すなのはる
「──…昼間の件だが、」
夜半。
おんなは、ぼつりとつぶやく。
「──…受けようと思う。」
おとこはその
「ひるまの、」
「そう。おまえが、…くれたはなしだ」
「おれが?」
「そうだ」
おんなは、幾分かむっつりとして──かれの顔ばせを見やる。
──…ぶあいそうな顔だが、ペルにはわかる。……これは、照れ隠しだ。
(──…しまったな、)
真剣な
ペルは、ぱりとその白い頬を掻いた。
──…昼間の件。
こころあたりが、
(こころあたりがない……)
「………」
「………」
気まずい沈黙が、ふたりのあいまに小川を作った。
──…なんの話だったっけか。
そう問い直せる雰囲気でもなく、ペルはますます答えに窮する。
どうにも、はなしの流れを読むに──…このおんなは、たいそう真剣な……なにか、なにかのはなしを、しようとしているふうに見えた。
(そんな、そんなだいじな話を──…しただろうか。ひるま。)
──…覚えていなかった。
「──…受けるぞ。」
「受けてくれるか」
ひとまず、ペルは、適当に相槌をうつ。
──完全に悪手である。
「……そうだ。もう決めた。」
真剣な顔で、おんなが頷く。
「──ペルよ。
おまえも、こたえを聞かせろ。」
まずいことになってきた。
◆
「──…ペルよ。
おまえというおとこには、ほとほと愛想が尽きた。」
おんなの、しずかな声。
「すまん……」
ペルはひたすら平謝り。
「まさか──…まさか、なんのことかも解っていなかったとは……」
おんなの声がくおんと響く。……湯煙のなかで。
「すまん……」
おとこの声は、なさけなくしおたれる……。
◆
湯船のなかで──…大柄な男女がふたり、裸体をさらりと接している。
巨大な傷を胸部に有する、
両脚の膝から下と、片側の肺臓を欠く、隻眼のおんな──…。
──さて。過ぎたる夜の答え合わせがこれだった。
──…ふたりきりの小旅行。
「まさか忘れられるとは」
「すまん……」
「ペル。おまえから振ってきた話だぞ」
「あのひは、いそがしくて……つい……」
「まさかまさか、当日の朝まで知らんふりで忘れているとは」
「ほんとうにすまん……」
よほど楽しみにしていたのだろう。普段は、のらりくらりと気ままな猫のようなおんなが──…珍しく、ねちねちと怒っている。
いつもとまるで立場が逆だとペルは思う。
「ヘレウ」
「なんだ」
「そんなにたのしみだったか、」
「そりゃあ、そうだ」
「すまなかったな……」
「まったくだ」
◆
言い争いはしつつ、
──…それでも、ふたりは、なかよく湯に浸かる。
銀の砂を撒いたような、紺碧の夜が更けてゆく──…。
『煙る夜』
◆ ◆ ◆
◆
──…春が来る。
あの、あるかなしかの──…かそけき季節が。
◆
何処ぞから放牧された
──…雨季のはじまりを告げる
砂漠はいちめん、まだら模様にみなもを湛える。
数時間もすれば──砂の下に染み込んでしまう、ちいさな──…水たまりのような。みずうみたち。
「──…よい季節だ。」
「──そうだな。」
ぎんいろに空を映す水たまり。それらの群れは、みな一様に、そらをゆく巨きな
巨鳥の
「ヘレウ」
「なんだ」
「さむくはないか」
「──…ぬくいぞ、ペルよ。おまえの背中は」
「そうか……」
ならばよしとひと声鳴いて、とりは、そらをゆく。
おんなは、よぞらのようなその髪筋をなびかせて──…とりの首に頬を寄せた。やわらかく……。
◆
「ペル。──
「あった、あった、」
「おお。なかなか大物だな」
「まだちらほらと生えている」
「しおれる前に採っておこう」
大柄なこいびとたち。かれらの手には──…しろく、きみょうなかたちの、
──テールファス。雨季にしかお目にかかれない、珍味であった。
「帰ったら──…どうやって食おうかな」
「ペル、あれがいい、ペル。卵でとろりと包んで、よいかおりの草を散らすやつ。おまえがよく作るやつ」
「ああ──…そうするか」
「そうしろ、そうしろ、」
おんなは、うれしそうに砂地に生える茸を摘み取る。ふんふんと匂いを嗅いで、きみょうなかおをする。……おおきな猫のようだ。
──その
「たくさん採れたら、チャカの家にも少しやるかな」
「ペル。ぜんぶわたしが食べてもいいぞ」
「──…いじきたないやつめ……」
よもやま、語らい、戯れながら──…ふたりは、
春のはじめ。水たまりの砂漠を──…。
『砂の春』
◆ ◆ ◆
◆
──他愛のない夢を見た。
砂の上に線を引く。……おさない手。線をぴょんと飛び越える──ほそい脚は、よっつ。ペルと、ふたりで跳んだ。線の向こうへ、こちらへ、むこうへ──…。
──…在りし日、幼馴染としたあそび。
──…いまさっきも、跳んでいた。睡りのなかで……。
「ペル、」
「……うん?」
ねむけに薄まり、傍らでおとこの声。ひくい声は、ふわふわと夢うつつを彷徨っている。
接した裸体の汗は、とうに引き──…素肌はたがいにさらりと接する。……ぬくくて、ここちよかった。
「……ゆめをみた」
「……どんな」
「線を、とんで、あそぶゆめ」
「ああ……」
「なつかしいだろ……」
「……うん。なつかしい……」
お互い、ねぼけていて、会話はどこか子どものような──…。
◆
むかいあって、ぴょんと跳ぶ。あいての陣地のとおくまで、よりとおくまで──着地できたほうが『勝ち』。他愛もない子どもの遊び。
こどものころ。なんの疑いもなく飛び越えられた線は──…次第に、そうではなくなった。
◆
むかいあって、ぴょんと跳ぶ。あいての陣地のとおくまで、よりとおくまで──…。
──…もう、そんなあそびをしなくなった、ある夜に。
……ペルは、線を飛び越えて──…
◆
──…あの痛み。
◆
いちど、受け容れると許容すれば。もう、かれは、決して退いてはくれなかった。
──…やめろ。
触れるな──…と。
そう、何度拒んでも──…。
◆
「……怨んでいるか、」
「いいや。……わたしが、望んだことだ」
「──…それでも……」
「ペル。──…後悔しているか、」
「……している。」
「なぜ」
「…………、」
「──……気にするな。……お互い様だ」
◆
ふたりは、もう、線を飛び越えてしまった。
後戻りができないくらい。相手の、奥深くに、たどり着いてしまった──…。
──…離れようとすれば──癒着した傷口を、むりに開くように──痛むだろう。
「──どこへ、ゆきつくかな」
「さて。跳んでみないとわかるまい……」
『
◆ ◆ ◆
◆
──…持て余している。
……春情を。
(──…めんどうくさい、)
独りで処理してしまえばよいのだろうが──…せわしなく、それもままならない。
(──…ペル、)
肉体が、じくりと熱をもつ。
ここのところ、職務が嵩み、ろくに逢瀬もままならなかった。
(──さいごに会ったのは、いつだったか……)
面影が、脳裏に匂い立つ。同衾した時ふうわり香る、あのおとこが衣に焚いた乳香のそれを幻視した……。
──…会いたい。
無性にそう想う。
──こいしいのだろうか。
あのおとこのぬくもりが……。
(──…ペル、)
◆
──…こつりと。窓の
はっとして振り返る。窓辺の布を取り払えば──…闇に沈んだ庭先に、
「ペル……」
「──…すまない。こんな時間に……」
慌てて窓をひらく。──ひいやりと、夜気が頬を撫でた。
おとこは、するりと部屋に入り込む……。
◆
──…そのまま。
たがいに、無言で──…からだを寄せ合った。
……抱擁は、おおきな心音を伴った。
あいての
「──…すまない。」
「──…かまわん。」
「すまない──…」
「──…ペル。
わたしも、ほしかった。」
──…それから先のことは、あまり憶えていない。
◆
歯型のついた肉体で、けだるく寝返りを打つ。
──…目前には、
「……けものめ。」
ぼつりと、わるぐちをいう。……本心ではない。
あおく色素の刷り込まれた、
「ん……」
おとこが、ふわふわと、黒檀の目をひらく。
「──…起こしたか。」
「んん……」
「すまんな」
「ん……」
おとこの、乱れた頭髪を──…やわらかく撫でつける。ペルは、ここちよさげに目を閉じた。
……ことりの雛のように、あまえて頭を擦り付ける。
「すまなかった……」
ねぼけながら、また、ペルが謝る。
硬く、ざらりとしたゆびが、鎖骨についた歯型をなぞる……。
「まあ、いいよ」
「つい、かんでしまう……」
「
「すまん……」
「──…かまわない。さそったのは、こっちだ……」
そう言うと、ペルはその白い頬をわずかに染めた。
女の子みたいに……。
呆れて見やれば、なおいっそう赤くなる。他愛のないおとこだ。
──…こちらから誘うことは、稀だった。
だからだろうか……。
「──…ペル。
また、逢おう」
「うん……」
ぼつりと、ひくく。おとこの、しろい耳に囁けば──…そこもまた、紅く色づいた。
『べにいろ』
◆ ◆ ◆
◆
──…午后のひととき。
青磁のうつわには、カルダモン珈琲。
よいかおりのそれを啜り、ふたりは、あまったるい菓子を口に含む。さりさりと音を立て──糖蜜に浸された焼き菓子が、舌の上にとろける。
「も少し甘いほうがよい」
ペルは、砂糖壺から銀の匙で砂糖を掬う。ひとすくい。ふたすくい。みすくい……。──涼しい顔だ。のみものに、さらさら入れる。
同伴するおんなのほうも、似たようなものだ。砂糖の量は、ペルよりも、ひとすくいぶん少ない。
──…灼熱のこの国では、さして珍しくもない味の嗜好であった。
「うまいか」
「うまい、」
あまい茶に、あまい菓子を摘みつつ──…ふたりは、のんびりと長椅子に掛けている。久方ぶりの休日だった。
「──ペルよ、」
「うん?」
おんながぼつりとかれを呼ぶ。ペルは、首を傾げた。
おおきな図体で、そのしぐさだけは
「なんでもない」
くすりと笑んで、おんなが首を振る。
ペルは、けげんな顔をした。
◆ ◆ ◆
「──噛むな」
「すまん」
「……こら、」
「すまん……」
こいびとと、裸体を接しあいながら──…ペルは何度も叱られる。
そのたびに、しゅんとした様子を見せるが──…やはり、噛む。
あまえたとりが、
「ペル、」
「すまん……つい、」
──…腰骨のあたりを、がりりとやられた。
「この
「すまない……」
『とり』