火夏星[完全版]
「まったく、暑いこと──…」
──ペルの、しろやかな
海風が
潮の匂いを含んだ風は、さらりと吹いて、かれの頭で
みじかい下草の色が、あまりに鮮やかだ。
ペルは、丘の
丘の
(──…なつかしい、)
のぼりながら、ペルはひとりでそう想う。
──…幼少から、暑さのきびしい時期に通った避暑地であった。
遠く──…丘の上に、あめんどうの木がある。梢が透かす夏の空が、蒼い──。
その、木の下に──しろく、何かの影がひららく。
大きなつばの帽子──。
目を細めて見上げれば、女がかれに手を振った。
──
「 」
その
──ペルは、丘の上のこいびとに手を振り返す。
◆
海辺から、すきなひとが手を振ってくる。
かれもまた、振り返す。
──…幾度も幾度も、くりかえす。
◆ ◆ ◆
こいびとは、みょうな格好をしていた。
──生成りの
それらは、きみょうにちぐはぐで──ふしぎに、なまめいて視えた。
◆
「もともと持っていたやつは、風に取られてしまった」
宿を出たところで、突風にうばわれた。
──麦編みの、つばの浅い男物だった。
「──…探しにいくのも億劫でな。」
おんなは、ちいさく溜息をつく。
──かの
その帽子は、かろやかに、砂浜のずっと向こうへ──…碧い海のほうへと、飛んでいってしまった。
◆
「──それはすまんかったなあ」
ペルは、こころからそう言った。
──じぶんがいたら、つばさで
善良なおとこであった。
「──まあ、問題はない」
仕方がないので
──かつての客の忘れ物か、海風に飛ばされた誰とも知れぬ
はたまた、かの老婦の若かりし日の思い出の品であったのか──。
◆
ちょうど、昼餉の時間になった。
──藤籠をペルが開く。ころころと、橙色のまるいものが砂地に転げ落ちる。──柑橘だ。
「あっ、こら、」
追いかけながら、くだものを叱る男の姿が滑稽で──おんなは、笑う。吐息の音だけの笑声。……やさしい音だった。
◆
白い布巾に包まれて、よいかおりが漂った。
羊の肉を、香草と煎り麦で挽いて、纏めて焼いたもの──…。その
ふたりで、齧る。
海の香りの風が吹く。
◆
──皮の分厚い
いちおう、かごの中には銀の
──皮はずいぶん厚い筈なのに。
過大な力をかけようものなら、中身の薄皮やら果肉まで破れて潰れて汁が飛散しそうなものだが──…中身は、まったくの無傷である。
繊細さを兼ね備えた
──…では、なんのための
これもまた、器用に剥いている。銀の
女のほうは、無精にも薄皮ごと食べてしまう。
硬く、噛みきれぬような苦い部分も──吐いたりせずに、こだわりなく丸呑みしてしまう……。
「──おまえなあ……」
ペルは、「しようのない」というふうで、ちまちま剥く
ペルが剥くのが追いつかない時、女は薄皮ごと、
(──…無精なことだ。)
そう、ペルは思う。
◆
ふたりの家から持ってきた、
──または、堅焼きの菓子に塗って食べる。
◆
ちょうど、空になったジャムの瓶を片手に持って。おんなは、海のほうへ行く。
ペルの、鳶色のあたまに、
「借りものだ。失くすと悪い。
──…預かってくれ。」
そう言って、女物の帽子を被せた──。
「──ああ。
ペルよ。──…案外、似合うな。おまえ」
◆
おんな、ゆっくり丘を降りてゆく。くだりきった砂浜のむこうで、のびやかに体操のようなものをする。
──まったくの自己流である。
しないよりはましだろう。
◆
その
──どこか、たのしそうに。
──どこか、うれしそうに。
四つ足の、きれいな獣が優美に跳ぶように、駆けるように──ながい
◆
振り返って、女が笑う。あおい空の下、白い歯がちらりと見える。いつもの、微かな
かれは、ふと思う。
(──…
笑って手を振られたら。──…かれもまた、振り返す。
──…みどりの
◆
女は、水の中に入っていった。時折、ゆるやかに手を振る。
──かれも、振り返す。
その
「──…ヘレウ、」
せつな。
女の姿が視界に消える。──あ、と思って探す。どこにもいない。
「──ヘレウ!」
……すると。
まさか、と思うような場所から、みなもを分けて現れる。
(──…人騒がせな。)
こいびとが、手を振る。
「まったく──」
ペルも、振り返す。
◆ ◆ ◆
──海には、ほとんど行ったことのない王女。
──…まだ、おさない主君。
「──おみやげは何を御所望ですか」
と──…女が問えば、「貝がほしい」と無邪気に言った。
「そんなものでよろしいのですか?」
笑って返せば、それがいいと重ねて
──…その、むじゃきな子ども……。
いとしい子ども。
◆
「あのね、さばくを掘ると、たまに貝が見つかるの。
──化石の貝よ。
むかしはここも
──…でもね、かせきの貝も好きだけど、海の貝もひろってみたいの」
「でもね、でもね、わたし、うみで貝をひろったことがないからね──」
かならず持って参ります。──女は応え、主人の髪を優しく撫ぜた。
「もう少し大きくなれば、何度だってお行きになれますとも」
「それって、いつ?」
「すぐにでも。──…あっという間でしょう」
◆ ◆ ◆
瓶の中に、あざやかな青いものが揺れている。
──
「うみうし」「へえ」
もう二度と、海の中へはゆけない男のために。幾度も幾度も水の中と、丘の上の
──やさしい
◆
海辺から、すきなひとが手を振ってくる。かれもまた、振り返す。──…幾度も幾度も、繰り返す。
風が吹き、ペルの目に砂屑が紛れ込む。
あ、──と、彼は下を向く。同時に、視界が潤み、しずくが垂れる。
(──…ああ、しあわせだ。)
かれは、とうとつにそう思う。
陳腐な、と
(ずっと──。)
(──…ずっと、このままであればよい。)
だれに、ともなく。
なにに、ともなく──。
──…そう、祈った。
◆
夕暮れ、西の空に
赤い星──…、
──…凶兆とされるそれ。
(──…とてもそうは思えない。)
──幸福な休日。
ペルは
開け放った宿の窓から夕の風。
──うすむらさきの夕暮れ。
真水で体と衣服を洗って、女は、真新しい
──すももジャムが入っていた、空瓶の中で──やどかりが
流石にこれを生きたまま、幼い主君にお届けするのは難しかろうし──…連れて行かれる
(──…明日の朝には、
ぼんやり、そう思い──…ペルは、身を寄せ合う女の肌に頬を置く。
──…その
「──…ん……」
おんなの、ねむたげな声に──…ほのかな色が
こいしい
……石のように、しろやかな
意図して、視線を机の上に逸らす。
(──…それにしても、)
──…昼餉を入れた藤の籠は、いまや溢れるほどの貝殻でみちみちだ──…。
かれは、苦笑する。
あの籠の中身を、全て持って帰るつもりだろうか。と──…。
(──…
貝殻集めに自分も加担しておきながら、ペルはそんなことを思う。
(選別しなくては──…)
そう考えたが──…このまますべて、持って帰っていい気も、した。
(持ち帰るのは、とてつもなく大変だろうが──…)
なにしろ貝というものは、素晴らしく重たい──…。
だが、王女はきっと飛び上がって喜ぶだろう。
◆
──放してやったと思っていたが。
藤籠の中には、おもいがけず、やどかりが一匹紛れていた。
──…それは、砂漠越えを頑丈に生き延びたらしい。
鳥の背中で、太陽に近い場所を飛び──苛烈な陽射しと気温を耐えた、頑丈なやどかりだった。
硝子水槽の中──おさない王女が
──…そのやどかりは、ひと夏を過ごした。
おまけ→
◆