密を垂らした宝石に

※数年後設定
 
 心を映したような瞳だ。喜びは艶やかに光り、怒りは燃えるように揺らめいて、哀しみは暗く沈み、楽しみは爛々と瞬く。目は口ほどに物を言う。この言葉は正しく、また彼のためにある言葉だとさえ思える。

 まずいかも。
 そう思ったときにはすでに遅く、わたしの顎は大きな手のひらでしっかりと固定され、あっという間にくちびるが食べられた。かぶりつくように覆われ、零れる声さえも飲み込んでしまうように広く深くくちづけをされる。とん、と、抵抗するには弱すぎたわたしの手のひらが、反対側の彼の手によって拘束された。

「り、凛っ」

 どうしてこんなことになったんだっけ、と頭のなかでつい数分前のやりとりを振り返る。少し前まで、彼の機嫌はよかったはずだ。表情はいつもと変わらず仏頂面だったけれど、トーンが穏やかで、視線もやわらかかった。
 バレンタインの話をして、それから。並んでソファに座りながら、デパートでもらったチョコレート特集のパンフレットを眺めていたら、突然こんなことになってしまったのだ。なにか変なことを言ったつもりもないし、怒らせるようなことをしたつもりもない。けれども間違いなく、彼は怒っていた。くちびるがぶつかる一瞬に目が合ったとき、彼の瞳の奥には轟々と燃える炎が見えたからだ。
 彼の舌がわたしの口内を回る。いつもそうだ。わたしは凛くんに翻弄されっぱなしで、余裕なんてこれっぽっちもない。一応わたしの方が年上なのに。しっかりしなくちゃ、なんて。初めのころはそんなことも思っていたりもしたけれど、そんな気持ちも今ではどこへやら。気がつけば大きな手がわたしの後頭部に回され、逃げられないようにすっぽりと抱きしめられて。息継ぎの暇もなく、たくさんキスをされるのだ。
 くらくらする。わたしがぎゅうっと彼の手を握ると、それに応えるように彼もまたわたしの手を握った。そのたびに、ああ好きだなあって再確認する。

「っ……きゅうに、なんで……」

 くちびるがそっと離れてすぐ、息を切らした状態のままそう問えば、凛くんはわたしをじっと見下ろした。瞳の奥に潜む炎は、少しだけ小さくなったような気がした。

「いい加減そのクソみたいな風習やめろ」
「え?」
「それ」

 視線の先にあったのはバレンタインのパンフレットだ。クソみたいな風習? ふわふわとした頭で記憶を遡るように考えてみる。ふと、ちょうど一年前もこんなふうに彼に止められたことを思い出した。

「あ、違うの! 今年はないよ。凛くんが去年言ったから、辞めましょうって説得して、その……上手く話が通ったから」

 義理チョコ制度。最近ではもう廃止している会社も多いけれど、わたしが勤める会社には未だにその風習が残っていた。女性社員でお金を出し合い、まとめて購入して男性社員に渡すのだ。そして大抵、その役割りは新人に任されることが多い。つまり二年前に入社したわたしの仕事だった。
 そして去年、こんなふうにパンフレットを眺めながらどれにしようかと迷っていたとき、凛くんに怪訝な顔をされ聞かれたのだ。なんのためにそんなものを見ているのか、と。毎年凛くんには手作りのお菓子を渡しているし、自分のために買うこともほとんどなかったので不思議に思ったのだろう。見ていたページも、パッケージが大きいものばかりだった。
 会社でね、女性社員みんなから男性社員に送らなくちゃいけないんだって。前からずっとやっていたらしくて、お金を集めたり、チョコレートを買ったり、そういうのを毎年新人がやることになっているらしくて……。
 怒るかな、と当時もほんの少し思ったけれど、隠す方がのちのち大変なことになるので、わたしは素直に成り行きを彼に言った。会社に入社してすでに十一ヶ月。歓迎会や忘年会などの飲み会に参加しなくちゃいけないだとか、仕事の付き合いで遅くなるだとか、そういう話で散々彼には駄目だと止められていたので、今回も、まずいかなあ、と内心どきどきしていた。
 反吐が出る。
 彼はそう言った。いくら会社の決まりとはいえ、わたしがチョコレートを買って、他の男性に渡して、義理だとしてもある一定数浮かれる人がいると思うだけで吐き気がすると言ったのだ。

「だから今年はないよ」
「じゃあなんでそれ持ってんだよ」
「毎年手作りだったから、たまには美味しいチョコレートもいいかと思ったんだけど……」

 そこまで言って、わたしは口を噤んだ。彼の瞳がすっと冷えたような気がしたからだ。今度こそ本当に怒ってしまう。いや、もう少し遅いかもしれない。

「ううん嘘、ちゃんと、」

 がぶり。少し痛いくらいの強さで首元を甘噛みされた。思わず、ひえ、なんて変な声が出て、体が強ばる。そうしてとんと押されれば、簡単にわたしの体はソファに倒れた。ぐっと彼の体がのしかかり、身動きが取れなくなる。
 まだ彼が中学生のころ、今と同じようにバレンタインの準備をしていたら、友チョコも義理チョコも全て没収されたことを思い出した。「学校でひとつももらわなかったから全部寄越せ」「なまえが作るチョコレートは全部俺のでいい」だなんて。横暴だけれど、家までわざわざもらいに来たのだから、当時はそれなりに可愛いと思った。

「あ、だめ、待って」

 ちゅう、と凛くんが噛んだところに吸いつく。あんまり見えるところはやだよと言っても、彼にはあまり意味がない。見えるようにつけてんだよ、って、もう何度も言われているし。今は冬だからいいけれど、夏は結構大変だ。
 声が出ちゃうのが恥ずかしい。以前そう言ったことをずっと覚えているのだろう。彼はこういうとき、わたしの弱い部分をピンポイントで攻めてくる。擽ったいのと彼が触れてくるのにどきどきして、抑えるように手で口元を覆うけれど、すかさず彼の手がそれを邪魔をする。指を絡めるように取られて、繋いで、ソファに縫いつけるように固定される。首元にうずめていた彼の頭が持ち上がり、視線が絡んだ。

「ちゃんと、作るから」

 じっとりとわたしを見下ろすまなざしはまるで、わかったか、と認めさせるようなものだった。むかしから変わらない、まっすぐな視線がわたしに注がれる。

「初めからそうしとけばよかったんだよ」

 瞳がつやりと光る。声のトーンも少し高く、それでいて悪戯っぽかった。感情が読めない、なんてたまに言われることもあるらしいけれど、こうして向き合って見てみれば、小さいけれど変化はちゃんとある。
 こくん、と静かに頷くと、彼の口角がほんの少しだけ持ち上がった。胸の奥がきゅっとする。ダブルコンボは心臓がもたないかも。そんなことを思っていると、彼は上体を屈め、わたしにキスをした。もしかしたらあの瞳で、わたしの心も見透かしてきたのかもしれない。


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