悪魔《シャイタアン》
──
かれが、おのれの半身を呪うとき──いつも、
◆
「──…ペル、」
からだのしたで、おんなが呻いた。
──…すまない。
かれは幾度も繰り返す。
おなじことばを。おなじように繰り返し──…ほたほたと、涙をこぼす。
「ペル、」
おのれの、あいての、からだの内部を──抉り尽くすが如き。この欲望。この……異様な、熱よ。
拒絶のためか──…持ち上がったおんなの腕を掴み、抑え込み──。なお、かれは、そのしなやかな肉体を攻め立てる。
「すまない──…」
悪魔は、まるで、おさまりがつかないらしい。かれの内部で金切り声を上げ、もっと、もっと、と欲求する。
このあまやかな女の肉を──…もっと。と──…。
「──足らぬのだ」
「もっと──…」
「もっと、ほしい……」
「……すまない……」
男は、ほたほたと──…
「──…ぺ、る……」
苦痛と
慰撫するように……。
『
fin.
シャイタアンはアラビア語で『悪魔』の意。
◆
母の記憶は遠く、やわく、砂塵の向こうに霞んでいる。
──遊牧の民の出だった。
かつて、のびやかな獣の四肢を駆り、雨季の草原を、乾季の
宮仕えで放浪を忘れ、みやこに居を定めた父の氏族に娶られて──…かの
もう、二度と──…けものの背に乗り野を自由にゆくことは、なかった。
◆
「──似たようなものだ。
……私の、実母も。」
零下に冷え込む、さばくの都市の夜。乾燥させた駱駝の糞を
ペルのみじかい語りに、そうして応えたのだった。
──…その目に、くらく焔が映える。
◆
ペルは、ぼうやり思う。
かつて──…おさない頃は。
野を自由にゆけなくなったわが母を、
(──…かなしく想ったものだった。)
◆
(だが──…。)
──大人に、なってしまった。
かれもまた。
ペルもまた、
──…強いようとしている。
その父と、おんなじように。
その『枷』を──…いとしいひとに。
◆
(これは、なんと──…)
(罪深い鎖であろうか。)
おとことおんなが、『つがい』になること。
獣のそれとは遠く離れてしまった人の営みとは、かようにも酷だ。
幸か、不幸か──…この女は、それを強いようとする、この男の手から──いつも、するりと逃げる。
けれど。
いつまで──…逃れるのであろうか。
──…いつまで。逃れられるのか。
(いつか──…)
かれは、望んでしまう。
かつて、あれほど悲しげに──…雨季のやわこい緑の野をゆく、獣たちのすがたを見た──母の横顔を。憶えているのに──…。
「ヘレウ、」
こいびとの、なまえを呼んだ。
──…おなじ悲しみを。この、いとしいひとに──…いとおしいひとに、強いてしまう。
そのことを──…
──望まずには、いられないのだ。
『枷』
婚礼という「呪い」のおはなし。
◆
──…睡りはやさしく、
「ペルよ、」
とおくで誰かが呼んでいる。
──…ああ、ここだと応える声は、
◆
とおい昔の、ゆめをみた。
◆
──兄と名のつく血縁の者は存在しない。
だが──…そう呼ぶべき存在を挙げるなら、それは、確かにいた。
「──チャカ、」
それは、少年の日の記憶。
とおい日々の──…ゆめ。
……追憶だ。
◆
──少年の日のペルは、兄分のチャカに『うた』を習う。
「ペルよ。……落ち着いてやれ」
「……ううむ……」
──ほんらい、よい声を持つこの弟分は、どうにもこうにも、あがり症でいけなかった。
「──どうしてもできぬ」
「そうも言ってはいられまい。──もうすぐだぞ。結納までは」
「……うう」
まだあどけなさの残る、
「こんなことに、なんの意味がある」
「──たいせつなことだ。ほら、もういちど」
「うう……」
チャカが、さいしょに歌う。
のびやかな低いこえ──…
──…
「さあ、やってみろ」
兄分に促され、ペルは、しぶしぶと息を吸う。
そうして、チャカよりは幾分高い中低域のこえで、それをうたった。
◆
──汝、此処に来たれ。
──水鳥のつがいが如く。
──
──離別しがたき対となり、
──罅入りがたし器となり、
──豊穣の沼地を渡り、
──汝、此処に来たれ。
──我が血と共に。
◆
ペルの声は上擦り、掠れ──途中で途絶えた。
「むりだ」
「──…最後までやり通すのが肝心だ。」
「意味がない」
「──そんなことは、」
「ない。」
◆
──…どうせ、潰れる縁談だ。
ペルは、消え入りそうな声で呟く。
◆
大柄な青年と、まだ成長途上の少年。その背を薄暮が青く染め──やがて、宵闇が、
黒く塗られた輪郭だけの存在となり──…かれらは、まさしく、兄弟のように河畔に佇む。
◆
「──あれは……『こんなもの』に縛られてくれるおんなでは、ない……」
「………やってみなければ、わからんだろう。」
◆
──必死に練習した妻問いのための歌は、終ぞ、披露されることはなかった。
少年の予想通り。……その縁談は、破綻した。
かれの許嫁──…幼馴染の少女との、夫婦のちぎりは妨げられた。
◆
──…それから。
──…長い時が、ながれた。
◆
「──ペルよ、」
──だれかが、かれを呼ぶ。
◆
目を開くと、こいびとの顔がそばにある。
「……どうした」
ねむたげにかれが問うと、おんなは、きみょうな顔で首をかしげた。
「うたっていたぞ。
──…ねむりながら」
◆
──どんな夢をみていたんだ。
──尋ねる女に、かれはただ、微笑を返した。
(──…おまえのために、うたを習った日のゆめだ。)
そう──…声には、出さずに。
かれは、ささめいたのだった。
『愛慕』
fin.
◆
「──おまえ、汚いぞ」
「──さてな。何のことか」
あいてのほうは拗ねに拗ね、長椅子の上でふてくされている。機嫌の悪い猫のようだ。獅子のような大きさの、やたらと嵩張る丈のねこ……。
「──さて。約束は約束だ。」
「……う、」
◆
──…じつに陳腐な誓約を交わして、この『あそび』は始まった。
──『勝った方の言うことを、負けた方はなんでも呑む』。
いやそうに寝っ転がる女を見遣り、ペルはうっすら
「ふふ」
「……なんだよ。」
不きげんな猫は、訝しそうにかれをみた。
◆
ついこのまえの『誓約』のことを思い出し。しばし──…女は、苦い顔になる。
──『わたしが勝ったら、今いちど。』
あんなふうに“さそい”をかけるんじゃあなかった。と、そう──…。
──…後悔しても、とうに遅い。
(──…いったい、)
なにを、要求されるのか。
──…前回のじぶんと、「似たような」ことを求められたら厭だなあと、ひとごとのように女は思う。
(──恥ずかしいったら、ありはしない。)
そう、声には出さずにひとりごつ──その内心に──…微かな期待が潜んでいるのを。
──…知らぬふりをする。
天邪鬼なねこ……。
◆
「それじゃあ。
──…たのみを、聞いてもらおうか」
「──…言ってみろ。」
◆
おんなのひざ裏が、うっすらと湿度を帯びる。
どこか、
◆
「手伝ってほしい」
「……なにを、」
「それは、もちろん──…」
──おんなはすこし俯いて、おとこの言葉の続きを待った……。
◆
「皿洗い。」
「は?」
『朴念仁とねこ』
fin.