火夏星[完全版]

──海沿いの坂道。ふじあみの籠を片手に、ペルは、大股に歩く。

「まったく、暑いこと──…」

──ペルの、しろやかなかおに汗がつたう。
 海風がはだの上をゆく。
 潮の匂いを含んだ風は、さらりと吹いて、かれの頭で菱染ひしぞめの布を揺らす──。

 みじかい下草の色が、あまりに鮮やかだ。
 ペルは、丘のみちを登ってゆく。
 水捌みずはけのよい砂地がきらきら光り、まぶしい。砂粒の中に、細かな石英を含むからだ。
 丘のみちの表面は、いしくれと海砂がぜになり、歩きづらい。おまけに、たいそうな傾斜だったが──ペルの呼吸は少しも乱れず平静だ。

(──…なつかしい、)
 のぼりながら、ペルはひとりでそう想う。
──…幼少から、暑さのきびしい時期に通った避暑地であった。

 遠く──…丘の上に、あめんどうの木がある。梢が透かす夏の空が、蒼い──。
 その、木の下に──しろく、何かの影がひららく。
 大きなつばの帽子──。
 目を細めて見上げれば、女がかれに手を振った。
──せいの高いおんなであった。

「   」
 そのひとの、なまえを呼んだ。
──ペルは、丘の上のこいびとに手を振り返す。



 海辺から、すきなひとが手を振ってくる。
 かれもまた、振り返す。
──…幾度も幾度も、くりかえす。




 ─ひなつぼし─






◆ ◆ ◆




 こいびとは、みょうな格好をしていた。
──生成りの襯衣シャツに、白い洋袴ズボン、金の留め具がついた濃茶の革帯──まったき男のなり・・であるのに、頭に乗せた帽子ばかりが匂やかに、女物であった。


 それらは、きみょうにちぐはぐで──ふしぎに、なまめいて視えた。




「もともと持っていたやつは、風に取られてしまった」

 宿を出たところで、突風にうばわれた。
──麦編みの、つばの浅い男物だった。

「──…探しにいくのも億劫でな。」

 おんなは、ちいさく溜息をつく。
──かのじょは、最前のことを思いだす。

 その帽子は、かろやかに、砂浜のずっと向こうへ──…碧い海のほうへと、飛んでいってしまった。



「──それはすまんかったなあ」

 ペルは、こころからそう言った。
──じぶんがいたら、つばさでってさっさと取り戻せたろうにと。
 善良なおとこであった。

「──まあ、問題はない」

 仕方がないので無帽むぼうのまま出ようとしたが、宿の差配さはいの老婆が、親切にも帽子を貸してくれたらしい。
──かつての客の忘れ物か、海風に飛ばされた誰とも知れぬたれ・・かの落とし物なのか。
 はたまた、かの老婦の若かりし日の思い出の品であったのか──。



 ちょうど、昼餉の時間になった。
──藤籠をペルが開く。ころころと、橙色のまるいものが砂地に転げ落ちる。──柑橘だ。

「あっ、こら、」

 追いかけながら、くだものを叱る男の姿が滑稽で──おんなは、笑う。吐息の音だけの笑声。……やさしい音だった。



 白い布巾に包まれて、よいかおりが漂った。

 羊の肉を、香草と煎り麦で挽いて、纏めて焼いたもの──…。そのにく・・を、胡瓜きゅうりの酢漬け、蕃茄トマトや香菜といっしょに、薄焼きのパンで挟んだものだ。
 ふたりで、齧る。
 海の香りの風が吹く。




──皮の分厚いオレンジを、ペルが剥く。
 いちおう、かごの中には銀の小刀ナイフも入っているのに、それは使わず指先だけできれいに剥いてしまう。
──皮はずいぶん厚い筈なのに。
 過大な力をかけようものなら、中身の薄皮やら果肉まで破れて潰れて汁が飛散しそうなものだが──…中身は、まったくの無傷である。
 繊細さを兼ね備えた馬鹿力・・・だ。

──…では、なんのための小刀ナイフだったのかというと──…薄皮を剥くためであったらしい。
 これもまた、器用に剥いている。銀の小刀ナイフを扱って、少しだけ切れ目を入れると──…あとはつるりと艶やかな、橙色の液果えきかの姿が三日月型にあらわれる。

 女のほうは、無精にも薄皮ごと食べてしまう。
 硬く、噛みきれぬような苦い部分も──吐いたりせずに、こだわりなく丸呑みしてしまう……。

「──おまえなあ……」

 ペルは、「しようのない」というふうで、ちまちま剥く都度つどあいてに与え、じぶんで食べ、また与える。──食べ、与え、食べる。
 ペルが剥くのが追いつかない時、女は薄皮ごと、まりまり・・・・と食べてしまうらしい。

(──…無精なことだ。)
 そう、ペルは思う。



 ふたりの家から持ってきた、すもも・・・の、酸くあまいジャム──ペルが旅行の前日に煮たやつだ──そのくだものの煮凝にこごりを、カーダモンのすっとする香りの紅茶に入れて飲む。
──または、堅焼きの菓子に塗って食べる。





 ちょうど、空になったジャムの瓶を片手に持って。おんなは、海のほうへ行く。

 ペルの、鳶色のあたまに、
「借りものだ。失くすと悪い。
──…預かってくれ。」
 そう言って、女物の帽子を被せた──。

「──ああ。
 ペルよ。──…案外、似合うな。おまえ」



 おんな、ゆっくり丘を降りてゆく。くだりきった砂浜のむこうで、のびやかに体操のようなものをする。
──まったくの自己流である。
 しないよりはましだろう。



 そのひとは、悠々ゆうゆうと波打ち際へ歩いてゆく。
──どこか、たのしそうに。
──どこか、うれしそうに。
 四つ足の、きれいな獣が優美に跳ぶように、駆けるように──ながい二本足・・・あゆぶ。しなやかに。なにかの舞踏のような。



 振り返って、女が笑う。あおい空の下、白い歯がちらりと見える。いつもの、微かな笑みそれではない──…。
 かれは、ふと思う。

(──…めずらかなことだ。)

 笑って手を振られたら。──…かれもまた、振り返す。
──…みどりの樹蔭こかげに、おとこの皓歯こうしがひかる。



 女は、水の中に入っていった。時折、ゆるやかに手を振る。
──かれも、振り返す。
 そのひとのながい脚は、ついに腿の半ば・・・・まで水に隠れ──…みえなくなった・・・・・・・

「──…ヘレウ、」

 せつな。
 女の姿が視界に消える。──あ、と思って探す。どこにもいない。

「──ヘレウ!」

……すると。
 まさか、と思うような場所から、みなもを分けて現れる。

(──…人騒がせな。)

 こいびとが、手を振る。

「まったく──」

 ペルも、振り返す。




◆ ◆ ◆




──海には、ほとんど行ったことのない王女。
──…まだ、おさない主君。

「──おみやげは何を御所望ですか」

 と──…女が問えば、「貝がほしい」と無邪気に言った。

「そんなものでよろしいのですか?」

 笑って返せば、それがいいと重ねて強請ねだる。
──…その、むじゃきな子ども……。
 いとしい子ども。



「あのね、さばくを掘ると、たまに貝が見つかるの。
──化石の貝よ。
 むかしはここもうみ・・だったの。せんせいが言ってたわ。
──…でもね、かせきの貝も好きだけど、海の貝もひろってみたいの」

「でもね、でもね、わたし、うみで貝をひろったことがないからね──」

 かならず持って参ります。──女は応え、主人の髪を優しく撫ぜた。

「もう少し大きくなれば、何度だってお行きになれますとも」
「それって、いつ?」
「すぐにでも。──…あっという間でしょう」


◆ ◆ ◆


 瓶の中に、あざやかな青いものが揺れている。
──彩釉さいゆう陶片タイルのような、濃青こあおの地に、きいろと橙色オレンジひだ・・──…。

「うみうし」「へえ」

 もう二度と、海の中へはゆけない男のために。幾度も幾度も水の中と、丘の上の樹蔭こかげとを行き来して──…。おんなは、海中のきれい・・・な何かを見せにくる。得意げな猫のように。



──やさしいひと







 海辺から、すきなひとが手を振ってくる。かれもまた、振り返す。──…幾度も幾度も、繰り返す。

 風が吹き、ペルの目に砂屑が紛れ込む。
 あ、──と、彼は下を向く。同時に、視界が潤み、しずくが垂れる。


(──…ああ、しあわせだ。)


 かれは、とうとつにそう思う。
 陳腐な、とくさす・・・には、それはあまりに切な心地を帯びていた。


(ずっと──。)
(──…ずっと、このままであればよい。)


 だれに、ともなく。
 なにに、ともなく──。
──…そう、祈った。









 夕暮れ、西の空に火夏星ひなつぼしがひかる。
 赤い星──…、
──…凶兆とされるそれ。


(──…とてもそうは思えない。)


──幸福な休日。
 ペルはぼう・・と空を見る。
 開け放った宿の窓から夕の風。
──うすむらさきの夕暮れ。
 真水で体と衣服を洗って、女は、真新しい敷布シーツの上にのんびり横たう。

──すももジャムが入っていた、空瓶の中で──やどかりがかさかさ・・・・言う。
 流石にこれを生きたまま、幼い主君にお届けするのは難しかろうし──…連れて行かれるやどかり・・・・の身にもなれば、哀れである。

(──…明日の朝には、砂辺すなべに放してやるしかあるまい。)

 ぼんやり、そう思い──…ペルは、身を寄せ合う女の肌に頬を置く。
──…そのひとはだは、微かにうしおのかおりがした。

「──…ん……」

 おんなの、ねむたげな声に──…ほのかな色がによい立ち──…。ペルは一瞬、ついさっきまでの情景・・を思い出す。
 こいしいひととの──…素裸・・の、戯れを。
……石のように、しろやかなかお。その白膚ひふが、わずかに赤みを帯びる。……ペルはあわてて、脳裏の景色を打ち消した。
 意図して、視線を机の上に逸らす。

(──…それにしても、)

──…昼餉を入れた藤の籠は、いまや溢れるほどの貝殻でみちみちだ──…。
 かれは、苦笑する。
 あの籠の中身を、全て持って帰るつもりだろうか。と──…。

(──…あれ・・も、いい歳をして、子供じみたことを。)

 貝殻集めに自分も加担しておきながら、ペルはそんなことを思う。

(選別しなくては──…)

 そう考えたが──…このまますべて、持って帰っていい気も、した。

(持ち帰るのは、とてつもなく大変だろうが──…)

 なにしろ貝というものは、素晴らしく重たい──…。
 だが、王女はきっと飛び上がって喜ぶだろう。





──放してやったと思っていたが。
 藤籠の中には、おもいがけず、やどかりが一匹紛れていた。
──…それは、砂漠越えを頑丈に生き延びたらしい。
 鳥の背中で、太陽に近い場所を飛び──苛烈な陽射しと気温を耐えた、頑丈なやどかりだった。


 硝子水槽の中──おさない王女がこしらえた、あかい砂漠のいさご・・・──その、ちいさな海辺で。

──…そのやどかりは、ひと夏を過ごした。





 ─ひなつぼし─







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