白瓷
石英砂の乾らぐ海と
喩われる──…。
かような国土のみやこには。──けれど、豊かな真水が湧くのであった。
(──あぁ。
帰ってきた……。)
ひかる砂の
路を過ぎ。
緑泉の
水面に
躍る、とうめいな
葉影のいろを視るたびに──いつだって、ペルはしみじみ、そう想うのだ。
濃青の空の下、
暑熱のなかに
葉叢は蒼い。
──そらの色さえ陽気に想える
愉しい雨季の中頃だ。
昼下がり──。人も、
けものも、みな翠緑の
樹蔭に涼む。
──炎熱の刻だった。
しかしながら、みやこの
路を──ペルは、かろやかに
歩ぶ。
──ひさしぶりの郷土であった。かれと、その同行らにとっては……。
「──うれしそうだな」
かれのすぐ
傍 で、低いおんなの声がした。
ペルがちらりとそちらを向けば──声のあるじはごく微か、吐息だけでほほえんだ。
──…大柄な女人であった。
ペルは、ちょっとだけ口を結んで問い返す。
「……そう視えるか?」
「みえる。──うれしそうだ」
おんなの声が応えた。
──その
女は、
雄勁な腰つきに細く
クルチを
佩いている。
三日めの月のように曲がった鞘に金糸がひかる。
新月刀だ。
「──解るか?」
こたえつつ。──青紫を擦ったくちびるを、 も少しペルは曲げてみた。
あいての方を
ちらと見て──かれは
態々しかめっ
面で言ったのだけれど、
「わかる」
頷く女は、
淡あわと目を
細む。──くちもとへ、微笑のような、ほそい花弁のような影を
薄らと彼女は匂わせる。
──ふしぎにやさしい笑みだった。
あどけないものを視たふうな……
愛しぶような。
ペルはとうとう素直に言った。
「うむ。 ……うれしい──。」
「……そうか」
すずやかに応えた女の、しずかな
目許の端っこにも──隠し得ない
わらい皺が現れた。
「──そうだろうなあ……」
──
戦跡でもある
みやこの
路は、ひかりのあわいに
微睡むようだ。
──
弾痕の
おうとつを、漆喰で埋めなおされた商家の
軒先。 茶色い
斑の野良犬が、のんびりと横たう……。
戦塵の
翳りは、もはや何をも覆いはしない……、
──…
否や。
ならびたつ
邸々の、その
門扉──。
幾何模様の魔除けが、あざやかに塗られたそこに、しろい喪章が揺れている。
あれから、二年を経たが──…。いまだ、街々の至る所で、
とびらに掲げる
弔い布が外されることはない。
──…それらは、すべて、
あのころに身内を亡くした『だれか』の
邸だ……。
◆
時は、留まることなく流れゆく──…。
──きょう。かれらの、長いながい
世界会議からの旅路が、終わった……。
◆
青く刷られた、くちびるのあいまから──ペルは
皓歯を覗かせる。
──はにかむような
微笑みだ。
「帰ってきたなあ……」
かれのしろい
面ざしに、澄んだみどりの葉影が落ちる。
ごく純に、よろこびが滲みでる──なつのひかりが差した
貌。
「ペル。……おまえが、うれしそうにしていると──何やら、私も気がはずむ」
「……そうか?」
「……そうとも。」
──
樹蔭やさしき昼下がり。
微睡むような──しずけさだ。
ほきょ、ほきょ、と──蝉ばかりが
翅をふるわせ歌うたい、その生を嬉しぶ──。
「──そのまま、うれしそうにしていろ」
「うむ……。」
◆
主要港から大河を
遡行し、陸路を経たのち、王都へ──。 そうして、王の
みやから、職務を終えておのれの
邸へ……。
──いまの時は心も浮きたつ帰りみち。
「長旅だったから。 ペル──…おまえの祝いが遅れてしまった。 ──なにか、うまいものでも食おうか。」
「そうだなあ──、何にしよう……」
「どうせ、
とりの肉だろ。」
「あ、いいな」
「──とも
喰い」
「うるさい……」
「はは。──好きなものを食えよ」
──そらの色さえ陽気に想える
愉しい雨季の中頃だ。
かれらは足どり軽やかに、ふたりの
棲みかへ並んで
歩ぶ──。
新調された、よそゆきの被服の下に──…消えない“肉の傷”を隠して……。
◆
「──帰ろうか」
「うん。 帰ろう──…」
◆
おんなの歩調と拍子を同じに、澄んだ音がカリンと鳴った。
──…硝子が石を
食むような。
◆
彼女は、ほのかに脚を引いている──。
若く、頑丈な女人の体躯……。その片手に、
黒金と象牙の杖を携え──。
ペルのだいじな
つれあいは、
──きょう、礼装用の、
陶器の “あし” を履いていた。
──…ペルは女を
凝と見る。
彼女の右の目の玉に、夏のひかりがチカと差す……。
「──あ。」
蝉の
音に──…かれのちいさな呟きが、ぽとりと垂れ落ちた……。
──女の、みぎの
側の虹彩
だけが……、片側とは
ちぐはぐに、きみょうに下を向いている。
「ん?」
女は二、三またたいて、
「……あぁ」
原因を悟ると──…ほのかに
頬を背けた。
──つれあう男の視線から、その顔の、右側ばかりを隠すため──。
「……すまんな。」
おんなの低い
声いろに、
幽かな
苦味が
雑ざる……。
「──なおしてやるよ」
……男の声は平坦だ。
──…ふたりは
樹蔭に立ち
止る。
昼ひなかの往来に、暑さを
厭うて人のすがたは稀である。
女の、くびれた顎にゆびを触れ──背いた
貌を、ペルはしずかに自分へ向けた。
──つれあいの、きれいな色の虹彩は……、
眇のように
ずれている。
おとこの
黒檀いろの
睛が、じっと、みている──おんなの薄いくちびるに、あえかな痛みが
匂った……。
「……見苦しかろ」
囁いて──彼女は、また、ただ吐息の音だけで微笑する。
──…波間に消え入る泡のよう。おんなが視せた苦痛のいろは、すぐ、
舞面みたく平らな
表情に隠された……。
「…………」
かれは──なんの音も返さない。
──懐に手を遣って、
薬壜を取りだした。
──褐色の、ごくちいさい壜だった。綿布の上に傾けて、湿らせる。
硬質な手を拭き
浄め──
──ペルは、ひとさし指を女の目玉に
つと触れて、
つぶやいた。
「おまえは、きれいだよ。」
──いとしい女の右の目は、薄い硝子で出来ていた。
◆
ペルの白いゆびさきが、おんなの無機な
しろめに触れる。
──裸眼であれば耐え難い、おおきな異物の侵入に──しかし、硝子の
めだまは応えない。
紅に血ばしることも無く。肉体の拒絶によって、とうめいに潤むことも無く──。
「痛むか……?」
「──…いいや。」
その
女は年を増し──…
仄かな目尻の
翳さえも、なおのこと匂やかだ。
その翳に、女は、
青灰色の
諦念を滲ませる……。
かれの指の
為すがまま。あおく、透き通った血管を透かす女のまぶたは、抗わずにひらき続けた……。
──角膜を模す水晶硝子。
──しろやかな素地の場所。
──そこに浮く、
淡あわとした血の
くだも、硝子で
描かれたものだった。
──瞳孔の深淵は、ふかみのある
黒色。
──虹彩の、ふくざつな模様は──何種もの色硝子で
精緻な細工をされている。 あたかも、金彫のような──…。
……
工匠にペルが命じて造らせた。
この、貝殻みたく薄い“
硝子”は──その
女の窪んだ眼窩へ、いちばんさいしょに彼が贈ったものだった……。
かつての姿をみごとに写したその右眼──…
「……ペル、」
「気にするな。 ずれてくるのは当然だ──肉に着いていないのだから──…」
──…けれど、所詮、模造品だった。
じょうずに使えず済まないと……ちいさく、つぶやいた──いつもと同じ女の声を、かれはしずかに遮断する。
「よく似合う──」
「…………」
うつおな場所を、きれいな硝子で埋めようと──かつてのそれは戻らない。
損なわれた部分を、たとい、
均せても──真実、みたすことは叶わない。
おんなの、
しなうように
雄強だった両の
あし──
つぶれてしまった片側の肺臓を抜いた跡──
その、骨と肉とを絶たれた場所の、収縮した傷跡と。
片側の
胸乳を
刳り、縫い縮めたその場所と。
それらの“痕跡”に──今まで、ペルが幾度しろい頬を
擦ろうとも……。
(
失せ
ものは──…)
(──みたせない。)
◆
──いちばんはじめ。かれは、剥き出した女の眼窩に“硝子”で触れた……。
──…ついで、青紫を刷ったくちびるを。
──それから……、
◆
──
よるの
度。硝子を外した“
孔”を隠し「みるな」と静かなこえで言う──おんなの
目許のくらやみに、
夜ごと、あかい舌を這わせても──…そうやって、
その欠落を彼がどれほど
慰撫しても──。
──みたせない。
どのようなすがたでも──変わらずに
いとしいと。
──そう、示しても……。
(──
失せ
ものを、
みたしてやれたことはない……。)
ペルは、しずかに、女の目玉の『向き』を直す──。
◆
ふたりは、なかよく歩ぶ。盛夏の
路を……。
◆
──おんなは、
強化陶の白い
義肢を両
あしの代わりとし。それでは足らずに杖を持ち──。
うつおな肉の
孔となる眼窩に硝子を
象嵌し、
片側だけの肺臓で、絶えること無き息づかいを繰り返し……。
◆
──おとこは、
肉体の大部を抉る、巨大な傷を身に負って──。
よるの
度、あめの
度にくりかえす、肉の遺症のくるしみを──その骨深くに
刻する。
きっと、その
いのちが終わる時まで……。
生涯、そのいたみを抱える──。
◆
ほきょ、ほきょ……と。
盛夏の
路に蝉は鳴く。
──そらの色さえ陽気に想える
愉しい雨季の中頃だ。
◆
──
白瓷の
あし。 いろ硝子の
めだま。
──抉り取られた肉。
鉄接ぎの骨……。
陶人形の、不完全な
つがいのように──…ふたりは、それでも、
歩ぶ──。
白瓷【白瓷】
素地がしろく釉薬が透明で、高温で焼いた磁器。白磁。おまけ→