猫とキス

 ──かっこいい系の男の子を可愛いと思い始めたらそれはもう手遅れに近い。というよりも完全にアウトだ。


 サークルに入ってきた後輩が可愛いだとか、アルバイト先の先輩と週末遊ぶ約束をしただとか、とくに落ちもない恋バナの途中に挟まれた友人の言葉に、それまで周りの近況報告を聞き流していたわたしはひとつ確かにと頷いたのだった。事象や理由は様々あるのはひとまず置いておいて、手遅れなのには違いないと思ったからだ。

「この話に乗っかってくるなんて珍しい」
「いやごめん、その前までは聞いてなかった」
「でしょうね。じゃあもっかい話してあげようか? 先輩のアカウント教えてもらったところから」
「長そうだから大丈夫」

 氷が溶けてほんの少し薄まったアイスティーを均一にさせるようにくるくるとかき混ぜると、反対側に座っていた別の友人が「短くても聞かないでしょ」と笑った。そして言われた友人本人もまた慣れたように「だよね〜」と笑いながら、スマートフォンの画面をスクロールする。

「遠距離の彼氏とはどうなの?」
「とくに前と変わりなく……」
「会える頻度まちまちって言ってたもんね。最近は会った?」
「……二ヶ月くらい前?」

 そう言うと、友人たちはなんとも言えない難しそうな顔をした。大学三年。アルバイトもして、生活するには困らないけれど、やはり月に何度も遠距離の彼氏に会いに行けるほど(また会いに来てくれるほど)お互い余裕があるわけでもない。なんとなくそういうふうに友人たちの脳内では思われているのだろう。否定することもできず、しかし羨ましいとも言える状況ではない、複雑な心情がわかりやすく現れていた。

「それくらいでいいんだよ」
「きっとそういうタイプだから上手くいってるんだろうね、お互いに」
「昔から知ってた人なんでしょ?」
「うん、それなりに」

 そこまで言うと「まあ二人はもはや熟年カップルみたいなものだから」と、友人たちはわたしたちの関係を完結させた。いつもの流れだ。べつにそれを不満に思ったことはない。というよりもそういう結論へ向かうよう、わたし自身があまり恋人について語っていないのだから当然のことだった。

「そういえば彼氏の話あんまり聞いたことないけどさ、どういうタイプなの? さっき珍しく頷いてたじゃん?」
「あー……」

 迷いながら言葉を濁すと、友人たちはまばたきをひとつしたのち嬉々とした様子で身を乗り出した。いつもの定型文のような内容ではなく、新たな情報を知れるかもしれないと思ったからだろう。先ほどの友人の言葉を思い出して、それから浮かんだ恋人の姿をなぞっていく。

「猫っぽい……かな」
「ざっくりし過ぎ」
「まあでもなんとなくイメージしやすくはなったかも?」

 パズルのように、数少ない恋人に関するわたしの言葉を繋ぎ合わせて、なんとか答えを導きだそうとする友人たち。昔からの知り合いで、遠距離恋愛でも大丈夫で、猫っぽい。容姿や素性などの話はしたことがないので、友人たちが知っている情報とすればこれくらいだ。以前「自立した人なんだね」と一人の友人が言ったので、そういうのも付け加えられているかもしれない。

「可愛いの?」
「猫っぽいところがね」
「ああ、なるほど」

 ほくほくとした様子で友人たちが口角を上げる。少し喋りすぎたかもしれない。これ以上話す気はないというようにわたしはストローに口をつけて、その猫のような恋人のことを頭の片隅で思い浮かべた。


* * *


 大学から電車で二十分ほどした街にわたしの家はある。賃貸マンション。1K。三階建ての三階。エレベーターはなし。ひとり暮らしでよくある間取りと条件だ。アルバイトを終えたくたくたの体に鞭打って、階段を上る。次に引っ越すときは必ずエレベーターがあるところにしようと心に決めている。
 そうして玄関扉を解錠して扉を開けたとき、中からうっすらと光が見えて、おや、と思った。電気をつけっぱなしにしていただろうか。しかし視線を下ろした瞬間、納得する。大きな靴が一組。見たことのないものだったけれど、すぐに彼のものだと理解した。

「いつ帰って来てたの?」

 家自体、それほど広くない。そのため彼にはすぐに出会えた。長い毛のラグの上で、ベッドを背もたれにするように座っている彼──凛くんはわたしのグラスに口をつけてから、目の前のローテーブルに置いてわたしを見やった。

「昨日」
「言ってくれればよかったのに……」

 そうすれば帰りにスーパーで色々買ってこれた。当然ながら今日も一人だと思っていたので、買ってきたものなんて食パンに卵、ハム、それから牛乳……となんの変哲もないラインナップだ。晩御飯はアルバイト先の賄いで済ませてあるし、明日は休みで適当に冷蔵庫内にあるものを食べようと思っていたから大したものも買わなかったのだ。
 じっとりと見つめてみるが、凛くんはどこ吹く風でこちらに視線を向けることはない。最後に会った二ヶ月前と変わりなく、平然と寛いだ様子でテレビを眺めている。わたしは一度廊下へ戻り、買ってきた食材たちを冷蔵庫のなかにしまった。


 凛くんと出会ったのはもう随分と昔、小学校高学年のころだ。初めは冴くんの弟という認識でしかなかった。わたしは冴くんと同級生だった。
 当初はそれほど仲がいいというわけでもなく(そもそも冴くんともとくべつ仲がいいというわけでもなかった)、わたしは凛くんのことを同級生の弟、そして凛くんはわたしのことを兄の同級生、といった、友達でもなんでもない、ただの顔見知り程度にしか思っていなかった。中学に上がり、冴くんがスペインに行ってからもそれはほとんど変わりなく、街や海辺でときどき見かけたときに挨拶をしたり、手を振るくらいだった。
 そんな彼とただの顔見知りじゃなくなったのは、彼が高校一年生のとき……冬のことだった。海辺の堤防の上で一人座りながら、一枚の紙を睨みつけるようにじっと見つめているところを、わたしが目撃したところから始まった。

「テストの点でも悪かった?」
「……は?」
「あれ、テストじゃなかった」

 てっきり赤点でも取ったのかと思っていたのに、凛くんが持っていた紙はテストではなく、なにか通知書のようなものだった。「なんだ」と零すわたしに、彼は警戒心をそのまま全て貼りつけたような顔をして睨みつけていた。わたしはそのとき、凛くんってこんなだったっけ? と疑問に思った。

「凛くんだよね?」
「……それ以外にねぇだろ」

 やっぱり今までの印象とは違って、わたしはもう一度首を傾げた。わたしのなかの凛くんはもう少し可愛らしくて、お兄ちゃん子という印象が強かったのだ。それなのに今はなんというか、誰とも関わりたくないといったような、冷たい印象を受けた。男の子ってみんなこうなのだろうか? 思春期だから? そんなふうにわたしが頭のなかで様々な想像をしていると、不意に「用がないなら話しかけんじゃねぇ」と容赦ない言葉が飛んできた。

「……なにかあったの?」
「あ?」
「いや、なんていうか、雰囲気が少し変わったなと思って」

 少なくとも今まではあからさまに拒絶されたことはなかった。大きくなっていくにつれ、手を振り返してくれることこそ減ってしまったけれど、嫌な顔をされたことは一度もなかった。といってもここ一年くらいはすれ違うこともなかったのでこうして話をするどころか、姿を見ることもほとんどなかったのだけれど。凛くんは眉間に皺を寄せながら、僅かに目を細めた。

「お前には関係ねぇだろ」
「……そうかもしれないけど」

 と言いつつ隣に座ると、凛くんはぎょっとしたように目を見開いてからわたしを睨みつけた。さっさと帰れよ、と雄弁に語る目をしていた。関係ないのは確かだけれど、放っておくこともできなかった。それくらい、彼の空気は刺々しかったのだ。
 彼が持っていた紙には、日本フットボール連合から強化指定選手に選出されたとの報告が記されていた。彼が冴くんと同じようにサッカーに勤しんでいることは知っている。試合を見たことはなかったけれど、こんな連絡が来るくらいなのだから相当すごいのだろう。
 しかし当の本人はあまり喜んでいる様子ではなかった。

「集会、出ないの?」
「……出るけど」

 口調が悪く、表情もあまりよくなかったけれど、返事だけはきちんと帰ってきた。根はいい子のままなんだろうとすぐにわかった。その日、わたしは彼と初めて冴くん以外の話をした。他意はなく、後日思い返したときにそういえば冴くんの話題にならなかったな、と気づいたくらい無意識に。そのときはなんとも思っていなかったけれど、それが結果的に彼を傷つけずに済んだと知ったのはそれから一年以上経ち、彼がブルーロックから帰ってきたときのことだった。きっとそれからだ。わたしたちの距離感が少しずつ変わったのは。友達とは少し違うけれど、お互いのことを話すようになった。好きなもの、嫌いなもの。将来の夢、今の悩み。それを共有していくうちに、いつしか彼がわたしを許すようになってきた。それは警戒心の強い猫が少しずつ懐いていくような、そんな変化だった。それを可愛いと思ってしまったところで、わたしもようやく自分の気持ちに気がついたのだった。


* * *


 そういえば凛くんは夕食を食べたのだろうか。グラスに麦茶を注ぎながらそんなことを思うと、不意に部屋からわたしを呼ぶ声が聞こえてきた。

「なあに?」

 凛くんはすでにテレビの内容に飽きたようで、スマートフォンを片手にわたしのほうをじっと見上げていた。「そういえば夕飯って食べたの?」と尋ねながら、わたしも彼の隣に腰かける。彼はわたしを目で追い、ベッドの縁にもたれかかったわたしを見下ろした。

「凛くん?」

 普段から口数は少ないほうだけれど、今日は一段と静かなような気がした。見下ろしたまま黙りの彼に首を傾げると、不意に彼が近づいてくる。そして肩口のもう少し下、鎖骨の辺りに彼の額がこつんとぶつかって、そのまま動かなくなった。
 わたしはぱちりと一度目を瞬いて、そろ、と視線を下ろした。未だ無言のまま顔をうずめる彼。そっと後頭部に手を乗せると、さらにくっつくように擦り寄った。
 わたしが彼のことを猫みたいだと思うのは、こういうところにある。普段はそっけなくてつんつんしているくせに、こんなふうに不意打ちで甘えてくるのだ。それも全て彼の気まぐれで。口では言わず、行動で示してくるのもまた彼らしいと思う。

「……酒と食べ物の匂いがする」
「さっきまでバイトしてきたからね」
「さっさと辞めろ」
「生活が困るからだめ」

 きっと彼に尻尾があったなら、体にぐるぐる巻きついているかもしれない。その様子を想像して、勝手に一人できゅんとした。「お前もさっさとこっちに来ればいい」こっち、というのはフランスのことを指している。

「あと二年もないよ」
「長ぇ」
「今までと比べたらそんなことないのに」

 凛くんの頬に手を添えて、掬うように持ち上げると、柔らかく食むように彼とくちびるが重なった。優しさのなかに、ほんの少しの独占欲が垣間見える可愛いキス。愛おしさで、胸がぎゅっと苦しくなる。
 甘やかされることを嫌うかと思いきや、彼がわたしの手を拒むことはほとんどない。毛並みを整えるように頭を撫でても、確かめるように鼻先にキスをしても、満更でもない顔をして体を預けてくる。それが、たまらなく愛おしいのだ。
 ぐらりと体が傾いて、それからずるずると滑り床に転がる。凛くんのくちびるが何度も吸いついて、最後に小さくリップ音が鳴った。
 ほんの僅かな隙間が生まれたとき、凛くんがわたしの名前を囁いた。いつもより甘く掠れた声だった。じっと目が合って、わたしからのキスを待つように見つめる。それはキスだけじゃなくて、その先の許しを得ようとしているようにも見えた。
 するりと彼の首に腕を回す。そしてつんと鼻の先をぶつけてから、顔を傾けくちびるを重ねた。飼い主への鼻先のキスは信頼や愛情の表現らしい。猫の仕草を調べているときに、たまたま見かけた習性だった。
 彼の顔が動いて、頬や顎先、それから首元にくちびるが移動していく。耳の縁や鎖骨を掠めたときには、かぷかぷと甘噛みもしていた。本当のところは甘えたな部分があるんだと思う。けれどもそれを知っている人はごく僅かで、きっと彼自身も気づいていない。だからこそわたしは誰にも言うことなく、ただ一人、その愛らしい部分にそっとくちづけを落として、抱き寄せるのだ。


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