水の底まで落ちていく

「 γ 」

「おーおー、白蘭のお気に入りがわざわざ何の御用で?」

 その言葉になまえは少しだけ γ のことを睨んだ。良くも悪くもその言葉はもう聞き飽きた。

「招集です。今日、会議があると言いましたよね?」

 その言葉に γ は壁に掛けられている時計を一瞥する。

「そういや、今日って言ってたな」

「皆さんお待ちです」

「へいへい。行きますよ」

 前を歩くなまえの背をぼんやりと見つめる。高い位置でひとつに結わえた長い黒髪は、歩く度にゆらゆらと揺れる。彼女は戦闘要員ではない。体も小さく、線の細い彼女はどう見たってマフィアとは無縁そうである。いつの間にか白蘭の隣に居て、普段何をしているのかも分からない、素性の知れない女。だが γ は彼女のことを嫌ってはいなかった。マフィアに似つかわしくない女は良くも悪くも普通であり、そして常識人であったからだ。

「なあお前、いつから此処にいんだ?」

  γ はずっと気になっていたことを尋ねる。白蘭のことを探ろうと周りの幹部に聞いても彼女の情報は同じものばかり。それと、彼女はあまり周りの人間には好かれていないらしい。
 なまえは少しだけ反応したが、返事は返って来ない。無理か、と諦めたその時、とても小さいが何かが聞こえた気がした。

「あ?」

「だから、ずっと前から居ましたよ。ジェッソファミリーの頃から」

 その言葉に γ は内心驚いた。暫く前、ジッリョネロファミリーとジェッソファミリーが会合をした時だって、合併をした時だって、彼女の姿は見えなかった筈だ。

「あの頃、お前の姿なんて見ていないが」

「無理もありません。その頃は部屋でひたすら白蘭の仕事を請け負っていましたから」

 なんて事ないようになまえは言うが、実質それはジェッソファミリーの機密情報をほぼ握っていたと言っても過言では無いのだろうかと、 γ は思った。

「お前そりゃあ……」

「でも残念ですが」

 こつり、とヒールを強く鳴らしてからなまえは振り返る。

「貴方が知りたい情報を私は持ってはいませんよ」

 瞳は海の底のように、青く、そして暗かった。何処か悲しげな表情にも見え、 γ は一瞬言葉を詰まらせる。

「……お前」

 どうしてお前がそんな顔をするのだ。 γ がそう言いたくなるのも無理はなかった。何故なら彼が崇拝する、今はミルフィオーレファミリーのNo.2であるユニのように、瞳に光が灯っていなかったからである。もうその瞳は見たくない。

「知りたい情報って、お前、何を知っているんだ?」

「知りません。ですがあの会合と、合併の話を知っている人間からすれば、貴方のやりたい事なんて容易く予想出来ます」

 そう告げたなまえの表情は未だ感情を読み取ることが出来ない。

「自分のボスにでも言うつもりか」

 だがその言葉になまえは少しだけ眉を下げた。思わぬ表情に再び γ は言葉を詰まらせる。

「まさか」

 悲しげであった。まるで、 γ と同じ気持ちだと言うかのように。なまえは何を思ってここまで白蘭に着いてきたのであろうか。 γ は益々わからなくなった。

「私は白蘭に信用されていませんからね」

 そう呟いてからなまえは踵を返し、再びヒールを鳴らして歩みを進めた。どうやらもうこの話は終わりらしい。
 会議室に入ると既に人は集まっており、残りは γ 達とユニだけのようだった。窓の外を見てみれば、少しだけ雨が降っている。なまえと一緒にいる時は雨の時が多いな、等と思っていると、最後にユニが現れた。やはり、その瞳に光は無い。思わず γ は眉を寄せた。
 なまえがユニを見送り、扉を閉めてから上座の白蘭の方まで進んでいく途中、ちらちらと盗み見ながら彼女に対しての小言を言う者達。それはブラックスペルだけでなく、ホワイトスペルの人間もそうだった。素性の知れない女。ましてや白蘭のお気に入りとまで言われていれば、この反応は無理もないだろう。だが、彼女はジェッソファミリーの頃から白蘭の傍に居たと言っていたが、ホワイトスペルの者でさえ彼女の素性を把握していないとは、一体どいうことなのだろうか。 γ は密かに頭を悩ませた。

「じゃあ、皆揃ったことだし、そろそろ始めようか」

  γ は白蘭では無く、その奥に佇んでいるなまえに視線を向けた。彼女の瞳に光が無いのはユニと同じように奪われたからではない。彼女が自ら感情を押し殺している為、光が無いように見えるだけだ。でなければ、小言を言われた時に手に持つファイルを少しだけ強く抱えたことも、白蘭と視線が合った時に僅かに体を強ばらせることもしない筈である。彼女にはちゃんと感情がある。それを見せないようにしているだけなのだ。
 右にはユニが、左には白蘭越しになまえが。それぞれ光を灯すことなく前だけを向いていて、感情は読めない。 γ はその瞳を見つめているだけで、暗い水の底に落ちていくような気がした。





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