少女蜂
──…その有する毒。
──…たいていの動物は、ゆりの茎を
──…それだけで、死に至る。
◆
──みあげるような
「──…明日の
髪は夜色。
──
「──…
……やはり、誰ぞ人を呼ぼうか?」
鋭利な
かれは、いま──…その、巨木のような肉体を──ちいさく。ひくく。……
そうして──…
「大丈夫ですよう。そのようにご心配いただかなくとも」
ちいさな、ちいさな──…かれの
「……うむ……」
夕刻。西野から射す
──まもなく、夜警に向かう時刻であった。
◆
「──…昼には戻る。」
「さっき聞きました!」
「──…なにかあれば、報せを寄越せ。」
「なんにもないですよう」
「……すまない。……不安にさせるやもしれぬが、」
「こわくないですってばあ。お留守番くらい……。
わたくし、いなかのさびしい
実家のひとり留守と比べれば、このおうちでお留守番なんて、まるでもう。
少しも寂しゅうございませんとも」
「──…うむ……」
◆
おおきな夫とちいちゃな奥方。
ぐうと屈んだ大漢と、いっぱい背伸びの
──…ふたりは、やわらかく頬を
この国での、ごく親しい者同士の挨拶だ。
ただ。──これを、
「いってらっしゃいませ!」
「──…行ってくる。」
──ふたりの頬擦りは、すこしだけぎこちない。
まだ、ほんのり──…
◆
やわこく、しずかな、夫婦の景色。
──けれど。
◆ ◆ ◆
──
天上に在る
──昼ひなか。
とおく、王宮の時計台が、正午を指した。
あちこちにある、
「──…あら。」
──蒼い布がひるがえる。あかい砂の大地。そらの色は希薄な雲に薄められている。
ちいさなからだをすっぽり覆う──染め抜かれた絹の青さ。少女は、きょうの空よりよほどに深いそのいろを日除けに纏い、かけてゆく。ほそく、急な坂道だらけのみやこの
「いそがなきゃ、」
おどるように、まろぶように、少女は駆ける。あたまから被った、青い日除け布が、歩調にあわせてぱたぱたなびく。
乱立する、あざやかな
──…けれど、当の本人は、海をみたことはない。
◆
──おどるようにかけてゆく。
恥じらいもなく、脚をするりと体側に沿って持ち上げる──しろい脛が巻衣からさらりとあらわになる。陽射しを逃れた
「んー、んんんー」
うみのむこうのおんがくを、少女は、うたう。──がさがさと雑音のある、蓄音機でしか聴いたことのないおとを。
◆
少女は、西へ西へとはしる。おどるように、まろぶように。
豪奢な
──細い通りに、ひとの数が多くなってきた。
物売りが、担いだ竿の両端に、
(──…おいしそう。)
少女は、ちいさな鼻を、うさぎのようにひくひくさせる。すこしお腹が空いてきた。
──残念ながら食べられない。
お金はもって出てこなかった。……だって、これは
──少女は、
◆
──…ふいに、頭上が
雨がくるには時期がはやい。きょうの雲は薄い。
──せつなの戸惑い。
少女は、
あおい、日除け布をほのかに捲り──…そらを見上げた。
──…はばたきの音。
重いはなびらが、羽毛のように、ぽとりと落ちた。
──
「──…
巨きな、おおきな鳥だった。それは、石敷の地に──しずかに降りてきた。その巨体からは信じられないほど、そっと大地にとまった。
とりだと思ったその
──それでもやっぱり、ちいさなこどもにとっては、見上げるようなおおきさだ。
やがて、そのとりは、
◆
とりだった男は、しろくおおきな花の束を抱えていた。
「まあペル様、おひさしぶりでございます」
少女は、りはつな顔をしてみせた。かわいらしく笑んで、服の裾をつまんで持ち上げた──外国かぶれの
「──こんなところで、なにを、」
──それは、みやこの外れに近い場所。
しろく、おおきな、そのおとこに──…
「ちょっとそこまでおつかいに」
見えすいた
(──
(──…それでも、)
このおとこは──…かの
◆
──…かの
──…いずれ、このおとこが、
少女の、いっとう、たいせつなひとの──。その、地位を脅かすことを。
いつかの、未来。
軍部の頂点を争う──…。
──…双璧にして、宿敵だ。
(──…よりによって。)
──…
(──…
──少なくとも。……彼女にとって、この白いおとことは──…
◆
「──まあペル様、すてきなおはな!
もしや、これからとっても、
しろい、花の束。それは
「──…。」
──…一瞬。……そのおとこの、石のようにしろい
──…他愛のないおとこだ。揶揄い甲斐のないほどに、よくひっかかる。
少女は、また、心の中でひとり
──
あのような
◆ ◆ ◆
「──…
「まあ。わが家の小屋のにわとりは、お利口にしておりますよ。──そらをゆく生きものみたく、飛び回ったりはしませんわ」
鈴の鳴るような笑声。小動物のように、無害で、あいらしい音で紡がれる──皮肉と悪意。
「………きみの話だ。」
◆
──…児童婚。
──年弱のこどもに対する婚姻の文化は、この国における悪習のひとつと言って相違ない。
近年は減りつつある。──…だが、保守的な上流階級や、辺境の農村部では、未だ消えることのないものだ。
◆
──…少女は、
──いつも、にげる。
◆
巨きな、やさしい夫。この世にはびこるよどんだものから、護ってくれたそのひと。
でも。
その、よどんだもの──…
たいせつなひと。
いとおしいひと。
──そのひとから。
ふたりのいえから。
──…いつも、いつも、逃げ出す。
◆
──…だって。
──これは、
◆
「──…
──…もし、なにか、困りごとがあるのなら……」
やさしい他人のことばは、ふいに遮られた。
──…鈴の鳴るような。わらいごえ。
◆
「──いいえェ! ……ふふ、ああ、ペル様ったら! おもしろい、」
◆
──…埒のあかない対話。
「──…ほんとうに、そう思っているのだよ。
なにか、
苛立つこともなく。──…
──…だが、そのこどもが、こころをひらくことはない。
わらいながら、わらいながら──…そのままかれを振り切って、逃げる気配があった。
かれは、思う。
(──…とらえるのは、造作もないことだ。)
……実際、そうした方がよかった。かれが躊躇ったのは──…そうして、それを実行しなかったのは──その
──人混みのなかにあって──…けれど、明らかな異質さ。……大柄なペルのそれより、さらにまさるその
月のない暗闇みたくな。──…夜色の髪。
黒曜の、するどく研いだ
(──…ああ。
追いついたか。)
◆
ペルは、おのれが抱える大輪の花のひと茎を──その、無骨な指で
──…そうして、にこやかな敵意を纏うこどもの、やわらかな手に持たせた。
「──…きみの、望むようにしなさい。
……ただ、この世には──あのおとこの他にも、たくさん
──…きみが、まだ、それを知らないだけで。
──…きみは、どこにでもゆけるのだ。」
◆
まあ、ふゆかい。
「──…
◆
鈴の鳴るような声。
──…けれど、その笑み
◆
──…少女は、駆けてゆく。
青い、あおい海色の布をあたまに被り、ひららかせ──…におやかな
「──…。」
ちいさな後ろ姿を、ペルは、
──…これで、よかったのだろうか。
なんらかの
──…
おとなが渡した一輪の罠を、知ってか知らずか、少女は耳介で受け取った。
「──…チャカ、」
人混みから、見慣れた
その
無言の目礼を、ペルはおんなじように返す。
(──…信じたい。)
(……信じて、いる。)
──ペルは、この同輩を信じている。
この、無二の
ものごころがつく以前からの幼友を。
背を追い続けた兄分を。
──信じている……。なによりも。
◆
──…これで、よいのだろうか。
──…ほんとうに。
◆
少女は、みやこの
──…都市のはずれにゆくにつれ、ひとの数が減ってくる。
建物はより粗末に。
ひとびとの服は、より
少女が被った、質の良い絹の布。
耳元の、しらゆりの芳香。
空の青。
しら茶けた日干し
──…その先に、あかい
……どこまでも。どこまでも──…。
少女は、思うのだ。
──たとい海を知らずとも、
(この砂のはてしないことは、ほんものの海よりも大きいことに違いないわ。)
──どこか、ほこるように。
──…どこか、かなしむように。
──世界を、なにもしらぬまま。少女は西へ西へゆく。
◆
みやこの巨大な
──…それまで彼女のほそいからだを護ってくれた影はなく、陽射しがやわこい肌をあぶる。
少女は、あわてて布をすっぽり被った。
そろりと、階段に一歩を踏み出す──。
──…ふいに、少女は、背後をふり仰いだ。
「──…あ、」
◆
いとしい巨人。かの
「──…チャカさま!」
おさない
ひとかけらの棘もなく。まさしく、こどもらしい顔で──…。──…否。ひとしずく。ほのかに、少女の先の羽化したすがたを匂わせる──なにか、つやびたものを帯びている。
◆
(ああ──…だんなさま!)
(わたしの、だんなさま……)
(──…チャカさま!)
──…さあ。
◆
少女は、駆けてゆく。西へ西へと駆けてゆく。青い布がなびく。はてのない、白亜の大階段をなぞるように。少女は、駆け降りる。下へ下へと。まろぶように。おどるように駆けてゆく。
◆
男は、
悠々と──? いいえ。
◆
遺跡が点在する、王都西方の沙漠──…治安はあまりよろしくない。
青い布をまとい、しらゆりを耳介に挟み、少女は、砂の上をかけてゆく。
うすくやわこい
──…ちかくで、けものの、こえがした。
遺跡の影に隠れる前に。少女のそばに、
「──…!」
獣の牙は、しかし、空虚をあま噛みした。少女の被ったあおい布だけが、くろい
けものの姿が変じてゆく。──…ひとと似た、けれどもくろの獣毛を生ずる腕が──布を、やわらかく外し──…小脇に抱えた。
◆
少女は、駆ける。
半人、半獣の大男は──…それを追う。
「──…あっ!」
異形のおとこが、たくましい
のがれた少女は──けれど、ついに、
──…遺跡のなかに吹き込んだ、やわこい砂に──ちいさなからだは受け止められる。
「あ……、」
──…いたみを、少女は、おぼえた。
◆
ざり……と近づく、おおきな
赤銅色のすはだを覗かせる
──…厚皮が覆う頑丈な足裏は、熱砂をものともしない。
──…もう、獣の毛も爪もない掌が──…やさしく、少女をたすけた。
「──…つめが、折れたか。」
声に色があるならば。それはきっと深淵な、孔雀石のいろでしょう。
「あの……」
「──…いたむか?」
色に
「……はい。」
◆
少女の、あしの
──ちいさな、ちいさなつめは、いたましく剥がれ──乳色の
おとこは懐に手をやり、せつな、そのするどい眉を顰めた。
──…水袋も、なにも、持ってこなかった。
(……なんと、迂闊な。)
常のかれらしくない失態だった。
◆
──
◆
汚れた少女の傷口。──…折れた爪のあいま、溢れる血にまとわりついた、こまかな硝子のような砂。
──男は、おのれの羽織を脱ぎ、遺跡の折れた柱の上に敷く──…そうして、そこに少女を座らせた。
「──…水を忘れた。」
「はい」
「……傷から砂を洗い落とす。」
「はい」
「……気色わるかろう。」
「いいえ」
「──…許せ。」
「……いいえ。」
おとこは、少女の
──…きずついた、ちいさなあしを、かたい手に取った。
血に濡れた、少女の
砂で汚れたその部位を──…おとこは、やわらかく、口に含む。──…つめを剥がれた、熱く疼く傷跡を……。
いたみに、びくりとほそい脚が揺れる。
なまあたたかく。
ぬるりとした、おとこの
ひそやかに、ていねいに──…纏いついた鋭利な砂を、こそいでゆく──。
──…かたまりかけた血液と、それに濡れて重くなった砂とは──…そうして、とりのぞかれた。
◆
少女の、ちいさなちいさな足の
──そこには、いま、
その布は、かつて──…男の優美な衣の裾であった
「──…いたむか?」
「……いいえ、」
抱き上げられて──…少女は、己の耳からずり落ちかけた
──…うつくしい毒の花。
犬には、とくに、毒だろう。
……もっとも、本性が
(──それとも、どうだろう……)
ほんとうに──いぬのすがたであるときは──…毒となりえるのだろうか。
──…この、屈強な異形の武人が。
(無力なしろい花
(──…
少女は、面白がってくすくす笑う。
◆
「──…すまない。」
「いいえ」
「──こわいか。」
「いいえ、」
「……おそろしかろう。」
「いいえ。」
「──…おぞましかろう。」
──少女は、ふふと笑った。
◆
──たすけてほしいと
──まもってほしいと
──護ってくれた。
──彼女が、
──…
──彼女を、護ってくれた。
──この世にはびこる、にごったものから。
(……にがしてくれた、
──…
──…少女は、
……莫大な金銭によって、その
……それは、紙の上だけの──偽りの生活だ。
◆ ◆ ◆
──…父を看取った、
その
◆
かつて、まだ──…そのおとこが、青年だったころ。
かつて──…まだ、そのむすめが、ほんのおさなごだった
◆
──花のなまえを、こどもは、かれにおしえた。
五月の、みずの
真水に浮かぶ、青や白の睡蓮たち──…それらのなまえを……。
かれに、おしえた。
さきみだれる、
──…かれは、みずのなかを
(──…あのとき。)
そう。かれは、
ひとの
◆
かれの父の死によって、ふたりは、離別した。
──…もはや、出逢うこともないかに思えた。
──…ゆえに。ふたたびの邂逅は、因果であった。
◆
「──…ねえ、チャカさま。」
◆
娘は、
王族の病をいやす、医術師の長──『
それでも、その娘に自由はなかった。
いえは、長年の政争のはてに──…困窮していた。
もはや、まつりごとの舞台から、蹴り落とされる寸前までに。
──…一族が、生き延びるためには、
金が必要だった。
──…強固な、うしろだてが。必要だった。
◆
「──…ねぇ、チャカさま、」
「──わたくしを、
◆
──…その
欲しいと、手をあげた男たちの中から──…もっとも、高い金額を提示した者に──彼女は、渡された。
──…たすけてほしいと、ねがわれて。
◆ ◆ ◆
はてさて。
──…それはまた、かれらの、
◆ ◆ ◆
──おとこの頬に、あかい粉がついていた。
……しらゆりの花粉。
少女の、ほそい、
「──ふふ」
少女は、おとこの頬に、おのれの頬を擦り寄せた。
あかい花粉が、おとこの顔から少女の
「──…チャカさま」
「…………。」
「お慕い申してございます、」
「…………。」
──…それは、
なにも知らないこどものゆめ。
なにも、しらない──…ゆえこそに、
「──…。」
──…かれは、少女の声に応えない。
いつのひか。
教えて。──…
知っているから──…。
◆
沈黙する、おとこの耳介。
その上ざまに挿した──しろく、貞淑な──毒の花。
そのゆりの一輪に、少女はちいさい鼻梁を寄せて。
──…しろい花の芳香を、やわこく吸った……。
おとこのみみに、ないしょ話のように、くちびるを寄せる。
「──…かわいい
少女は。──…ひそやかに、ささめいて。
あたたかな吐息は、かれの耳介を濡らした。
──…くちづけのように。
fin.
あとがき→
【あとがき】
4月26日のチャカ誕用に書いていましたが余裕で間に合わなかったやつです。
構想自体は何年も前からしていたお話だったので、今回こうして形にできてよかったなあと思います。
ふたりの過去やなれそめ、あるいは、婚礼については、いずれ中編かなにかとして形にできたらなあという気持ちです。
◆
ひふについた花粉を、すりつけあう動作が、描写が好きです。なんでかな…。受粉のメタファーだからでしょうか。生殖の暗喩のような気もしますが、もう少しライトで親密な意味のような気もします。(あいまい)
◆
タイトルの『少女蜂《おとめばち》』は 最後のシーンの花粉を擦りあうシーンから(みつばち)のような気もしますし──、
──抵抗しない巨きな獲物を、腹の中からゆっくり、生きながらに食い荒らしてゆく『寄生蜂』の幼虫みたくな意味もあるような気もします。
◆
やたらペルさんに失礼な回になってしまいました。守護神たち本人としてはそんなつもりも争うつもりもなくごく仲良し(仲良し)です。
ただ、かれらの周囲は、未来の軍部の頂点をどちらかが担う──その事実のために、派閥などができてピリピリしているのかなあ。みたいな気持ちもあります。まつりごと…。
◆
でもちいさいこどもに揶揄われて赤面しちゃうペルさん、かわいいよね。(かわいい)という…
ペルさんサイドでお花を同居人にプレゼントする掌編なども書けたらなあとは思っています。渡すと猫対応(…)される。
◆
お読みいただきありがとうございました。
pixiv版もございます。内容はHP版と変わりませんが、pixiv版では縦書き表示が可能です。
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