スミレのミルク

※数年後設定

 今日みたいな日はなにもかもが憂鬱だ。お腹は痛いし、肌は荒れるし、いくら寝ても眠いし、小さなことでイライラしたり気持ちが沈んでしまうし。なんにもやる気が起きない。できることなら、ベッドから一ミリも動きたくないくらい。
 休日でよかったと思う。幸い周期的にも被ると思っていたのでバイトも入れていないし、さっき言った通りベッドから動かなくても文句は言われない。とはいえ生活をしている以上一ミリも動かないというのは無理な話なので、午前中に全ての家事を終わらせてソファに倒れ込んだ。お腹痛い。寒さのせいか、なんだか普段よりも痛みが強い気がする。少し前に薬を飲んだのでもうしばらくすれば効き始めるだろうが、症状が全くなくなるわけではないので、今日はもうこのまま昼寝をしてもいいかもしれない。気だるいせいか、はたまた薬が効き始めたお陰か、次第に瞼が重くなっていく。あれそういえば、今日は何時に帰って来るんだっけ。頭の片隅でそんなことを思ったけれど、襲ってくる眠気には勝てず、わたしはそのまま眠りに落ちた。


* * *


「あ、起きた」

 うっすらと浮上してきた意識のままに瞼を持ち上げると、ぱち、と鼻先数センチほどの至近距離で誠士郎と目が合った。白くてやわらかいふわふわな髪。いつも眠そうなぼんやりとした黒い瞳。わたしはあまりにも驚いて、うわっと大きな声を上げながら上体を起こした。けれどもその途中でつきん、と鋭い痛みが腹部に襲ってきて、再びソファに横たわる。確かに寝る前に薬を飲んだはずだったけれど。普段誠士郎がだらだらと寛いでいるソファは、わたしが横になっても十分お釣りがくるほど大きいので、こんなふうにじたばたとしてもビクともしない。
 もしかして薬が効いてないのかな。いいやそれよりも今何時だろう。痛みに耐えるように眉間を寄せながら、ちらりと首を回す。するとわたしを確認するように、ソファからひょっこりと覗き込んでいた彼と再び目が合った。

「……今何時?」
「三時半……いやもうすぐ四時になる」

 つまりかれこれソファで三時間以上眠っていたわけだ。いくら寝心地が良いとはいえ、これは流石に眠りすぎた。

「具合悪いの?」

 こてん、と誠士郎が首を傾けた。そもそも彼は今日も練習があったはずで、いつも通り夕方過ぎに帰って来るものだと思っていた。わたしは彼の質問には答えずに、「なんでいるの?」と質問を重ねた。

「連絡しても一切既読つかないから。玲王が今日はさっさと帰れって」

 なるほど。練習後、普段はそのまま御影くんと一緒にいるのは知っていたけれど、今日はわたしからの返信がなかったため気を使ってそう言ったのだろう。少なからず誠士郎も心配してくれているのか、様子を窺うようにじっとこちらを見つめている。ただ単に観察しているだけかもしれないけれど。わたしは目の前でふわふわと揺れる白い髪に手を伸ばした。

「今帰ってきたの?」
「いや、ちょっと前に。いつもなら帰ってきたらすぐ起きるのに、今日全然起きなかった」
「……お腹痛いの」
「前言ってたやつ?」
「……うん」

 つきつきと刺すような痛み。今回は随分と重ためかもしれない。すると不意に誠士郎が立ち上がって、「わかった」と呟いた。わかったって、なにが? けれどもそれを尋ねる前に彼はのそのそと廊下の奥へと向かってしまった。どこに行ったんだろう。流石に今日は彼のわがままに付き合えそうにないのだけれど。
 数分くらい経っただろうか。ソファに寝そべったまま目を閉じていると、ふわ、と上からなにかが降ってきた。もふもふでやわらかい。目を開けると、そこにはいつも使っている毛布が一枚。

「……持ってきてくれたの?」
「あとこれ」
「ん?」
「いつも飲んでるやつ」

 ずい、と目の前に差し出されたのは白い湯気の立ったマグカップ。いつも使っている、誠士郎と色違いのやつだ。そしてそこから香る、ふわりと甘い匂い。

「もしかして、ココア作ってくれたの?」
「そうだけど。飲んでるでしょ?」
「うん……飲んでるけど、誠士郎、ココア作れたんだね」
「牛乳あっためて混ぜるだけじゃん」
「いや、それはそうなんだけど……」

 いつもめんどくさがって、それさえもしないのは君自身でしょうに。あまりにも驚きすぎて、少しだけ痛みを忘れたほどだ。あの誠士郎が、わざわざココアを作ってくれただなんて。毎度飲んでいたことを知っているのも驚きだ。以前御影くんに、「お前の想像以上に凪はお前のこと見てると思うよ」と言われたことがあったけれど、あながち間違っていないのかもしれない。いつも無関心で面倒くさがりだから、そんなこと一々覚えていないと思っていた。
 毛布にくるまるようにしてソファに座る。すると彼は空いたスペースに座って、わたしに凭れかかった。ちょっと重い。けれど、触れた部分からほんのり熱が伝わって、安心する。

「ん〜、動いたら眠くなってきた」
「練習の方がもっと動いているでしょうに」
「練習したからもっと眠い。ねぇ、それ飲み終わったらもう一回寝ようよ」
「それ誠士郎が寝たいだけじゃん」
「そっちだってまだ寝れるでしょ?」
「寝れるけど……」
「はい。じゃあけってーい」

 言いながらむぎゅ、と抱きついてくる姿はまるで大きいコアラみたいだ。自分の身長をわかっていないのだろうか。足も絡みついてきて、正直飲みづらい。
 ちびちびとココアを飲んでいく。体が少しずつ温まってきたせいか、痛みは大分よくなってきていた。

「誠士郎」
「なに?」
「……ありがと」
「どーいたしまして」

 マグカップの中身が全てなくなると、彼はそれを奪い取ってローテーブルの上に置いた。そうして離れたかと思うと、毛布ごとひょいと持ち上げられる。

「うわっ、えっ?」
「じゃーベッドにレッツゴー」
「こ、このまま?」
「だってお腹痛いんじゃないの?」
「痛いけど……」

 普段は面倒くさがって、歩きもしないのに。というかこの人、本当に自分の身長わかってない。急に視界が高くなったので、わたしは思わず誠士郎にしがみつく。すると彼は満更でもないような顔をして、そのまま寝室へと向かった。なに、その顔。

「……というか、重たくないの?」
「まあ重いけど……って痛!」
「そこは重くないって言って」
「えー……わがまますぎ」
「誠士郎に言われたくない」


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