悪魔《シャイタアン》

──去れ!
──悪魔シャイタアンよ。

 かれが、おのれの半身を呪うとき──いつも、悪魔それはかれの内部でかれをあざわらうのだった。



「──…ペル、」

 からだのしたで、おんなが呻いた。

──…すまない。
 かれは幾度も繰り返す。
 おなじことばを。おなじように繰り返し──…ほたほたと、涙をこぼす。

「ペル、」

 おのれの、あいての、からだの内部を──抉り尽くすが如き。この欲望。この……異様な、熱よ。
 拒絶のためか──…持ち上がったおんなの腕を掴み、抑え込み──。なお、かれは、そのしなやかな肉体を攻め立てる。

「すまない──…」

 悪魔は、まるで、おさまりがつかないらしい。かれの内部で金切り声を上げ、もっと、もっと、と欲求する。
 このあまやかな女の肉を──…もっと。と──…。

「──足らぬのだ」
「もっと──…」
「もっと、ほしい……」
「……すまない……」

 男は、ほたほたと──…から垂れる水で鳴く。……涙を、こぼす。

「──…ぺ、る……」

 苦痛と快楽けらくのあわいで。ぼうやりと──…おんなは、そのなみだを舐めとったような気がした。

 慰撫するように……。



悪魔シャイタアン



fin.




 シャイタアンはアラビア語で『悪魔』の意。











 母の記憶は遠く、やわく、砂塵の向こうに霞んでいる。

──遊牧の民の出だった。
 かつて、のびやかな獣の四肢を駆り、雨季の草原を、乾季の曠野あれのをゆけたひと──。

 宮仕えで放浪を忘れ、みやこに居を定めた父の氏族に娶られて──…かのひとは、草原とわかたれた。
 もう、二度と──…けものの背に乗り野を自由にゆくことは、なかった。





「──似たようなものだ。
 ……私の、実母も。」

 零下に冷え込む、さばくの都市の夜。乾燥させた駱駝の糞を粗朶そだに焚いた暖炉の火。その耀かがやきを眺めつつ、女はぼつりと呟いた。
 ペルのみじかい語りに、そうして応えたのだった。
──…その目に、くらく焔が映える。





 ペルは、ぼうやり思う。

 かつて──…おさない頃は。
 野を自由にゆけなくなったわが母を、

(──…かなしく想ったものだった。)





(だが──…。)

──大人に、なってしまった。
 かれもまた。

 ペルもまた、
──…強いようとしている。

 その父と、おんなじように。
 その『枷』を──…いとしいひとに。





(これは、なんと──…)

(罪深い鎖であろうか。)


 おとことおんなが、『つがい』になること。
 獣のそれとは遠く離れてしまった人の営みとは、かようにも酷だ。

 幸か、不幸か──…この女は、それを強いようとする、この男の手から──いつも、するりと逃げる。

 けれど。

 いつまで──…逃れるのであろうか。
──…いつまで。逃れられるのか。


(いつか──…)


 かれは、望んでしまう。
 かつて、あれほど悲しげに──…雨季のやわこい緑の野をゆく、獣たちのすがたを見た──母の横顔を。憶えているのに──…。


「ヘレウ、」


 こいびとの、なまえを呼んだ。

──…おなじ悲しみを。この、いとしいひとに──…いとおしいひとに、強いてしまう。

 そのことを──…


──望まずには、いられないのだ。



『枷』




婚礼という「呪い」のおはなし。













──…睡りはやさしく、瀝青コールタールのように暗く、ねばこかった。

「ペルよ、」

 とおくで誰かが呼んでいる。
──…ああ、ここだと応える声は、瀝青れきせいの睡りのなかに消えてゆく……。



 とおい昔の、ゆめをみた。



──兄と名のつく血縁の者は存在しない。
 だが──…そう呼ぶべき存在を挙げるなら、それは、確かにいた。

「──チャカ、」

 それは、少年の日の記憶。
 とおい日々の──…ゆめ。
……追憶だ。





──少年の日のペルは、兄分のチャカに『うた』を習う。


「ペルよ。……落ち着いてやれ」
「……ううむ……」


──ほんらい、よい声を持つこの弟分は、どうにもこうにも、あがり症でいけなかった。


「──どうしてもできぬ」
「そうも言ってはいられまい。──もうすぐだぞ。結納までは」
「……うう」

 まだあどけなさの残る、白皙はくせきの少年は──すこし呻いて、項垂れた。

「こんなことに、なんの意味がある」
「──たいせつなことだ。ほら、もういちど」
「うう……」

 チャカが、さいしょに歌う。
 のびやかな低いこえ──…
──…妻問つまどい──…求婚のための・・・・・・歌だった。

「さあ、やってみろ」

 兄分に促され、ペルは、しぶしぶと息を吸う。
 そうして、チャカよりは幾分高い中低域のこえで、それをうたった。



──汝、此処に来たれ。
──水鳥のつがいが如く。
──瀝青れきせいで継ぐ石の如く。

──離別しがたき対となり、
──罅入りがたし器となり、

──豊穣の沼地を渡り、
──汝、此処に来たれ。
──我が血と共に。



 ペルの声は上擦り、掠れ──途中で途絶えた。

「むりだ」
「──…最後までやり通すのが肝心だ。」
「意味がない」
「──そんなことは、」
「ない。」



──…どうせ、潰れる縁談だ。

 ペルは、消え入りそうな声で呟く。



 大柄な青年と、まだ成長途上の少年。その背を薄暮が青く染め──やがて、宵闇が、瀝青れきせいの黒にふたりを沈めた。
 黒く塗られた輪郭だけの存在となり──…かれらは、まさしく、兄弟のように河畔に佇む。





「──あれは……『こんなもの』に縛られてくれるおんなでは、ない……」

「………やってみなければ、わからんだろう。」







──必死に練習した妻問いのための歌は、終ぞ、披露されることはなかった。
 少年の予想通り。……その縁談は、破綻した。

 かれの許嫁──…幼馴染の少女との、夫婦のちぎりは妨げられた。






──…それから。
──…長い時が、ながれた。






「──ペルよ、」

 瀝青れきせいのゆめのなか。
──だれかが、かれを呼ぶ。





 目を開くと、こいびとの顔がそばにある。

「……どうした」

 ねむたげにかれが問うと、おんなは、きみょうな顔で首をかしげた。

「うたっていたぞ。
──…ねむりながら」





──どんな夢をみていたんだ。

──尋ねる女に、かれはただ、微笑を返した。



(──…おまえのために、うたを習った日のゆめだ。)


 そう──…声には、出さずに。
 かれは、ささめいたのだった。


『愛慕』



fin.













「──おまえ、汚いぞ」
「──さてな。何のことか」

 盤 戯ボードゲームに大敗したこいびとが、ぶちぶちと文句を垂れて酒を飲む──。それを、ペルは涼しい顔で見ていた。
 あいてのほうは拗ねに拗ね、長椅子の上でふてくされている。機嫌の悪い猫のようだ。獅子のような大きさの、やたらと嵩張る丈のねこ……。

「──さて。約束は約束だ。」
「……う、」



──…じつに陳腐な誓約を交わして、この『あそび』は始まった。

──『勝った方の言うことを、負けた方はなんでも呑む』。



 いやそうに寝っ転がる女を見遣り、ペルはうっすら青紫せいしの口に笑みを刷る。

「ふふ」
「……なんだよ。」

 不きげんな猫は、訝しそうにかれをみた。





 ついこのまえの『誓約』のことを思い出し。しばし──…女は、苦い顔になる。


──『わたしが勝ったら、今いちど。』


 あんなふうに“さそい”をかけるんじゃあなかった。と、そう──…。
──…後悔しても、とうに遅い。


(──…いったい、)


 なにを、要求されるのか。
──…前回のじぶんと、「似たような」ことを求められたら厭だなあと、ひとごとのように女は思う。


(──恥ずかしいったら、ありはしない。)


 そう、声には出さずにひとりごつ──その内心に──…微かな期待が潜んでいるのを。

──…知らぬふりをする。

 天邪鬼なねこ……。





「それじゃあ。
 ──…たのみを、聞いてもらおうか」

「──…言ってみろ。」





 おんなのひざ裏が、うっすらと湿度を帯びる。
 どこか、くながい・・・・のよるを想わせる──…けだるい熱を帯びて──。







「手伝ってほしい」

「……なにを、」

「それは、もちろん──…」

──おんなはすこし俯いて、おとこの言葉の続きを待った……。







「皿洗い。」

「は?」



『朴念仁とねこ』




fin.
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