すいそう
おだやかな水底を想う。
まぼろしのように──…。
──…あおくひかる、塩の水の只中。とうめいに澄む真水の
底まで潜ってさかなを突くのが得手だった。
「……漁民を見まねた」
──褐色のうで。みなもを
……追憶だ。もはや躰は、あの青の景色の、どこにもゆけはしない。
──乳白の、ほのかな虹いろ……。
在りし日、みなもを透かした陽光に、銛の刃先は真珠のようにひかっていた。鋭利に削った貝の
──…河床は、かすかな
戻れない過去。やさしい真水にひたされて、若い、褐色のおとこ。 かつてのすがた──…追憶のわかものは、銛を掴んだその片手を振りかぶる。濃い茶に
──ほのあかるい河の底。うねる、水のあいまを──
──さかなの、なめらかにしろい腹。……この世のどんなものよりやわこく、よわいものであるかに思えた。
──木部がしなる。貝の刃の、研磨された真珠層は七つの色のひかりをおびる。流星のように過ぎる。
──刃は、向こうがわに突き抜けた──…さかなの腹をたやすく破り。
思い出す。──土のうえの、あらゆる
◆
──
四肢にちからが入らない。──…能力者の宿病だ。半身浴でも充分こたえる……。
あたりを満たす
──…水底に座している。
視線と陸とが同じ高さだ。浴槽は、陶磁の床が楕円形に窪んだ掘抜き。楕円の有するいちばん長い直径は、
──唐突に水の音。
ざばざばと、湯水のしぶきが顔に降る。
「………、」
くちの端が下方に曲がる。──本日、既に何度も
……濡れた顔を片手の皮でぐいと拭く。ちらりと見れば、みなもの下にさかなのように揺れる影──…。
「……まだやるのか」
──言ったところで返事はぶくぶく泡のおと……。
どのような色もない──…、とうめいの真水は、水底の
陶に塗られた釉薬は、深い藍──。
その
──ちち色の生きものが、だんだんみなもに浮上する……。
もの凄まじい水音。──みじかい首が、のびあがる。──ぶう、ぐう。息継ぎの音が亀に似ていた。ふやけつつあるちいさな両手がぺたんと槽の縁を取る。ひざ裏の、ひときわ
──浮いては沈む。すこしの落ちつきもない……。
「まだやるのか……」
ぶくぶくぶく。返事はやっぱり泡のおと。
◆
──…
王が有する白亜のみや、その広壮な湯殿とは、ひき比べるもおこがましい──…。それでも、真水のとぼしい邦国に於いては、たいそうな
──自邸のこれに湯を入れたのは、いつぶりだったか。
そもそもが、降雨のころしか使えないものだから。いつも、流し場で壺から水を浴びる程度で、槽の方はろくに使わずほこりまみれであったのだ。それを──めざとく見つけたちいさな奥に、
──そう。
乾いたきせつに、やってきた──このちいさな生きものと、
──…しかしながら、
「チャカさま、あんよが邪魔です」
「──…すまん」
湯煎されたびん詰めの心地である。
──こざかなにとっては、のびやかな池であるらしい……。
少女の、未発達の関節は、ぐにゃぐにゃと上がったり、さがったり──せわしなく繰り返す。ひとの顔に湯水の飛沫をぶつけつつ……。
──それにしてもへたくそだ。
力みすぎて沈む。沈むたび、尻たぶから浮きあがる。まるまるとしている。
──…あぶらは、たしかに水より軽い……。
からだの方まで浮きあがったら疲れも知らずにまた
からだも脚も、か弱いような太さであるのに、そのばたつきが中々にちからづよい。──…元気すぎる。──かげんを知らない。
打たれたみなもはとうぜん跳ねて、あるいはうねり、こちらの顔にあらしの夜の
──…やめなさい。言いかけて、にんげんで
ぶぜんとして口を閉ざした。
──ちいさな躰はのびのびと手あしをひろげて浮き沈み。
──追いやられた巨体のほうは抱え膝で波浪に耐える。
この大な躰であっても、どうにか脚は伸ばせた筈だが……。あばれまわる
◆
──ざばあっ、
ふたたびの高潮。
利き手の
──水気は、それでも、厚皮のかたく凝った深部にまでは到達しない……。
さて。──ややあって、くだんの
──それでもやっぱりあついのか。
ふたふたと、ゆであがったちいさな躰は湯から縁に這い出した。尻たぶを、陸地の上にぺっとりつけて、足先だけで水のおもてをぱしゃぱしゃする。恥じらいもなにもなく、つるりとした躰の前部をむじゃきに晒す。
──膚のいろがちいさな躰のたかい温度をうつし出す。少女をつくる
すべすべした糖衣が掛かる、ひとくち大の焼き菓子みたく──…ちいさなつまさき、ほそい
──体温のためか。常よりも、ちいさな躰の呼吸がはやい。
膚に耳でも寄せたなら。──聴こえるそれは、ねずみかなにかの心音みたく、せわしかろう。
◆
……馴染むことは到底できない感触だ。
肉の内部に張りめぐった神経が──…
背ばしらを引き抜かれた空洞に──…ぬるい、水薬を
──…この、たいそう
「──…もう、上がっていいか」
聞くたびに、
「だめですー」
かわいいこえでわりあい酷なこたえをくれる。
浴槽の湯の量と、躰の積との関係で、こちらが水から上がってしまうと湯船としての意味をなさない。──水位が下がり過ぎるのだ。
要するに──この
──…少女のほうは、しばらく涼んですっかり元気になったらしい。扉向こう──
さっき、のみかけを、ひとくちだけ貰った。──濃度の高い発酵乳に蜜と塩とを溶いたのを、氷で薄めたみずだった。
……すこしだけ、酸いくだものの味がした。じぶんの、ちろりと舐めたくちびるに──…柑橘のにおいが残る。
──ひと心地ついたのか。
陸地から、ぽちゃんと落ちて水のなか──乳白の生きものが、ふたたび膝に降りてくる。
──…概ね、体臭とは、たべた食事に影響される。いま、少女は、乳と蜜と檸檬のかおりの汗をかく。
よいかおりの生きものは──、足ゆびで、水面を
よいかおりの、
少女は、水に浸けられぐんなりと弱った巨体をながめては──…よろこぶ。なにをしようが無抵抗であることを、面白がってくすくすわらう。ひとの臍だの脇腹だのを、みじかい指でつついたり、くすぐったり……。
──…たしなめる、その気力も湧かない。
少女のまるこい目の玉に、いま、眼前のおとこは、褐色のめずらしい動物としてうつるらしい……。はじめはたいそう心配してくれたのに──…。水の虚脱が、なんの害も無いものだと解ってからは、すっかり玩具にされている。
──…されるがまま、槽の縁に頭を乗せかけ、天井にこもった湯気を仰ぐのだった。
──古びた
そのうえに描かれた、優美に絡む蔦の意匠の幾何模様は、おおかた剥がれかけている。
──
──けれども。整然と並ぶ深い深い
隙間なく貼り合わされた陶磁の板の色調は、遠浅の海に似る。──…その、底のほうにいるような。
本質は似ても似つかない。あれが無限の水ならば、これは、
──意識は、ふいに、湯水の中に引き戻された。
水底に組むこの両脚──ふとく、硬い腿──その褐色の表皮が、一部分、ぴりと引き攣れ微かに痛む。
原因は──ちいさくやわこい足のうら。
あろうことか……、この生きものは、ひとの腿を踏みつけにして立ち上がったのだ。
──…ただでさえ軽い。水の浮力に
──すぐそばで、少女のまるこい目の玉が、糸みたくに
ほんの、時たまに──、この子どもがちらりとみせる
──いまだ、乳臭い、寸足らずの小娘。
だのに──…、
──まるで、
いっしゅん
──むじゃきな……。無垢の……。
──…けれど、
そのあと並んだ文字の矛盾に失笑した。……つづきは、音なき音にも、なりはせず。
──馬鹿馬鹿しい。まだ、おんなにすらならない子どもだ……。
◆
(──…ああ、気がついた。)
目の高さが近くなる。──このために、じぶんの腿は踏み台あつかいされたらしい。
──みみもとに、くすくすと無邪気で酷な子どもの声。うれしそうに少女は、また、わらう。
あいての、ちいさな指が、対する巨体のあたまに届く。──濡れた髪を触られる。頬に貼りつく黒髪は、すくい取られて耳のうら──。
……ひとの
──くりかえす。頬から耳を、くるりと撫でてくる──その手つきはやわらかい。くすぐられた心地になる。……こそばゆい。
知らず、くちの端は
反射のように眉間が
──…それを少女の二本のゆびが、きゅ、と持ちあげ修正した。
「───…」
口角は、ゆるやかに、あわく上向く夜空の月のほそいかたちに戻される。
「わらいづき」
そう言って、少女の顔はやわこく笑う。──…ふと。景色が、
藍色の夜。天上の
『わらい月!』
そう呼んだ。その、そこなわれた形を──ほほえむような三日月と。
よるを視るその顔だちに、ふしぎな喜びをみせて。──いつも、少女は、欠落した月を呼ぶ。
『だんなさまに似ているわ』
──…なんだか、
踏まれたもんくを言う気力も──、ぬるまってきた湯水のなかに溶けてしまって──…。まあ、いいかと思ったあたりで、
ばしゃっ、
また顔に湯をかけられた。
(奇妙なことだ……。)
ふと、ふしぎな心地がした。
──かつて……、蒼く咲く睡蓮のあいまで。このちいさな娘に泳ぎをおしえたのは、おのれであった。いまより、尚更、あやうげな大きさだったその乳白のいきものに──。
(10年──…、)
(──…いや、もう少し前……、)
あのころ──…。じぶんの、この躰は真水に浮いた。きらめくみなもをゆけた。水に棲む、しなやかな
──ふしぎなことであるように、思える。
──ふしぎなことだった。
異形を、この世に、ひとの
──…我が身に、受け容れた。
すべては過去のこと。──この躰も同じように青い水に疎まれた。
黒い毛なみの四つあしでゆけるのは、
──かつてとらえた河床のさかなたち。声も持たない、さけびもしない、しろい腹のさかなたち。
──いまのわたしは、あれらより。ずっと……。
(……ああ、それなら──、)
つまり。
つまり……。
この藍色の水槽。ぬくめられた真水のなか──。
いま、おのれは、このこどもより
(この、ちいさな──…)
泳ぎつかれたのか。──それは、膝の上でうとうとしている。ほのあかくなったちち色の、ふやけかけたそのいきものを抱えつつ、とりとめもなく考える。
(──そうして、たぶん……。)
たぶん。──
いま──…。……この、海中に似る藍の
──少女は、のびやかに泳いだ。
──泳ぎ続けようとした。
さっき、ちち色の
(あぁ──、)
──このなにかひどく真っすぐで、ちいさく、もろいが……。たいそう
(──…おそろしい
あの心地を近しく想う。 ──青の水の只中で──あらがえず、
──…よるが来るそのたびの、濁りなき共寝のひととき──…。おさなく、ほそやかな両腕が、
……
たぶん……。
たぶん、わたしは──…。
そう。──我が身を厭う、海のみずに沈んでゆくまでもなく。
──…ふしぎなことだった。
おそろしいくらいに。
↓
(スクロールであとがき)
去年の冬至にやろうとしてだめで、今春のチャカ誕にやろうとしてだめで、夏季SSにして完成させようとし間に合わず、一周して今年の冬至に終わったやつ です……。
冬至要素……。……。……おへやが……暗いのと……(※日照時間)、お風呂……と……、なんか……、柑橘の……、かお…り……?(苦しいこじつけ)
ほぼニポン基準の冬至要素……。
背景に書き足す時間も余力もなかったのですが、おうちのおそと、みやこの路では賑やかに きらびやかに冬至祭がはじまってる。という設定……。風に流れた太陽讃歌が掠れたように時折きこえる……。
そのあたりはまたいつか、なにかの短編の背景にでも リベンジします……。
(スクロールであとがき)
去年の冬至にやろうとしてだめで、今春のチャカ誕にやろうとしてだめで、夏季SSにして完成させようとし間に合わず、一周して今年の冬至に終わったやつ です……。
冬至要素……。……。……おへやが……暗いのと……(※日照時間)、お風呂……と……、なんか……、柑橘の……、かお…り……?(苦しいこじつけ)
ほぼニポン基準の冬至要素……。
背景に書き足す時間も余力もなかったのですが、おうちのおそと、みやこの路では賑やかに きらびやかに冬至祭がはじまってる。という設定……。風に流れた太陽讃歌が掠れたように時折きこえる……。
そのあたりはまたいつか、なにかの短編の背景にでも リベンジします……。