希望の味方



 冴くんが日本に帰ってくるとき、それは大抵、お休みも兼ねていることが多いけれど、もちろん仕事の日だって存在して、むしろそれがあるからこそこんなにも帰ってこられているということは本人から聞かずともわかることだ。きっとわたしのために時間を割いてくれている部分もあるのだろうけれど、彼にとっての一番は紛いなくサッカーで、それはこれから先も決して揺らぐことはない。
 なので、帰ってきたからといって彼とずっと一緒にいるわけではないのだ。そもそもわたしも学校がある。少し前の大型連休のときは珍しく休日を挟んだお泊まりをしたけれど、基本的には平日の放課後であったり、ときどき土日の時間に顔を合わせたり。それくらいだ。冴くんは多忙なのである。
 日本でどんな仕事をしているか、詳しく聞いたことはない。もちろん現場を見たこともなかった。彼は公私混同するような人ではない。青い監獄ブルーロックとU-20日本代表選手とのエキシビションマッチにメンバーとして参加してから様々なメディアで彼を見かけるため、今日もそういうお仕事なのかな、とわたしが勝手に想像している程度だ。
 お仕事のために戻ってきているということは、つまりマネージャーさんも毎回一緒にやってくるわけで。エキシビションマッチのときやそれ以降にも、わたしは何度か顔を合わせたことがあった。
 そして今、わたしはそのマネージャーさんと車内に二人きりで冴くんを待っている。普段長期間で滞在しない限りはタクシー移動が主らしいけれど、今回は車を借りたようだ。わざわざ運転までするマネージャーさんに毎度驚きながらも、気軽に話せるような間柄ではないし、そもそも二人きりは初めてだったのでなにも言えず、そわそわと緊張してしまう。

「もう少しで来るだろうから、ちょっと待っててもらえるかな?」
「は、はい、もちろんです」

 ──突然こんなことになってごめんね。申し訳なさそうに呟いたマネージャー、ジローラン・ダバディさんは眉を下げながら窓の外を見やった。といっても、この状況を引き起こしたのは彼ではないので、彼は全く悪くない。
 仕事が思ったよりも長引きそうなので、待ち合わせに遅れると冴くんから連絡が届いたのだ。待つことがとくべつ苦手なわけでもないので、本当はそのまま待ち合わせ場所で待っていようかと思っていたのだけれど、気を利かせた冴くんが先にマネージャーさんを送ってくれたのだった。本来ダバディさんの仕事は冴くんのマネージメントをすることなので、言われたときは困惑しただろう。それでも断りきれなかったのか、こうして迎えに来てくれたのである。
 仕事自体はすでに終えたようで、そのまま車の中で落ち合う予定になっていた。

「逆にいつもすみません。わたしのためにわざわざ迎えに来てもらったり、送ってもらったり……」

 車内に流れる妙な空気に耐えきれずに口を開くと、ダバディさんは「全然大丈夫だよ〜」と朗らかな笑みを浮かべた。その表情は愛想笑いなどではなく、本心からのように見えた。

「むしろね、僕のほうが助かってるんだ。こんなこと言うとあとで怒られそうだけど、みょうじちゃんといるときの冴ちゃんはいつもより穏やかというか……無茶なこと言わなくなるし……」
「そ、そうなんですか?」

 結構我儘なことを言っているような気がしたけれど、あれでマシになっているほうなのだろうか。そうであったらいつもはどんなことを言っているのだろう。どんな話をされてもとびきり驚きはしないだろうと思えるのが不思議なところではあるけれど。優しい一面はもちろんあれど、やっぱりむかしの俺様冴様がちらついてしまうのかもしれない。
 ダバディさんは「そうだよぉ!」と強く肯定するように頷いた。

「冴ちゃん、あんな態度だけど、みょうじちゃんといるときはリラックスしてるんだなって、僕から見てもわかるから」

 ──向こうにいるときも、ああ今みょうじちゃんのこと考えてるなって、結構わかるんだよ。
 バックミラー越しに目が合ったダバディさんは、とても優しい表情をしていた。彼にはそんなふうに見えているのか。なんだかとても恥ずかしくなってきて、顔がほんのり熱くなる。リラックス、できていたらいいな。少しでも楽しくいて欲しい。穏やかな時間であって欲しい。あまり表情が変わらない彼だから、その判断は難しいけれど。
 すると次の瞬間、あっとダバディさんが声を上げたかと思えば、奥のドアが音を立てて開いた。どうやら冴くんが戻ってきたらしい。仕事が長引いたことに少し苛立っているのか、乱暴な仕草で乗り込んで、それから目が合うと怪訝そうな顔を浮かべる。

「……どういう状況だ?」
「あ、いや! これは違うだって冴ちゃん! ちょっと冴ちゃんの話を……」
「俺の話? 俺の話でなんでこうなる」
「いや〜、なんというか、冴ちゃんの秘密話というかその……」
「吐け」
「吐け!? ええっ!? 今言ったらみょうじちゃんもっと大変なことになっちゃうんじゃない?」
「……一体なんの話をしたんだよ」

 きっとわたしの顔が赤くなっているからだろう。むしろこうして二人が話をすればするほど、なんだか余計に熱くなっている気がする。それを冴くんも気づいたのか、それとも無駄だと思ったのか、それ以上聞いてくることはなかった。そうしてさっきとはまた違った妙な空気感のまま、わたしと冴くんはいつもの場所までダバディさんに送られたのだった。

◇ ◇ ◇


 いつもの場所とは言わずもがなあのホテルで、お茶をしてから今は部屋に戻ってソファで尋問をされている。もちろん、無理やり問い詰められているというわけではなく、むに、と頬っぺをつままれながらじっとり睨まれているくらいだ。くらい、と言っていいのかわからないけれど。

「それで?」
「え、えーっと……冴くんがわたしといるときはいつもよりも穏やかで、リラックスしているように見える、という話……です……」

 なんでこんなことに、と思いながらも素直にそう言えば、冴くんはすっと目を細めてから、「他には」と続きを求めた。

「ない、ないです……ほんとうに!」
「余計なこと言ってなかっただろうな?」

 こくこくと頷けば、冴くんは小さく息を吐いた。そして頬っぺたから手が離れていく。けれど瞳はなんだか不穏な気配だ。

「ダバディさんはわたしに気を遣ってそういう話をしてくれただけだよ」
「……」
「そんな顔してもだめ」

 明らかに納得できません、という顔をしている。それでもこれでダバディさんが責められるのはあまりに可哀想だ。

「勝手に聞いてごめんね」
「いやまあ別にいいんだけど」

 わたしの隣に座った彼は、そのままもたれかかるように頭をこてんと傾けた。否定をしないということは、やっぱりダバディさんの言っていたことは本当だと言うことだろうか。崩れないようにそっと覗き込めば、瞼は貝のようにぴたりと閉じられ、長い睫毛がよく見える。

「お仕事お疲れ様」
「……話が長ぇんだよ」

 内容を思い出したのか、彼は嫌味を含めた言い方でぼやいた。そしてそのままぐりぐりと頭を押しつけてくる。甘えているのか、それとも八つ当たりをしているのか。後者ではないと思うけれど(そうであったとしてもこれくらいならば全然いい、というか可愛いからもっと見たいと思う)、なんだか珍しい光景だ。
 彼の体をわざと避けるように身をずらして、そのままそっと横たわらせる。そうして足の上に彼の頭を乗せた。いわゆる膝枕の状態に冴くんはまばたきをふたつほど繰り返して、わたしを見上げる。

「……どう?」

 さっきのダバディさんから聞いた話を指していると、彼も気づいたらしい。冴くんはわたしに釣られるように笑って「悪くねぇな」と答えた。少しでも穏やかになれたら。どうせなら疲れも吹き飛ばせたらいいのに。そう思いながら、セットされた髪をなるべく崩さないように、優しく頭を撫でてみる。すると彼の眦はやわらかく曲線を描いて、ゆっくりと、長い睫毛が再び伏せたのだった。

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