すいそう

 藍の壁。蒸気に濡れた陶片タイルの羅列を、ぼうとして、見ていた。
 おだやかな水底を想う。
 まぼろしのように──…。
──…あおくひかる、塩の水の只中。とうめいに澄む真水の河床かわどこ。──かつては、あの無限の水を自然じねんにゆけた。
 底まで潜ってさかなを突くのが得手だった。
「……漁民を見まねた」
──褐色のうで。みなもをわかち、ひれのようになめらかに、滑る……。
……追憶だ。もはや躰は、あの青の景色の、どこにもゆけはしない。
──乳白の、ほのかな虹いろ……。
 在りし日、みなもを透かした陽光に、銛の刃先は真珠のようにひかっていた。鋭利に削った貝のだった。
──…河床は、かすかな光芒こうぼうを纏う。
 戻れない過去。やさしい真水にひたされて、若い、褐色のおとこ。 かつてのすがた──…追憶のわかものは、銛を掴んだその片手を振りかぶる。濃い茶にけた上膊じょうはくの、厚い筋が、引き絞られてゆく。
──ほのあかるい河の底。うねる、水のあいまを──つかと刃は、いかずちの如く翔ぶのだ。
──さかなの、なめらかにしろい腹。……この世のどんなものよりやわこく、よわいものであるかに思えた。
──木部がしなる。貝の刃の、研磨された真珠層は七つの色のひかりをおびる。流星のように過ぎる。
──刃は、向こうがわに突き抜けた──…さかなの腹をたやすく破り。
 思い出す。──土のうえの、あらゆるけもの・・・と異なって──…さかなは、叫ぶ声を持たなかった……。

──晶燈ランプのあかりが揺れる。
 四肢にちからが入らない。──…能力者の宿病だ。半身浴でも充分こたえる……。
 あたりを満たすいきれたもや。──密室に篭る温度としめり気は、むなぐるしいほど。呼吸のたび──それは、躰の内まで這入はいり込む……。
──…水底に座している。
 視線と陸とが同じ高さだ。浴槽は、陶磁の床が楕円形に窪んだ掘抜き。楕円の有するいちばん長い直径は、なり・・の大きいじぶんの脚がどうにか伸びて座れるくらい。──…自邸のものだ。溢れるほどに熱い真水で満ちている──…。
──唐突に水の音。
 ざばざばと、湯水のしぶきが顔に降る。
「………、」
 くちの端が下方に曲がる。──本日、既に何度もこうむった・・・・・水害だ。
……濡れた顔を片手の皮でぐいと拭く。ちらりと見れば、みなもの下にさかなのように揺れる影──…。
「……まだやるのか」
──言ったところで返事はぶくぶく泡のおと……。
 どのような色もない──…、とうめいの真水は、水底の陶板タイルを透過し染まったみたく目にうつる。
 陶に塗られた釉薬は、深い藍──。
 そのこまやかな湯のなかに、とろりと乳を流したような、しろい線──、水の下にはそれと見まがう二本あし。
──ちち色の生きものが、だんだんみなもに浮上する……。
 もの凄まじい水音。──みじかい首が、のびあがる。──ぶう、ぐう。息継ぎの音が亀に似ていた。ふやけつつあるちいさな両手がぺたんと槽の縁を取る。ひざ裏の、ひときわやわ・・なくぼみの色がみなもを別ける。それは交互にばたついて、ばしゃばしゃ水をはね散らす──…。
──浮いては沈む。すこしの落ちつきもない……。
「まだやるのか……」
 ぶくぶくぶく。返事はやっぱり泡のおと。

──…狭隘きょうあいな浴室だ。
 王が有する白亜のみや、その広壮な湯殿とは、ひき比べるもおこがましい──…。それでも、真水のとぼしい邦国に於いては、たいそうな奢侈しゃし品であることに変わりはないが……。
──自邸のこれに湯を入れたのは、いつぶりだったか。
 そもそもが、降雨のころしか使えないものだから。いつも、流し場で壺から水を浴びる程度で、槽の方はろくに使わずほこりまみれであったのだ。それを──めざとく見つけたちいさな奥に、強請ねだられた。命ぜられ、庭の井戸から行きつ帰りつ水搬び。──壊れた喞筒ポンプの代役だ。前々からの約束ごとであったから、まあ、いい……。
──そう。
 はじめ・・・の日にした約束だった。
 乾いたきせつに、やってきた──このちいさな生きものと、いえで迎えるはじめての雨季だった。
──…しかしながら、
「チャカさま、あんよが邪魔です」
「──…すまん」
 湯煎されたびん詰めの心地である。
──こざかなにとっては、のびやかな池であるらしい……。
 少女の、未発達の関節は、ぐにゃぐにゃと上がったり、さがったり──せわしなく繰り返す。ひとの顔に湯水の飛沫をぶつけつつ……。
 あれ・・は──泳いでいるつもりらしいが、そもそも槽の広さがない。定員は、大の男がひとり入って既にじゅうぶんぎりぎりだ。このちち色のいきものは、その、ぎりぎり、をすこしも関知しないらしい。泳ぐほどの広さがないのでただ定点でじたばた・・・・している。
──それにしてもへたくそだ。
 力みすぎて沈む。沈むたび、尻たぶから浮きあがる。まるまるとしている。
──…あぶらは、たしかに水より軽い……。
 からだの方まで浮きあがったら疲れも知らずにまたじたばた・・・・。ちち色の両あしは、飽くことなく水を打つ。
 からだも脚も、か弱いような太さであるのに、そのばたつきが中々にちからづよい。──…元気すぎる。──かげんを知らない。
 打たれたみなもはとうぜん跳ねて、あるいはうねり、こちらの顔にあらしの夜の波濤はとうのごとく押し寄せる。まばたきが遅れると、目の玉にざっぶとかかる。ころあい悪く呼吸をすれば、鼻腔にまで浸水してきて粘膜がつんとする。
──…やめなさい。言いかけて、にんげんでだし・・をとった湯水をのみ込む羽目になる。
 ぶぜんとして口を閉ざした。
──ちいさな躰はのびのびと手あしをひろげて浮き沈み。
──追いやられた巨体のほうは抱え膝で波浪に耐える。
 この大な躰であっても、どうにか脚は伸ばせた筈だが……。あばれまわるたれかのおかげでたいへんに窮屈だ。
 ◆
──ざばあっ、
 ふたたびの高潮。
 利き手のひら・・で、また顔をぬぐう。──ひらを覆った厚皮は、陽にけた甲のそれより褐色が大分うすい。普段、凝固した松脂みたいに硬度をもつ指先が、いま、ほんのりとふやけていた。
──水気は、それでも、厚皮のかたく凝った深部にまでは到達しない……。
 さて。──ややあって、くだんのちび・・な魚もどきは、泳ぎ疲れてひとの膝に座り込む。──熱い湯で暴れまわったものだから……。いま、ちち色の躰の温度は浴槽のなかと大差ない。ゆだるほどに思われる。寸足らずの少女にとっては大人の腿に座ったほうが、高さのあるぶん顎から下が外に出て、水底に座るよりも幾らか涼しいようだった。
──それでもやっぱりあついのか。
 ふたふたと、ゆであがったちいさな躰は湯から縁に這い出した。尻たぶを、陸地の上にぺっとりつけて、足先だけで水のおもてをぱしゃぱしゃする。恥じらいもなにもなく、つるりとした躰の前部をむじゃきに晒す。
──膚のいろがちいさな躰のたかい温度をうつし出す。少女をつくるこまい・・・部品のすべてがあかく染んでいる。
 すべすべした糖衣が掛かる、ひとくち大の焼き菓子みたく──…ちいさなつまさき、ほそいすね。ふくよかなももや臍まわり。骨がちなあばらから、鎖骨に貼りつく皮の色。みじかい首、頬、まぶた、まろやかな耳介に至るまで──…。ちち色の皮膚は、かんたんに血の気の色を透過してしまうのだ。
──体温のためか。常よりも、ちいさな躰の呼吸がはやい。
 膚に耳でも寄せたなら。──聴こえるそれは、ねずみかなにかの心音みたく、せわしかろう。

……馴染むことは到底できない感触だ。
 肉の内部に張りめぐった神経が──…乳酪バターみたくにどろどろ溶けてゆくような。
 背ばしらを引き抜かれた空洞に──…ぬるい、水薬をたされるような。
──…この、たいそうかたき真水の弊害。著しい虚脱とは、疲弊の心地に少し似る……。
「──…もう、上がっていいか」
 聞くたびに、
「だめですー」
 かわいいこえでわりあい酷なこたえをくれる。
 浴槽の湯の量と、躰の積との関係で、こちらが水から上がってしまうと湯船としての意味をなさない。──水位が下がり過ぎるのだ。
 要するに──このこざかな・・・・が満足するまで水漬みづけにされているしかない。
──…少女のほうは、しばらく涼んですっかり元気になったらしい。扉向こう──乳色硝子ミルクガラスの水差しにみたしておいた飲みものを、たっぷり摂ったからだろう。
 さっき、のみかけを、ひとくちだけ貰った。──濃度の高い発酵乳に蜜と塩とを溶いたのを、氷で薄めたみずだった。
……すこしだけ、酸いくだものの味がした。じぶんの、ちろりと舐めたくちびるに──…柑橘のにおいが残る。
──ひと心地ついたのか。
 陸地から、ぽちゃんと落ちて水のなか──乳白の生きものが、ふたたび膝に降りてくる。
──…概ね、体臭とは、たべた食事に影響される。いま、少女は、乳と蜜と檸檬のかおりの汗をかく。
 よいかおりの生きものは──、足ゆびで、水面をつま・・弾くだけのあそびには、すっかり飽きたと見える。今度はふやけた、ちいさな手で──ひとの鼻をつまんだり、引っ張ったりしておもちゃにする。──…やめなさい。言ってもやめない。つままれたせいで、こちらは鼻声になる。
 よいかおりの、これ・・は、ちいさな──…残酷な、いきものだ。
 少女は、水に浸けられぐんなりと弱った巨体をながめては──…よろこぶ。なにをしようが無抵抗であることを、面白がってくすくすわらう。ひとの臍だの脇腹だのを、みじかい指でつついたり、くすぐったり……。
──…たしなめる、その気力も湧かない。
 少女のまるこい目の玉に、いま、眼前のおとこは、褐色のめずらしい動物としてうつるらしい……。はじめはたいそう心配してくれたのに──…。水の虚脱が、なんの害も無いものだと解ってからは、すっかり玩具にされている。
──…されるがまま、槽の縁に頭を乗せかけ、天井にこもった湯気を仰ぐのだった。
──古びた陶板タイルの壁と床。
 そのうえに描かれた、優美に絡む蔦の意匠の幾何模様は、おおかた剥がれかけている。
──鍍金ときんであろうか。随分と昔のものであるらしい──…。かつては黄金こがねの図画であったろうものが……、剥げていない無事な部分も酸化して、くろずんでいる。
──けれども。整然と並ぶ深い深い青藍せいらんは、そのままだ。
 隙間なく貼り合わされた陶磁の板の色調は、遠浅の海に似る。──…その、底のほうにいるような。
 本質は似ても似つかない。あれが無限の水ならば、これは、はこだ。──匣のなかの、矮小な甕。ろくに中身のない水槽……。
──意識は、ふいに、湯水の中に引き戻された。
 水底に組むこの両脚──ふとく、硬い腿──その褐色の表皮が、一部分、ぴりと引き攣れ微かに痛む。
 原因は──ちいさくやわこい足のうら。
 あろうことか……、この生きものは、ひとの腿を踏みつけにして立ち上がったのだ。
──…ただでさえ軽い。水の浮力にたすけられ、それは、どれほどの重さもありはしなかったが──…さすがに苦情を言うつもりであたまを起こす。
──すぐそばで、少女のまるこい目の玉が、糸みたくにすう・・と細まる。
 ほんの、時たまに──、この子どもがちらりとみせるかおだった。──…こんな・・・目を、する。
──いまだ、乳臭い、寸足らずの小娘。
 だのに──…、
──まるで、
 いっしゅん脳裡のうりに去来した、つづきのことばに当惑する。
──むじゃきな……。無垢の……。
──…けれど、
 そのあと並んだ文字の矛盾に失笑した。……つづきは、音なき音にも、なりはせず。
──馬鹿馬鹿しい。まだ、おんなにすらならない子どもだ……。

(──…ああ、気がついた。)
 目の高さが近くなる。──このために、じぶんの腿は踏み台あつかいされたらしい。
──みみもとに、くすくすと無邪気で酷な子どもの声。うれしそうに少女は、また、わらう。
 あいての、ちいさな指が、対する巨体のあたまに届く。──濡れた髪を触られる。頬に貼りつく黒髪は、すくい取られて耳のうら──。
……ひとのあし・・をぞんざいに、踏み台代わりにするくせに──…。
──くりかえす。頬から耳を、くるりと撫でてくる──その手つきはやわらかい。くすぐられた心地になる。……こそばゆい。
 知らず、くちの端はしのぐかたちで下を向く。──…それは、いつだって。何らの心理に関わらず……。
 反射のように眉間がしわぶ。歯の根の上下は貝みたく、偏屈に噛みあわさる。
──…それを少女の二本のゆびが、きゅ、と持ちあげ修正した。
「───…」
 口角は、ゆるやかに、あわく上向く夜空の月のほそいかたちに戻される。
「わらいづき」
 そう言って、少女の顔はやわこく笑う。──…ふと。景色が、脳裡のうりをはしった。
 藍色の夜。天上のけがめぐるたび、この、みじかいゆび・・は遥か上──夜の、欠けた光を指し示し、
『わらい月!』
 そう呼んだ。その、そこなわれた形を──ほほえむような三日月と。
 よるを視るその顔だちに、ふしぎな喜びをみせて。──いつも、少女は、欠落した月を呼ぶ。
『だんなさまに似ているわ』
──…なんだか、
 踏まれたもんくを言う気力も──、ぬるまってきた湯水のなかに溶けてしまって──…。まあ、いいかと思ったあたりで、
 ばしゃっ、
 また顔に湯をかけられた。

-suisou-

(奇妙なことだ……。)
 ふと、ふしぎな心地がした。
──かつて……、蒼く咲く睡蓮のあいまで。このちいさな娘に泳ぎをおしえたのは、おのれであった。いまより、尚更、あやうげな大きさだったその乳白のいきものに──。
(10年──…、)
(──…いや、もう少し前……、)
 あのころ──…。じぶんの、この躰は真水に浮いた。きらめくみなもをゆけた。水に棲む、しなやかなけもの・・・のように疾く、雄強に……、河床かわどこのながれをゆけた──…。
──ふしぎなことであるように、思える。
──ふしぎなことだった。
 異形を、この世に、ひとのにく・・に産みつける──そのくだもの・・・・を、海は、厭う。寄生蜂と似かようそれを、
──…我が身に、受け容れた。
 すべては過去のこと。──この躰も同じように青い水に疎まれた。
 黒い毛なみの四つあしでゆけるのは、唯一 砂土さどのうえ──…。
──かつてとらえた河床のさかなたち。声も持たない、さけびもしない、しろい腹のさかなたち。
──いまのわたしは、あれらより。ずっと……。
(……ああ、それなら──、)
 つまり。
 つまり……。
 この藍色の水槽。ぬくめられた真水のなか──。
 いま、おのれは、このこどもより無力なもの・・・・・でありうるのか。
(この、ちいさな──…)
 泳ぎつかれたのか。──それは、膝の上でうとうとしている。ほのあかくなったちち色の、ふやけかけたそのいきものを抱えつつ、とりとめもなく考える。
(──そうして、たぶん……。)
 たぶん。──これ・・は、水のなかに限らぬことであろうとも、思えた。
 いま──…。……この、海中に似る藍の囲い のうちがわで、少女の躰はさかなのしろい腹よりやわこく、もろくえる。
──少女は、のびやかに泳いだ。
──泳ぎ続けようとした。
 さっき、ちち色のあし・・は、ただ水を打つばかりだったのだ。どんなに水を蹴ったところで、水槽とおなじ、この閉じたみなもが何処につながる訳でもないのに。進むことも戻ることもできないのに。
(あぁ──、)
──このなにかひどく真っすぐで、ちいさく、もろいが……。たいそうこわい・・・生きものを、見やった。
(──…おそろしいいきもの・・・・。)
 あの心地を近しく想う。 ──青の水の只中で──あらがえず、茫漠ぼうばくと、肺臓から絞りだされたあぶく・・・を見つめ沈みゆく──…あの心地。
──…よるが来るそのたびの、濁りなき共寝のひととき──…。おさなく、ほそやかな両腕が、胴輪どうわのごとくこの身を繋ぐ。──寝息をたてる矮小ないのち・・・が、睡りの中、ゆめの中をもいましめる。
……夜毎よごとの、とうめいな添いしの。真水のように色なき。しずかな──…その抱擁。おのが褐色の皮は、けれど、ちち色のやわらかなはだに呑まれているかにすら思う──…水底の窒息に似たあのせつな。
 たぶん……。
 たぶん、わたしは──…。
 そう。──我が身を厭う、海のみずに沈んでゆくまでもなく。
──…ふしぎなことだった。
 おそろしいくらいに。
-suisou-


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 去年の冬至にやろうとしてだめで、今春のチャカ誕にやろうとしてだめで、夏季SSにして完成させようとし間に合わず、一周して今年の冬至に終わったやつ です……。

 冬至要素……。……。……おへやが……暗いのと……(※日照時間)、お風呂……と……、なんか……、柑橘の……、かお…り……?(苦しいこじつけ)
 ほぼニポン基準の冬至要素……。
 背景に書き足す時間も余力もなかったのですが、おうちのおそと、みやこの路では賑やかに きらびやかに冬至祭がはじまってる。という設定……。風に流れた太陽讃歌が掠れたように時折きこえる……。
 そのあたりはまたいつか、なにかの短編の背景にでも リベンジします……。
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