しがらみ
──…ざりざりと、髪を削ぐ。
夜空の色の頭髪は、ひとつかみ、砂まじりの地面に落ちた。
「……どうだ」
「──も少し切ってくれ、」
時は、陽のもっとも弱まる季節──…冬至である。
庭先からは、焚き火のかおりがした。
──ざりざり。
おとこは、おんなの髪を削ぐ。その節ばんだ利き手には、鈍色の刃物。
「こんなものか?」
「──…いいや。もすこしだ、ペル、」
──ざりざり。
丁寧に。されども、容赦なく──…おんなは、おとこの手に頭髪を切らせる。
ついには──まろく、長細いあたまのかたちが露わとなった。──神殿仕えの僧侶のような刈り方だ。
「──…よし、」
肩まであった髪筋は、いまや、いさぎよい見目となった。
「──ありがとう、ペル。さっぱりした」
「……よかったな」
庭先だ。庭木の
「──さて、」
服についた髪の毛を払い落とすと──おんなは、きっぱりとして立ち上がった。
そうして──…
──…切り落とした髪を掃き集めると、淡々と火に
「──…どうして、いつも燃やすんだ」
「燃やすほかあるまい、ペルよ。邪魔くさいし目障りだ」
「──…縁起が悪いぞ。」
「知ったことか」
この国では、肉体を消滅させる行為──…火葬や、腐敗は、縁起の悪いものとされていた。
例え、切った髪や爪でも、ぞんざいに扱ったり、
──…そうと知りながら。
おんなは、その髪を──かつてのおのれの一部分を──火に
──…蛋白質の焦げる、厭なにおいが庭先に漂った。
(──…いつも、そうだ。)
ペルは、こころうちに独り
(──こうして、
──…年の瀬のたび。
このおんな──かれのこいびとは、伸びた髪を潔く剃り上げて──残った髪を、必ず燃やす。
その火のなかに、ぽんと、
──…だれを弔っているのか。
かれは、知っている。
「ヘレウ、」
「……うん?」
「いつまで……。
──いつまで、続けるんだ。
こんな……、」
「──…さあな」
◆ ◆ ◆
──少年の日。
ありし日の、思い出。
生まれる以前からの、たいせつな許嫁──…その少女が──このおんなが、かれを置き去った日。
指腹の誓い──…子らが母の
「……ごめんな。」
よふけ前。少女の髪の紺青と、空のいろは、おなじになる。
そのきれいな髪筋を──かれが、なにより
「──…ごめんな、ペル……」
──…少女は、切り落とした。
……余すことなく。かれの、目の前で。
伝統的に、髪はおんなの命のちから──魂、そのものに近しいものとされていた。
それを削ぐということは──…すなわち、おんなとしての生を棄てることを意味した。
「──ヘレウ……」
もとより、少女が、この縁談に乗り気でないことは知っていた。
なによりも、自由を求めて──だれひとりとしてよい顔をしない夢を追い──おんなの身で、武官になるなどと──…ひとり、駆けていた。
──…その儚いゆめは、
「──…ヘレウ、」
──…だが、いまこのとき。
ペルの淡い
◆ ◆ ◆
十年経って、現在。
──…おんなは、今年も、髪を削ぐ。
死者のための依代人形と共に──…
弔っているのは──自分自身なのだろう。
おんなとしての──…おのれへの、
(──…これは、きっと、)
──…そういう儀式なのだ。
ペルは、ひとりでそう思う。
冬至祭の夕べ。──みやこの道からは、ほのかに太陽讃歌が響く。
──…とおく、煙がかおる。
おんなの髪のなごりと共に──…。
──…ちいさな、ちいさな、葬送の火。
ぼうやりと、火を見つめるおんなのすがたを、かれは、遠く眺めて──…
──地に落ち、火を免れた、夜空のいろのひと束を。ペルは、するりと手に取った……。
──…少年の日。かの
(──…すまない、)
こころのなかで、懺悔して。
その夜色の髪筋に、
『葬送』
◆ ◆ ◆
──…いきてくれ。
血膿のかおりに包まれた病床で──…かつて、おとこはそう言った。
音は、きこえなかった。鼓膜が破れていたからだ。
『──なぜ?』
問うても、ペルは、答えなかった。
◆
吹き飛んだ両脚。
おびただしい部下の死骸の下敷きとなり、潰れた片肺。
折れて歪んだ骨たち。
抉れた
破れた鼓膜。
もはや、軍人として役に立たない肉体。
いまだ癒えない傷。
二度とは、その両脚で歩けない事実……。
──なにもかもが。このおんなを打ちのめすには、充分すぎた……。
──…内乱は。……戦争は、終わらない。
かの
「生きてくれ」──そう願っても、「なぜ?」返ってくるのは空虚な疑問。
「ヘレウ、」
それでも──…、
「生きてくれ」
願わずにはいられなかった。
それがどれだけ、かの
◆
──…『なぜ』と問うのなら、
国のためでも。
主君のためでも。
民のためでも。
肉親のためでも。
かのひと自身のためでも──…なく、
◆
「おれのために、」
ああ、なんて──陳腐で。
なんて──…独り善がり。
これは、なんと──…
──…歪んだ。醜い。悍ましい願いか……。
「おれのために、生きてくれ──…」
◆
音は聞こえなかった筈だが──…血膿で汚れた寝台の上。鬱金の
「ばかだな」
ひびわれた唇で。
ぜろぜろとした吐息で。
掠れた声で──…
──それだけ、つぶやいて。
「…………」
おんなは、ゆるやかにまぶたを閉じた──…。
──…それが永遠でない証に、かすかに、胸を上下させ……。
「……ばかめ」
いつもの悪態は、こんなにも弱々しい。
それでも──…
「……寝言は、
ねて、言え、
ペルよ、」
──…それでも。
おんなは──…
──生きようとしていた。
『しがらみ』
◆ ◆ ◆
──だれが最初に言ったのか。
欲望のうつくしい表記。
濁ったものを、澄んだものであるかのように。
──…だれがさいしょに、言ったのか。
愛欲の、みにくい形を──…
──…『 』などと。
◆
「──…おれのために、生きてくれ」
だからね、
──…ペルよ。
おまえのみにくい懇願は、世に持て囃される、あらゆることばより──…よほどに、よかった。
──…あまりに、みじめで。
──…あまりに、ぶざまで。
──…あまりに。おさなく。独り善がりな……。
「──ばかだな」
◆
線を越えて飛ぶ。
なんども。
あいての陣地の奥深くまで。
──…幼いときにしたあそび。
あんなふうに。
簡単に、飛び越えてしまえたらよかった。
わたしとおまえの間にある。この……。
──この線を。
とびこえたかった。
──ペル。
おまえのところに……。
──できなかった。
◆
──…戦争の影など、なにもなかった日々。
幾度。
ふたりの閨で、妻問われても……。
──よいへんじを、返さなかった。
うつくしい言葉で、欲望を飾る──…やさしいおまえは──…
──おそろしかったよ。
ペルよ。
◆
「──…生きてくれ、」
──ああ、だから。
「……おれの、ために、」
──そうとも。
いま、この血膿に汚れた病床で……。ひっしにそう言うおまえの、なんと、飾りのなく、ぶざまなことか……。
なんと──…みにくいことか……。
ああ──…だから、
──…わたしはうれしくなったのだ。
(──ペルよ。)
いつもの、きれいなおまえは──…
──いま、このとき、いなくなってしまったから。
◆
「寝言は、
ねて、言え、
……ペルよ」
──…ああ。
もっと。
(──よいへんじを、返せたら。
……よかった。)
──壊死した両脚。
──欠けた乳房。
──取り除かれた片肺。
欠けだらけになったからだで。
そのひ。わたしは、これまでのどんな時よりも──…そう、つよく想ったのだ。
(もっと──…)
おまえのことばに、
──…応えられたら、よかったと。
『おへんじ』
◆ ◆ ◆
──…耳介を、おとこの吐息が濡らした。
「──やめろ。」
「なぜ?」
「……こそばゆい」
おとこはふふと微笑する。吐息の掠れるだけの音。
「やめろ」
そのまま、
「──…ペル。やめろ。」
「いやだ」
「やだじゃない」
いたずらは終わらない。
ぬるりと湿った、熱いものが──…耳介の螺旋をなぞる。ぬめぬめとした音がする。
「いいかげんに、」
──…しろ、とつぶやいて、おとこの肩をぐいと掴む。
寝台の上に、ふたり、掛けていた。
──おとこを引き離せば、そのまま、あいては
ぽふと敷布の上に寝そべった。
「──…いやだったか、」
「……ペル。気色わるいことをするな。」
「……そうか? いつも、よろこんでいるとばかり、」
「──…いつも?」
「ともねの時」
「──…」
「
「やめろやめろ、」
「ちがったか。」
「このばか、」
あたまを小突くと、ペルは痛いとくすくす笑う。
(──…いらぬ墓穴を、掘ってしまった。)
そべった男に手を引かれ、そのまま、となりに横たう。
一部分だけ。あおく擦られた、おとこの、ひふ。くちびるが触れあったあと、ペルの指は衣服にさわり──…その舌は、また、耳介を撫でてきた……。
「やめろ……」
「──いやだ」
鼓膜に、吐息が触れるよう。
ひそやかな、おとこの笑声。
──…粟立つ生肌に、やさしく
『みみ』