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──ひさしく見る青だった。
 しゃのきぬを、空にうっすら被せておいて透かしたみたくあいまいな──…、雲がちの日々であったのに。めずらしく晴天だ。ごくほんのり、うす雲が混色される。ねむたいような水色……。
 いまを──訳せば。たぶん、瞬きする間に消えいる春──…。
 かわくか、しとるか、どっちかで。ふたつの季節がきっぱりしているかれらの国に、妥当な語は無いかも知れない。
──いま、暦のころは霧のようにあめ・・の始まり。と乾の狭間。季節と、そう言えるほど長くもない──、ごく一瞬の、あいまいな隙間……。
 庭草は、ふたばや新芽でぴょこぴょこまだらだ。
 もう過ぎた早暁、陽のうぶ声のころ──、かよわい茎のしなうほど、地はいちめんに銀の粒をつけていた。それらの粒も陽のぬくみで跡形ない。この午前、地は程よくかわらぎ、いとけない草むらにはれた色の毛織じゅうたん──…。
「──はて」
 ほわほわとした春のそら。やわらかな陽気のなか、おとこはひとり首をかしげる。──しろい。しろいおとこだ。それなりの長躯の、胸部や胴はたくましい厚みをもつ。
 袖をまくって立っている。
 つね、陽射しに晒す手ゆびの甲も布をまくった前腕ぜんわんも──、かれのそれは研磨された石材とおなじ色。強固な濃さで陽に逆らうその白。はかなさより、なにか、頑なさをひめている……。
「──異なこと・・だ」
 つぶやいて、おとこはちらっと下をみる。わか芽のまだらな地面にひろがるじゅうたんと──、その上にあるものを。
「干したはず……」
 じめんに向けて、おとこは、しんねりと言う。──たくましいその片腕に、蔓あみの籠を抱いている。子どもがすっぽり入るほどの籠からは、まだ湿ってくったりとした衣類がのぞく。山盛りだ。
 おとこはひとりでぽつんと思う──。
──じゅうたんなんか・・・……。
 視線の先には軒下の、すずしそうな日蔭の場所にだらんとひろがる布の一枚。
──なぜ、動いているのか……。
 こんなところに。
 ただ地面にひろげておけば、ぜいたくに全面干しができる風土なのだった。──日なたの、もっとも当たりの強い処にひろげていた筈だった……。
 陽の向きで蔭に入ったわけではない。じゅうたんが、じぶんでかってに何処ぞへ這ったはずもない……。
「絨毯を干したんだ……」
 また、しんねり、おとこが言う。じめんに向かってちくちくと刺すように。抱いた籠を足もとにこっとり置いて──その音こそかろやかだが、山盛りの濡れた衣類でずっしり重たい筈だ──さあひと仕事というふうに、おとこは、捲った袖をもう一段たたみ込む。腰を落として地面の近くに向き直る。じゅうたんの方に顔を寄せ、ひときわ低く声まで下げてささやく──その上にあるものに。
「にんげんを干したつもりはない……」
 れた毛織の敷かれた上に、それ・・は、溶けている。しきものの上に寝っ転がるはとうぜんのことだとばかりに動かない。そのすがたに、かれは──ペルは、野生をわすれた猫をおもう。
 じゅうたんの、かつては五色に織られていたろう幾何模様。いまは、日に焼けほとんど褪せている。その布の上にとろけたそれ・・──、いきものは、糸くずみたくほっそりと目をあけた。目の玉の湿り気が、日蔭のなかで反射して、ほそくひらいたその面積だけまぶたの狭間でちかちかひかる。
「──どいてくれるとうれしいなあ」
 ひとまず、ペルは、そのいきものにわりあいやさしく言ってみる。
「おまえが上にいたのでは、干したことにならんだろう──?」
──いきものの、蟻かなにかの歩幅のようにごくごくわずか開いたまぶた……。おとこの声がおだやかに言い終わるのより先に──、蟻が歩くその音よりもしずかに閉じた。
──きこえなかったふり……。

 連日、季節のあたえる霧によってみやこの空は拭われた。いま、とうめいの大気に、常のように黄ばんだ砂塵は混ざらない。すんだ空気を透過して、かれの目に──ひとがるにはあんまりにもすぐれたそれに──うつるのは、このほわほわと曖昧な、みず色のそら。気の抜けるような色のなか──昼の王のかがやきは、まだ中天に到らない。その強大に燃える天体は、けれど盛夏のそれよりずっとずっとおだやかだ。
 あたかも、そらの色にほだされでもしたような。

──もうしばらく、不安定に雨もよいの日がつづく。
 ついこのあいだの週までは、すなあらしのもっとも酷い月だったし──。それが終わって雨になるのはたいへんにめでたいが。めでたいのだが……。──いずれにせよ……、
 ペルは、ひとり、ものおもう。
──ろくに日干しをできやしない。
 そうして、所帯染みた溜め息をひとつ、ながながとこぼした。
 季節風がやわらかい──…。
 そのりゅうとした上背に、かれは、洗いざらした前掛けをつけている。前掛けのゆるんだ布はやさしげなそよ風を受けはたはた揺れる。──くたびれた前掛けだ。清潔に、少しの皺なく火熨斗ひのしをかけてはあるものの、生地の劣化はどうにもならない。けれどあんがい、ちょうどよいくたびれ・・・・具合なのだった。持ち主のたくましい胸まわりを締めつけすぎることもない。
 くたびれてはいるものの、布生地からただようのは石鹸水とひなたのかおり……。
──堅固な手ゆびの輪郭を、水のつぶが一滴はしる。
 水仕事を終えた両手を、おとこは、片方ずつに布で拭く。硬質な指の表皮は石鹸まじりの真水によって濡れていた。水のつぶは籠に添えたおとこの指からその甲に、甲から手くびに落ちてゆく。そうして、もっと下までつたっていった。──あらわである腕のくびからひじ・・の節──、このおとこの、殆どすべてはしろいのだった。関節の、ちらりとのぞく内のはだとおなじくらい……。
──彩釉陶の柄のよう。膚のおもてに青く透ける血のくだ・・を、石鹸水はとうめいに通過する。ひじまで流れて捲った袖の内部に消えた……。

──深刻な問題だった。
 つね日頃──…。同居人はその布の上に転がりながらものを食う。そしてまたよく屑をこぼす。からりと乾いた常ならまだしも……、いま、一年でもっとも湿度が高い。
 つまりは──…。
──じゅうたんの、毛足が長い繊維に潜っているであろう……、
 おとこはひとり、脳裡のけしきに想いを馳せる。
──無数の、可視できないほどちいさな虫ども……。
 虫がわく前にと──、絨毯を、わか草の上に干していた。
──ひふに乗り、我が物顔で這いまわり、ちくと刺して血を吸う虫ども……。
──あかく、まるく、腫れるはだ・・……。
──しめり気に応援された虫ども……。このおんなの食べこぼしに群れ──、つがっては孵り。じゅうたんの王国で、わらわらえる──…。
 脳裡のけしきにおとこは胃の腑をむかむかさせる。──青紫を刷ったくちの裏面りめんで、並びのよい皓歯こうしの列が石臼のような音を出す──…。
──おぞましい。
 かれは、そうして、冷徹な眼をわか草のあいまへ向けた。視線の先、いつの間にか動いていた布の上──ねむりの欲をすこしも譲らぬいきものは、しごく平和に溶けている……。
 蔦あみの籠をぺしぺし指で弾きつつ──、さあてと、かれは思案する。
──どうしてやろうか……。
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