アイラブユーの攻防

※数年後設定

 寝不足時の酔いの早さというものは異常だ。いつもならば平気な量でも、あっという間にアルコールが回ってしまう。個人差はあるだろうが、わたしはすぐ眠くなってしまうタイプなので、今回のプロジェクトが終わった打ち上げに強制参加で連れてこられたものの、上司の話も同僚の話もろくに聞かず睡魔と戦っていた。とはいえプロジェクトが終わってへろへろなのはわたしだけではないので、周りもきっと同じようなものだろう。それに、たたでさえつまらない上司の話だ。お酒を飲んだあとなんて、もっとつまらないに決まっているので聞いていなくても問題ない。

 ぱち、と目が覚めたときには、自分はタクシーに乗っていた。車窓から一定の感覚で街灯の光が流れている。いつの間に乗ったんだっけ、と何度か瞬きを繰り返すと、左手にスマートフォンを握っていることに気がついた。

「……あれ、凛くんと繋がってる」
「たった十分で記憶なくしてんじゃねぇよ」

 独り言のつもりで零した言葉にまさかの返事があったのでさらに驚く。どうやらスピーカーにしていたらしく、車内に凛くんの声がよく響いた。

「じゅっぷん? 十分だけ寝てたってこと?」
「お前の脳みそどうなってんだ」

 いつかけたのだろう。それよりも飲み会後半からの記憶が全然ない。あまりにも上司の話が長く、同僚と愚痴を言っていたところまでは覚えているけれど……。こうしてタクシーに乗っているということは、その同僚が運んで放り投げてくれたのかもしれない。歳も近くて気の合うことが多いことから、なにかと頼りにしている同僚だ。凛くんはあんまり好きではないみたいだけれど(直接会ったこともないのに)。帰ったら一応メッセージを送っておこう。まああくまでも、それまで覚えていたらの話だが。

「おい、あとどれくらいで着く」
「んえ? えーと、どうだろう。というかどこに向かってるのかな?」
「家に決まってんだろ」

 するとすかさず「あともう十分くらいですよ」とタクシーの運転手が答えた。もしかして、通話をしたまま乗って凛くんがやりとりしてくれたのだろうか。だとしたらあまりにも恥ずかしすぎる。こんな半分寝た状態のまま乗って、さぞかし迷惑だっただろう。反射的に「すみません」と零して、スマートフォンを握りしめて少しだけ縮こまった。


* * *


「おいこの馬鹿」
「……りん?」
「さっさと起きろ」

 ぱち、と目を覚ました瞬間、あれなんだかデジャブ? と思っていると、目の前にとっても綺麗なお顔が迫ってきた。なんだかよくわからないまま手を取られ、強制的にずるずると、まるで散歩をしたくないわんちゃんのように引っ張られる。そうしてぽふ、と彼の胸へとダイブ。そういえばタクシーで帰ってきたのだったと気づいたのは、そこから降りてちょうど背後で車が出発したときだった。
 目の前には凛くん。そしてその奥にはわたしたちの家でもある大きなマンション。それなりにわたしの仕事が落ち着いてきたので、一年ほど前から始めた同棲先だ。
 凛くんは、はぁ、と大きなため息をつくと、わたしの手を取ってエントランスへと向かった。右手にわたし、左手にわたしのバッグ。まだアルコールが抜けていないのか、視界がどことなくぼやぼやする。くるくるして、そのままスキップでもできそうな気分だ。

「あれ、無銭乗車……」
「んなわけあるか。俺が払った」
「凛くんありがとう〜」

 繋がれたままの手を引いて、そのまま彼の腕をぎゅうっと抱きしめる。わざわざ下まで迎えにきてくれるなんて、滅多にないことだ。むふふ、と変な笑い声を抑えきれずに頬をくっつける。すると頭上から凛くんの舌打ちが降ってきた。

「おい、離れろ。歩きにくい」
「えー……じゃあ抱っこ」
「調子乗んなこの酔っぱらい。自分で歩け」

 そう言って凛くんが歩幅を大きくする。同時にぎろりと鋭い視線で睨まれたけれど、今は全然怖くない。むしろもっと抱きつきたくなって、エレベーターに乗り込む彼の背後から腕を回した。普段なら絶対やらない行為だ。頭の片隅で冷静に、防犯カメラに全部映ってるよな、と思いながらもボタンを押す。アルコールの力はすごい。

「邪魔くせぇ」
「もうここから絶対一歩も動かないからね」
「そのまま朝までここで寝てろ。俺は帰る」

 ぽん、と軽い音が鳴ってエレベーターが止まる。置いていかれるかと思ったが、彼はそのままわたしをくっつけたまま家へと向かった。そうしてジャケットのポッケから鍵を取り出して解錠すると、わたしの首根っこを掴んで玄関へと押しやった。ふわっと浮いた気がして、変な声が出る。

「う、わぁ! 急に押さないでってば」
「いいからさっさと入れ」
「凛くんが乱暴だあ」
「あ?」
「こ、怖くないもんね」

 廊下にすとんと座って靴を脱ぐ。どうして今日に限ってストラップがついたパンプスを履いてしまったのだろう。ライトはついているけれど、ほんのり薄暗いのでストラップ部分がうまく見えず、外れない。

「凛くん、取れない」
「……」

 視線は足元に向いたままなので本当のところはわからないけれど、きっと呆れた顔をしているだろう。舌打ちが降ってこないだけましかもしれない。右足のほうは外れたけれど、左足のほうが全然だめだ。なんだか目もしょぼしょぼしてきて、ゆっくりと瞼が下がっていく。

「おいふざけんじゃねぇぞここで寝んな」
「目がしょぼしょぼしてきただけだって」
「お前本当まじで……」

 ついにチッ、と舌打ちが飛んできた。すると足首にあたたかいなにかが触れて目を開ける。凛くんの手だ。大きなそれはわたしの足首を支えながら、すんなりとストラップを外していく。わあ、すごい。思わずそう言うと、そのまま彼の手はわたしの膝の裏と背中に回り、わたしを持ち上げた。再び浮遊感が襲ってきて、彼にしがみつく。

「ひゃあ!」
「……俺を殺す気か?」
「だって……急に上がったらびっくりするって」
「お前が運べっつったんだろ」

 言ったけれど、まさか本当にしてくれるだなんて思っていなかった。しかも横抱き。思わず凛くんの首を絞める勢いで抱きついてしまった。
 すたすたと廊下を進んでリビングへと向かう。凛くんはわたしよりも背が高いので当然っちゃ当然なのだが、視界がうんと高くてびっくりした。いつもこんなふうに見えているのか。廊下を見つめて、凛くんのお顔に視線を戻す。これだけ近いと、彼の長い睫毛の一本一本までよく見える。
 わたしは引き寄せられるように眦にキスをしていた。音のない、触れるだけのキス。彼は視線だけをこちらに向けて、すぐに前へ戻した。わたしはそれを、もっとキスしていいと受け取ってみた。ちゅう、と彼の頬にくちびるを押し当てて、腕に力を込める。
  そのままちゅうちゅうと吸いついていると、あっという間にリビングにたどり着いた。そうして彼はわたしをソファへ下ろすと、キッチンに向かい冷蔵庫からミネラルウォーターを一本取り出してわたしに差し出した。しっかりとキャップまで開封済みだ。至れり尽くせりである。なんだかんだ言いつつも、凛くんは優しい。……本当に怒ったときはすごくすごく怖いけれど。
 ひんやりとしたボトルは火照った体に心地よく、冷たい水が沁み渡っていく。多分、体が今一番求めているのはこれだ。こくこくと必死に補給する。勢い余って隙間から零れた。

「あ……」
「おい」
「う、ごめんなさい」

 ソファには垂れていないけれど、服は少しだけ濡れてしまった。まあどうせ洗濯するし、水ならば構わないだろう。けれども凛くんはそう思わなかったようで、じっとわたしを見下ろしていた。

「……怖い顔してる」
「お前がそうさせたんだろ?」
「う……はい、ごめんなさい」
「さっさと服脱げ、風呂行くぞ」
「え? 凛くんも行くの?」

 言い終えた瞬間、顔が少し熱くなったような気がした。けれども凛くんはまるで当然だというように「さっさとしろ」なんて言ってわたしの手を取って浴室へと向かう。

「ほ、ほんとに入るの?」
「水も満足に飲めねぇくせになに言ってんだよ」
「さすがにお風呂は入れるよ。大丈夫」
「それで結局逆上せられるほうが迷惑なんだよ」
「そ、そうかもしれないけど、お風呂はいい、恥ずかしい」

 別に一緒に入るのが初めてというわけではないけれど、本当に滅多にないことなのでさすがに酔っていても恥ずかしい。凛くんは、はあ? としかめっ面をしてわたしを見やった。なにを言ってるのか心底理解できないと顔に書いてある。

「今更かまととぶんな」
「かっ!? そんな、違うもん!」

 今度こそ顔が燃え上がるように熱くなった。心配してくれているのはわかるし嬉しいけれど、暗い寝室で見られるのと明るい浴室で見られるのとじゃわけが違うのだ。それに、最近少し太ってしまったし……。しかし無情にもわたしの服には凛くんの手がかかって、ボタンを外していく。

「やだ! えっち!」
「あ?」

 ぶち、とどこかから不可思議な音がしたような気がした。同時に凛くんの手が止まったのでそうっとなぞるように彼の顔を見ると、明らかに怒っている彼と目が合う。

「いいからさっさと脱げよ」
「ひい」
「それとも無理やり脱がされてぇか?」
「脱ぐ。脱ぎます」

 傍から見ればどう考えても危ないやり取りだ。別にここにはわたしたち以外誰も居やしないけれど。凛くんの目力が強すぎて頷くことしかできない。

「ぬ、脱ぐとき後ろ向いてくれるとか……」
「……」

 なにも言わずに睨みつけるのはやめて欲しい。くだらねぇこと言ってねぇでさっさとしろ、ってところだろうか。もはやわたしが脱ぐところを見たいだけなのでは、とも思う。しかしそんなこと言えば、もっとひどいことになってしまうかもしれないので言えないけれど。いやこれよりひどいことって、一体どうなってしまうのだろう。
 凛くんが途中まで外していたボタンに手をかける。その間も、彼の視線は変わらずわたしにまっすぐ向けられている。緊張で手が震えそうだ。もし彼の視線が可視化されたならば、おそらく相当数の鋭い矢印がわたしに刺さりまくっていることだろう。心のなかのちいさなわたしが言う。女は度胸。頑張れわたし。

「……あれ……」
「……」
「違うから、凛くんがずっと見てるから」

 ボタンを外そうとして、引っかかる。……失敗。
 もう一度試みてみる。……同じ結果。
 ぶち、ともう一度嫌な音がしたのち、凛くんが「もういい」と一言だけ言った。

「俺がやる」
「それだけはやだ。恥ずかしすぎる。だいたいそれ、凛くんがやりたいだけでしょ」
「だったらなんだよ」

 つい口が滑ってそう言えば、あまりにもしれっと答えてきたので思わず固まる。そのうちに彼の長い指はわたしのボタンをとらえて、ぷち、とひとつずつ外していった。呆然としながらも、次々と外されていくそれにじわじわと恥ずかしさが募る。わざわざこんなときに素直にならなくてもいいのに。
 諦めも肝心。ちいさなわたしが心のなかでそう言った気がした。


* * *


「俺に言うことは」
「ごめんなさいありがとうございます凛くんさま」

 ドライヤーを終えたのち、くるりと体を反転させてソファに座る凛くんに抱きついた。お腹に顔を埋めるようにしてしがみつき、ぎゅうっと腕に力をこめる。
 一緒のお風呂は死ぬほど恥ずかしかったけれど、凛くんの行動は本当にわたしを心配してくれてのことだった。大の大人がお風呂のお世話をしてもらうなんてあまりにも情けなさすぎるけれど、実際湯船につかったらすぐに眠気が襲ってきたりして、何度も彼に起こされた。彼がいなかったら本当に逆上せていたか、最悪溺れていたかもしれない。
 お風呂でさっぱりしたお陰かかなり酔いは覚めてきたけれど、眠気はひどくなる一方だ。体がぽかぽかしていることと、凛くんの匂いのお陰でその威力は凄まじい。気を抜けばすぐに寝落ちしてしまいそうになる。

「まだ寝んな」
「歯磨き……」
「起きろ」
「凛くん〜」

 散々甘えたくせに、とも思うが、ここまできたら色々と振り切れたみたいだ。普段はこんなことしないしできないのに、今日ならなんでもできそう気がする。ここ最近忙しかったから、癒しを求めているのかもしれない。アニマルセラピーならぬ、凛くんセラピーだ。固い腹筋にぐりぐりと自分の額を押しつける。

「……あれ」
「ん」
「んう……」

 抱きついていたのを引き剥がすように持ち上げられると、わたしの体はそのまま彼の膝の上に乗せられ、ちゅうっとくちづけられた。思わずぱちくりと瞬きをしてピントの合わない彼を見やると、あの海のような瞳が閉じられていたのでわたしも釣られて目を閉じる。するともう一度キスをされて、ぬるりと舌がわたしのくちびるをなぞる。
 ちゅくちゅくと微かな水音とリップ音を響かせて何度もキスをする。眠気はとうに覚めていて、けれども先ほどとは違った感覚で意識がぼんやりとしていた。頭がくらくらとするような、凛くんのことしか考えられないような、そんな感覚。

「起きたか」
「……まだしてたい」

 強請るように自分からくちづけると、凛くんはそれを受け入れるように目を瞑った。再び舌が絡み合って、息が乱れていく。
 凛くんの手がわたしの髪を梳く。それが頭を撫でられているようで、もっと甘えてもいいのだと言われているような気がした。口は悪いけれど、こんなにも優しくて、だらしないわたしのことを好きでいてくれる。だいすき。大好き。感情が、とめどなく溢れていく。
 彼の手がわたしの背に回って、そのままころんとソファに転がされる。そうしてゆっくりと顔が離れていって、目が合った。先ほどやめておけば早く眠れただろう。けれども明日は休みであるし、なにより彼が甘やかしてくれるこんなレアな日を、逃したくないと思った。


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