっとへの字になり、あぁようやく静かになったと嘆息しているすぐそばから、またえへえへとしつこいくらい何度だってぶり返す。
……無視して、ぐるんと転がりそっぽを向いた。
 いつものことで、この白い巨体は煩わしくずりずり寄ってきて、背面からべったりとひっつく。はにかみを含むさえずりは、なあ、なあ、と耳元ちかくへあまえきって呼びかけてくる。

「おまえ、おれのことほめたのか?」
「……褒めてない」
「うそだ、うそつけっ」
「……うっとうしい」

……いったいこれのどこが猛禽だったのか。
 まるでちっとも利口でいられず、かまってくれろとぎゃあぎゃあ騒ぐちまこい鳥みたいだ。
──そう、こんないきもの、はやぶさなんて名乗っているのもおこがましい。いんこぐらいでじゅうぶんだ。
 回された腕を鷲掴み、上膊じょうはくあたりのぶっとい筋を千切るつもりでつねってやっても、いたいいたいとぐずぐず言ってごねるだけ。その、腹の前で頑固に交差しほぐれる気のない両の手の、ざらざら硬い指のたこ。……うすい綿布がすっかり寝乱れあらわな肌には、こそばゆくってしょうがない。
……たまらず、吐息に笑いがまじる。首を捩った目線の先、男はやっぱりなさけなく、子どもみたいにえへえへ言って赤くなる。
 腰に置かれた重たさが、こてんと落ちてへそを覆った。……節の浮いた、堅牢なかたさ。乾いてぶ厚い表皮のざらつき。
 その利き腕の指骨しこつは、つるぎのために生来よりもほんのり斜めに彎曲し、節はいささかいびつな太さに変形している。
 おなじ理由で、厚く硬質な指先の皮膚はところどころがひび割れを生じ、これもやっぱり、こすれ方がくすぐったい。

「……やめてくれ」
「やだ」

 ぶつっと言ったつもりでも、出てきた声はくすくすうわずり締まらない。対する餓鬼みたいな返事をしたやつは、そのままこちょこちょ下腹を撫でてくすぐり回った。
……ぴりっと表皮がこごった気がして、せばしらがつつっと伸びる。のどぶえあたりに浮きかけた音を、慌てて飲み込んだ。

「……やめろ」

 いたずらの過ぎる手首を掴み、関節あたりをぎちぎち固める。ぎっと後ろを睨んでみれば、ごめん、ごめん、とぐずぐずに煮崩れた声。手に負えない甘えたの嘴先はしさきは、ぺとぺとつんつんうなじを啄ばむ。えりくびからずり落ちかかったぬのきじは、あのくちばしがぐいぐいと咥えるせいでますます肌蹴ていく。
──これではさながら、おちつきがない年の未熟な若い禽。
 図体はもう雛ではないのに、興味を示せばなんでもかんでも齧ってひっぱり調べてみないと気が済まない性質の、巣立ってすぐのとりみたいだ。
 呆れてげんなり長息しているそのうしろ、ようやっと吐き戻されて背なかへ垂れた綿布のかるさは、ほんのり湿ってぺとっとぬるく貼りついた。……表皮に接するくしゃくしゃの布生地には、きっとあの、かたく真白い皓歯こうしのはがたが付いている。
 いたずら好きなこのとりは、ひっぱるだけでは飽き足らず、そのくちばしを背面へ降ろし腕の根っこのいちばんこそばゆい場所にすり寄ってきた。指と同じくかさりと乾いていて、けれどやわこい、あの青紫せいしのうす皮。……そのふたすじが開いて、しめこい吐息がかいがら・・・・骨にふれた。
 羽繕いのなりで齧られるよりさき、後ろ手でやめろと額を押しのけ、慌てて体の向きを変える。……相手の思う壺だった。向かい合わせの目線の先には、うれしそうにわらう、のほほんとした男の顔。

「……ひっつき虫」

──互いの吐息が頬や額に届くほど、すぐそばにあるこのかんばせ。
 その相好は、いまはすっかり崩れているけれど……、白膚ひふに刷られたあの色あいばかりは、名残のようにひやりとしたうつくしさをたたえていた。むらさきの線を辿れば、怜悧なようにかたどられた面皮を作る輪郭が、ふっと浮き出るような気がした。
──どの外れた不器用のくせ。いつも、そういうつめたい衣を必死で着こなす、この男の滑稽さ。……こんな間抜けなほのぼの顔と、ぜんぜん釣り合っていない。
 きょうくうあたりに、またすうすうと寒いようなさびしさが吹き込んだ。絶え間なく伸縮している臓器の裏が、しんしん沁みて痛かった。
 息苦しさが落ちつかず、おのれのこころにそわそわ急かされ手をのばす。ゆびさきが、ふわふわ崩れたとび色の髪筋へふれた。……うぶ毛の未だ抜けきらず、ほんのりまだらが残ったままの未熟なとり、そのやわこさみたいな手ざわりだった。
 男のあたまを引き寄せて、鎖骨のあたりへくっつける。ぐいぐい押せば、いたいいたいとうるさい声。けれどやっぱりでれでれして、煮つめ過ぎた野菜のように締まりがない。……筋がまさって平らなふさ、そのちかくへ青紫の引かれた頬を寄せ、こそばゆそうにてれ笑う。
 はにかむふうに歯列を見せた、するするあまえる小鳥の仕草。……なさけない、馬鹿みたいだと呆れつつ……、やっぱり、とてもかなしい気がした。

「ペル」
「……ん?」
「……おまえさ、」
「うん」
「いんこのほうがお似合いだよ」
「……は?」

──きょとんとまじろぐまなこの純に、のどもとが熱くなる。
 無骨なからだとちぐはぐで、なにもかもが潔癖なほどに真っ白なこの男には、けれどその身にたったひとつだけ、どうしても落ちてゆかない黒ずみがあった。
 てのひらの皮のいちばん厚い箇所、つるぎの柄を握る部分に、それらの色は滲んだように浮いている。

「ペル、」
「……うん?」

……背中を抱えた腕を辿れば、ごつごつの手に行き着いた。どんな時でも剣を握って、節くれとひび割れだらけのてのひら。絡めあえば、あたたかい。この、やさしい心根の男にぴったりの……、やさしいぬくさ。
 振りかぶれば、血を流すようなするどい爪も、くちばしも、研がれた鋼も……、そんなもの、すこしも似合わないやさしさなのだ。
……その調和のなさがなにより胸を引っ掻いて、じんじんと痛かった。


◆◆◆◆


→以後2ページは推敲不足のため纏まりに欠け完成度も低めですが、蛇足としてお楽しみいただけましたら幸いです。



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