夏籃

 かろ、
 氷片の崩れる音を聴いていた……。
──ひそやかな風がゆく。まぼろしの……。
 風であるかに錯覚したのは苦くつめたい葉のかおり。
──薄荷ハッカであった。
 ペルはものく接した場所に頬をる……。
 ほのあかるく、ほの暗い白昼だ。
 いま、しろい二枚の貝殻みたいなペルのまぶたはずいぶん重い……。
 かれは、半眼にまどろむ。
 過剰のあつさが失せてなお、いまだ湿った女のはだ青紫せいしのはしる頬をあずけて──…。その耳の奥にゆるまったあいての鼓動を聴いている。
 ふたりを包む屋根のそと──。 南のはるかな頂きを、畏愛すべき昼の父は炎熱を着てゆうと過ぐ。──真東の窓からは、もう陽射しが届かない。この季節、ひかりの軌道はあまりに高く、長い……。
 かろろ、
──まくらもと、縮む氷がまた鳴った。
 しろくも強固なそのくびを──、かれは、音の方へとめぐらせる。
 黒やかな視線をやれば、わき机には硝子のうつわ。金縁の胴に澄んだ露をおびただしく纏う。──溶けゆくものは、ごくちいさい。
 やがて、かき消えた……。
 跡形なく薄まった──、みずの余香がふうわりと。
 当初、それは砕氷と、淡い緑のとろりとした薄荷の蜜茶で満ちていた……。
 時がすぎ──…。硝子の底にあるものは、ぬるい真水になれ果てる……。
(ゆだるほどに、おもえた……。)
 ペルはまた、接した場所に──ねむる女のあばらのあたりに頬を擦る……。そのしろいかんばせに、胴のうつおを感受する。
──やわこさより、すじ・・のまさった女の躰。
 寝息のたび──中空の肺臓は、伽藍がらんのふくらみを有する。その膨張に呼応し拡がるあいての胸郭……。
──ねむたく動くかれの爪。
 厚皮の、いびつに割れたゆびのさき。その硬質さはやわらかく、女の腹に接した──…。あおく湿った膚の上をふわふわすべる……。
──陽のうぶ声の直後から、砂土さどのうえには無間の炎夏──…しかし家内やないは、すぐ翳る。土塗りの邸々いえいえは、窓を少なく造られる。──その内部のあかるさは、あなぐらに紛うのだが。
──熱はひかりの半身だ。
 くらければ──…、そのぶん幾らか過ごしやすい──…。
──ひがしの壁にひとつきり。そらを切抜きぽっかりあいた窓はいま、蒼くうつろな穴のよう。
 その色が、物の影に混ざるのだった。屋内やないに溜まる陰翳は、あわい蒼を微量に帯びる。
 あぶらけのない女の膚。そらの色を仄りとうつしたその上を、かれは幾度も頬で擦る。ぺとぺとと爪をはう。──粘さに欠けるそのうごき。あどけないくらいの……。
──ねむたくまぶたを瞬かせ。かれは、とおい記憶を咀嚼する。
 抱き寝の要るほどおさない頃──…、くすくす笑いあいながら、みじかい子どもの指でなぞった母親の腹部のもよう・・・──…。
 いま、めのまえの。
──そのひとには、まだ、ない。
 夢の中かうつつかで、かろと崩れる氷の音をしろい耳介にかれは聴く。──またふうわり、苦くつめたく葉のかおり。薄れてなおも澄明ちょうめいな……。
 かれは、そのひややかさを気道に通す。──ゆるやかにまぶたを閉ざす……。

 まくらもとのわき机、硝子の茶器のすぐそばに──、やわらかな乳白の艶はほのひかる。──琺瑯ほうろうたらいであった。
 真水でみちたその中に、半ば浸かったすず器の茶瓶。銀灰ぎんかいに研磨されている。──その装飾は少ないが、胴も持ち手も注口ちゅうこうも、ほっそりと長く優美なかたち──少し前まで冷えた蜜茶をたっぷりとはらんだ──…。いまは、がらんどうだ。
 錫器をいだくまどかな盥。琺瑯のそのはだ・・は、磁器と似かようなめらかな艶をもつ。盥は湛えた水温と、ぬるい空気のあわいにあって、つるりとしろいその外郭に真水の汗をさらさらつたう。かつてはつめたい池だった──…しろい底は砕氷で、とうめいにちていた。
──いま。その液面はゆるやかに、立体のまろさを有す。溶けきった氷のためだ。
 張力で限界まで水の膨れたそこからは、少しづつ──…悟れぬほど、ごく僅かずつ水が溢れる。──ぬるくなっては嵩を増す、そのなかみを抑えきれずに。ほろほろと、こぼす──…。
 耳の奥。つくえに浸みだす水の音なきその音を、なにとも知らず男は聴いた──。
──しなやかなけもの・・・のよう……。
 いま。あおい膚につよい肉を内在させる女の躰に、かれはまどろむ。すじがちなその場所と、ほのかに浮いた肋のおうとつ。知らず識らずにそこを好んで頬を置く──…。
 追憶のうちがわで。──おさない頃になぞったもよう・・・を、かれは、おもう。
 みっつか、よっつの、抱き寝のころ……。いまはもう亡きひとの──…。 臍窩さいかから、ひろく続く皮膚の上──…。
 それは、いびつにあった。
──沙上の夜。さむさを過ぎた払暁が、はじめて照らす真水のみなも──…、その上に薄くはる、割れひょうの線と似て……。
 かつて──。寝添う生母の膚のうえ。それは、おびただしく。緻密なかごの編み目に似かよい。いりみだれたわだちのように。無数の蚯蚓みみず腫れみたく──…。
──睡りの淵につたよって。……ほとんどペルは夢に在る。
 なつかしく、したわしかった──…。
 いま、かれの指が感ずる膚に──そのもよう・・・は存在しない。するはずもない。記憶の中にあるそれは──きえることなき痕跡。──異様な膨張。その証左──…。
 かれはまた、ことりのように女のろくに頬を擦る。ゆびさきは、掛け布の下、そのしなやかな腹に添う。……なめらかな皮膚だ──懐胎を知らぬ女だけが腹部に有する──…。
 それは、
「───…、」
 三文字の。
──のろいのような……。
 音となるにはあんまりちいさく。──ことばを、おとこは、つぶやいた。吐息のかすれのようにして……。
 女の寝息を聞きながら、その腹をゆびで押す。つよい見目でありながら──…ふしぎになまめく、女のそこ。
──ゆびばかりでは足らなくて。
 ろくに安らうその頬を、すべらかに男は下げる。
──降りてゆく、まあるい頭部……。
 ゆるとして掻き上げられた毛髪の色あいは、元来、猛禽の羽衣ういと似かよう。陽に灼けて、傷んだ色素は幾らか薄らぎ、ひかりの下ではごくほのかな金をおびる。
──それはひかりのない場所へ。
 あいての腹部をふうわり隠す、夜具の下へとするりとしずむ──…。
 あいてが覚めていたならば。きもちのわるいことをするなとひっ剥がされてしまったろうが──…。いま、しなやかなその躰のもちぬしは、物をも言わぬ夢のなか。
 茶をこぼし──濡れとおった薄ぎぬは、もう纏っていないのに──…。女の湿った膚からは、まだひいやりと薄荷のかおり。──そのうえを、ゆく。……額ですべり、鼻梁でなぞる。臍窩のうえにくちびるを置く。
──布のつくった淡い薄暮のうちがわで。……せつな、女の躰がわずかに跳ねた。
──…それだけだった。
 常ならば。すぐさま覚めて、かれの顔ごとむんずと掴みべりべり退けていただろう──…。いま、寝息は止まず、湿ってつづく。ねむりの深さのそのぶんだけ、つみかさなった疲労が色濃い。このごろは、さまざまのことがずれ込んで──軍吏はもっともあわただしい時分であったものだから。

──やわらかく、青紫の色はほのかなくぼみの上にある……。
 腹部のつよいすじ・・に負け、それは殆ど消えかけて。──いっそ、ちがうものにすら、視える……。
──扁平である女の臍窩。
 たとうなら──…。きずあとのような。創傷の癒えてなお、ほのかなへこみを残す瘢痕はんこん──それみたく。
──…いなや。胸の奥、かれはぽつんと否定する。それは、まさしく……、傷と言うにたがいない。戦傷と──…。
 かれは、知っている。
(このひとは──…、)

 ペルは仄かに暗いこころでそれ・・をおもう。その青紫のくちびるに、きずあとと似る女の臍窩をあてながら。
──でも……。と、
 澄んだ色、やさしい景色はとおい日々。水仕事であれた手と──…子どもの短くやわらかな指でくすぐりあったかつての記憶。
──かのひと・・・・のそれもまた、扁平だった。
 戻らなかった。──もとのかたちに。それは、腹のもよう・・・とおんなじで──、産したあとの痕跡だった。──…独りを。しら膚の嬰児を。──かれを……。
 おとこはひっそり目をつむる。──懺悔のように。
 その、むごい皮肉・・を、おもった。
 なにか、ほの暗いものがはらの底に蟠る……。
──酷なことだと、
 かれは、知っている。
(──このひとは……、)
(……おまえは、)

(あぁ、似ていると──そうおれが言ったなら、)

 かれの母とは異なって──。
 このひとは憎悪した。
 のろいのように──…。それ自身、みずからを。
 その、うまれもった性質を。さきゆきを。
──おんなである、そのことを……。
……かれのこいびとは。
──憎悪した。
 少女のころから今なおつづく──この女の闘争の。傷であり、証左である──その肉体はけもののように強固となった。
(だのに──…。)
 しなやかに筋をよろった女人のからだと。ひび割れた湖面の氷に似通う産婦の──亡母の、それ。
 うまれついた躰への──…、拒絶の証しと。その対極と。
 己のむごさを知りつつも。かれは思うてしまうのだ。
 ふたりの女のその皮膚へ──…傷痕のように在る臍窩さいか
 この──…扁平な似かよいに。
──やすらぎすら、おぼえると……。
(ゆるせ……。)
──かえがえのないその子。たいせつなかつての少女。
 もう、ずっと昔。在りし日、少年のころから──…。かれは、ずっと、ずっと……。
──このひとに、
 決して。口に出してはならないことだと……、知っていた。それでも──…。
──この幼友、
──想ってやまぬひと
──このひとに、
(あぁ……、)
──おんなであって、ほしかった──…。
 ただ・・の──…。と、──幾度、
(──…かせ!)
 かれもまた憎悪する。おもうひとの絶望を、さも光であるかに視やる──…そのおとこを。望まずにはいられない、おのれ自身を。
 憎悪し、嫌忌し、おののいて──…それでも、到底、消しされない。その、なにか支配への希求──…。

(──かつて。わが母はただ母であり、明朗に在った──…わが父の対として。)
 ただ、ただ、そのように──そのような姿を。対を……。かれは、望んだのだ。
 あのとき、まだちいさかったそのひとに──。
 はじめて想ったひと──その幼友──彼女が、まだ“女”になるずっと以前のむかしから──彼女の生に。肉に。魂魄に。

──それを、望んだ。

 おんなであってほしかった。
 ただの──…。

──つぶやいた、青紫の口に音は無く。
「───…、」
 澄みわたったつめたさすら──…よるのそらとおなじにやさしいこの女性にょしょう。この、うつくしいけもの……。
 それが、このけもの・・・のすこやかな脚をいましめる、美々しく編まれた紐であり──残酷なかご・・であろうと知りながら。
 あおく刷られたくちびるは、また、それを──つぶやいた。
 三文字の、
「───…、」
 のろいのように──…。
 ペルはこころにひとりきり、溢水いっすいを聴いていた。あふれ出して床のおもてにしたたる水のその音を──…。あるいは、まぼろしのそれを──…。夢うつつ、しろく渦なす耳の深くに……。
──睡りのなかで観たものも、ほのあかるくほの暗い部屋だった。
 夢の中のおんなの胴は、くうを溜める肺臓みたくうつお・・・ではない脹らみを、有していた。──その、皮をむりに引き伸ばされたまあるい腹部──…あおぐろく、血の管がのたうつ・・・・膚には、緻密なかごの編み目と似かよい。──いりみだれたわだちのように。無数の蚯蚓みみず腫れみたく──…。なつかしく、したわしい──そのもよう・・・が、あった。
──空のあおさを膚にうつした女の顔はみえなくて。
 けれども。たぶん、かれは──…。
 おもうひとのその顔に。──ほほえみを、視たかったのだ。
──むごいことと知りながら……。
(ああ、けだかきひと。……なぜだろう。聡いおまえが、おれのさが・・を見誤る──…)
 夢のあわいにペルはひとりで水を聴く。青紫を刷られたまなぶちに、なまぬるく液が滲んだ。
(薄荷のように澄明と──…)
 濃くつよく──。白皙はくせきのかんばせに、刺青しせいの線はすうとゆく。その四肢は、なめらかな石をきざんだみたく。その皮は玲瓏れいろうに──…。
 そのように。──うまれついただけだった。
(──おれは、ちがう……。おれは──…、)
 しろい皮がくるむ下にはあかい肉。すずやかな青紫の色は代謝でいずれは消えてゆく。
 かれは──人だ。ひとの躰の届かない、遥かな光輝にあるものが、ひとのかたちに生まれたそれではあり得ない。
──肉の躰のいきもの。かがやくばかりの皮にくるまれ、うちに焔火をふすぼらせ。みずけを含んだその場所は、悶え、よじれ、火膨れて──…くろく硬くなってゆく。
──かれは、ただびと・・・・だ。


らん』── かご竹で編んだかご。










夏籃からん

噛み合わない その根源のおはなし。



ペルさんお誕生日おめでとうございます……。
(2018年8月24日)(また表紙の日付偽装してる……)



妊娠線 て えっちだ………(などと供述しており)
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