ビターチョコレートなきみ



 信じらんねぇ。
 明司春千夜の率直な感想はこうだった。

 出会ったのはもう随分と幼いころ。家の近くの公園でだった。明司家の数個隣に越してきたというみょうじ家のなまえは、友達がいないから一緒に遊ぼう、と砂遊びをしていた千壽とそれをぼんやりと眺めていた春千夜に言ったのだ。当時から他人よりも物事に興味関心の薄かった春千夜は、当然あまり好意的ではなかったものの、千壽が大層喜んで受け入れたので断ることはしなかった。それが、なまえとの出会いである。

 いつも楽しそうで笑顔が絶えない。それでいて嫌味のない子供だった。かと言って千壽のように溌剌としているかと言われれば少し違って、女の子らしさみたいなものがずっとあった。千壽は春千夜たち男子と混ざってなんでもやりたがったが、なまえにそういうのはない。それに、千壽ほどガサツでもなかった。
 それでも、以前住んでいた地域では男子の友達がいなかったようで、なまえは春千夜たちのやることを面白そうによく見ていた。正直最初の方は鬱陶しいなと思っていたときもあったけれど、なまえはうるさくなかったので次第にそうも思わなくなった(千壽やエマはときどき口煩いときがある)。
 具体的にいつから好きになったとか、いつからそういうふうに見るようになったとか、考えてみても春千夜にはよくわからなかった。気がついたら隣にいて、それが心地いいと感じるようになって、いつしかそれが当然のようになっていたからだ。その上、容姿もそれなりに春千夜の好みだった。幼いころはそれほど思っていなかったけれど、成長するにつれ彼女は綺麗になっていった。そんなの、好きにならない方がどうかしている。いつしか春千夜はそんなふうにまで思っていた。
 隣にいるのが当然だと春千夜が思っているように、またなまえもそんなふうに自分のことを思っていると、春千夜はわかっていた。そして、自分に対して恋愛感情を抱いていないということまで。そもそも自分の感情が真っ当な恋愛感情なのかと問われればそれも少し違うような気もするが、とにかくなまえに関して言えば、隣にいるのが当たり前の居心地のいい幼馴染、というくらいに思っているだろう。こんだけ一緒にいりゃ少しはこっちの気持ちもわかんだろ、と内心思わなくもないが、なまえである。期待しても無駄なことはもう十二分に理解していた。

 しかしそれとは別として、あれはないだろうと思っていた。告白現場を見られたことは正直どうだっていい。今までもそういうことが自分の身に起きていたことは彼女だって知っているだろうし、ときどき話題にもなっていたからだ(その話題に関しても不満があるのだがここでは省略しておく)。春千夜からしてみればバレンタインデーなんてなくなればいいと思っているイベントであるし(知らねぇ奴からもらった食いもんなんか絶対食わねぇ)、この先誰に告白されようが答えは決まっているからだ。しかし問題はなまえである。頭も悪くなければ比較的気の回る奴ではあるが、その回り方がとんでもない方向に飛んでいってしまった。確かに状況もよくなかったと思う。押しつけられた形とはいえ、彼女の言う通り珍しくプレゼントを受け取ってしまっていたし、告白してきた相手も友人ではないだろうが隣のクラスの女子だった(春千夜自身は全く覚えていなかったが最初に名乗ってきたときにそんなようなことを言っていた)。ちょうど現場を目撃してしまったことも相まって、申し訳ないと思ったのだろう。そう思い発言したということは、春千夜にもわかっているのだ。
 しかし、だ。いくら春千夜からの好意に気づいていないとはいえ、もう長い付き合いになるのだ。自分がある一定の人物以外興味がないことも、他人からもらったものを食べるはずがないことも(手作りなら尚更)、散々見て、知っているはずだ。それなのに、変な方向に勘違いをして、あまつさえ「帰らないほうがいい?」だとか「告白してきた相手を追いかけた方がいいんじゃないか」だとか、勝手なことばかり言ってきた。正直なところ、ふざけんじゃねぇ、と思った。相手がなまえじゃなければ手か足か、それか両方飛び出ていたかもしれない。そもそも彼女じゃなければ余計な勘違いをしている時点で切れていたし、話もまともに聞いていないだろうが。
 他人からの告白を最後まで聞いてやっているのだって、小学生のころになまえが「せっかく春千夜のために頑張っているのに聞いてあげないのは可哀想」と言ったところから始まっているのだ。どうせ彼女は覚えていないだろうが。そうでなければ、一人の時間を邪魔してきた相手の話なんてわざわざ聞くわけがない。正直春千夜からしてみれば、自分やマイキーに害をなす人間は男だろうが女だろうが容赦しない、という思考を元々持っていたので、別に他の奴らのように女だから優しくする、なんて考えはそれほど持ち合わせていなかった。とはいえそうしないと周りに文句を言われるので、春千夜なりに当たり障りなく接しているのだ。
 それでも結局こういう勘違いが起きてしまうのなら、もう全部面倒だと思えてしまう。春千夜からしてみれば言われた通りにしただけだというのに、余計な勘違いをされてしまうのだから。

 学校から自宅へと戻る間、なまえはずっと一歩後ろを着いてくるように歩いていた。春千夜が珍しく彼女に冷たい態度を取り続けたせいだろう。普段交わす下らない会話も今日はひとつもなく、二人揃って静かに帰った。
 数個しか変わらないが、学校からの帰路ではなまえの家の方が先に着く。そして大抵予定のない放課後は彼女の部屋で過ごすことが多いのだが、流石に今日は一緒にいない方がいいだろうと考えた。こんな空気であるし、なによりこれ以上話せば余計なことを言ってしまいそうだったからだ。

「じゃあな」
「あ、うん……」

 目に見えて落ち込むなまえに春千夜は二度視線を送ったけれど、結局は振り切るように踵を返した。ちょっとは反省しやがれ、という気持ちを込めて。正直なところ、喧嘩とも言えない今回の件に関して、解決策なんてないことは春千夜自身も理解していた。そもそも春千夜が苛立っている理由は、彼女が斜め上の勘違いと思い込みをした挙句、それを押しつけるような発言をしたことだ。けれども勘違いをした原因は別になまえが全部悪いというわけではないし(それでも分かれよ、と思う部分はあるが)、そもそも春千夜がなまえをただの幼馴染として見ていないことを彼女は知らないので、無駄な勘違いもやめろとも言えないのだ。
 ときどき、彼女がこんなにもお人好しじゃなければよかったのに、と思うときがある。そうすれば自分に告白をしてきた他の連中なんぞに彼女が気を遣ったり、無駄なやり取りもしなくて済むのだから。けれどもそうでなかったら、きっと自分はここまで彼女に入れ込んでいなかっただろう。結局はそういう部分を含めて惹かれてしまった自分の負けなのだ。だからこそこんなふうに解決策のない現状にやきもきしている。
 不意に、「お前ら付き合わねぇの?」と場地に言われたことを思い出した。ただでさえ苛立っているのになんでこんなときに。ふわんと頭のなかにむかつく顔が浮かんで、春千夜は内心舌打ちをしたくなった。
 確かに付き合っていればこんな現状、一瞬で解決するどころか問題にすらなってないかもしれない(いや、なまえは正真正銘のお人好しだからそれでも余計な気を回す可能性も大いに有り得るが)。しかしその前には一番大きな壁がある。場地は簡単に言ってくれたが、そもそも、なまえ自身に全くその気がないのだ。本当に、これっぽっちも、自分のことなんか意識していない。それは誰よりも近くにいる春千夜が一番わかっていた。そんな相手に告白なんてしようものなら、最悪気まずい空気になって今の距離感すら失うだろう。それは一番避けたいことだった。今は恋人という枠組みでなくても、この距離感にいれば彼女に男ができる可能性は格段に減るのだから。
 最悪なタイミングで嫌な奴が浮かんできたので、春千夜は無意識にため息をついた。追い打ちをかけるように出てくんじゃねぇ。そんなことを思いながら自宅の方へと向かうと、つん、と制服が引っ張られる感覚がして足が止める。誘われるまま後ろを振り向くと、今にも泣きそうに顔を歪めたなまえと目が合った。

「あっ、ごめん、あの、えっと」

 彼女自身も無意識だったのだろう。すぐさまぱっと手を離して、おろおろと視線をさまよわせる。そうしてその間、みるみるうちに瞳を潤ませていった。特別女子に泣かれると弱くなる、なんてことはないけれど、なまえに泣かれるのは流石に気持ちのいいものではなかった。他の奴らならなんとも思わないはずなのに、妙に悪いことをしてしまった気持ちになる。
 そんなことを思いながら狼狽えるなまえを見下ろしていると、彼女は落ち込んだように視線を地面に落としながら、「ごめん、やっぱりなんでもない」とぼそぼそと呟いた。春千夜は可能な限り優しく聞こえるように意識して声を発した。

「いいから、ちゃんと言えよ」

 想像よりも優しくなかったけれど、それでも先ほどまでの苛立った雰囲気は薄れていたと思う。なまえもそれを感じ取ったのか、一瞬春千夜の方を見上げ、迷いながらもそっと口を開いた。

「……春千夜の分のお菓子、やっぱりいらないかなって思って」

 こんなときにごめん。そう付け足して、なまえは再び俯いた。忘れていたわけでもないが、そもそも春千夜自身バレンタインにそこまでこだわりを持っていないため、別に明日もらえばいいやくらいに思っていたのだ。しかしどうやら彼女は違ったらしい。そこまでこだわるくせに、なんでコイツは俺のことをただの友達だと思ってるんだろうと思う。

「……やっぱ部屋上がるわ」

 ぱっと、なまえの顔が上がった。その表情は驚きとほんの少しの安堵が滲んでいた。促すように「さっさと入れろ」と言うと、彼女はさらに表情を明るげにさせながら「うん」と声を弾ませて玄関の方へ向かっていく。
 ……分かりやすすぎだろ。
 ちょっとは反省しやがれ、なんて思っていたくせに、結局これだ。自分でも言うのもおかしな話だが、なまえに対してだと随分と甘いような気がする。いつも我儘聞いている上に(お互い様な部分もあるけれど)、阿呆な行動にも付き合わされて……考えれば考えるほど自分が優しいのではないかと思い始めてきた。それでもこれが惚れた弱みだなんて認められるほど春千夜は素直な性格ではないので、彼女が明日からまた斜め上の思考にならないためだと言い聞かせることにした。それで再び巻き込まれては心労が絶えなくなる。明日の自分のためである。断じて、なまえが泣きそうになりながら引き留めたから、ではない。
 なまえの家に上がると当然のように彼女の母親が「おかえり〜」と春千夜たちに声をかけた。洗面所で念入りに手を洗ってからリビングへ入り、キッチンの方へ行く。すると流れるようになまえが春千夜用のグラスや皿を出していき、お茶の準備をし始めた。

「なにもらうか聞いてるの?」
「まあ一応……」

 なまえが準備をしている間、彼女の母親がこっそりと春千夜の背後に近付いてそう尋ねた。そうして春千夜の答えににっこりと笑みを浮かべる。なまえは全然気付いていないのに、母親は気付いているのだ……多分。直接言われたことはないので確証はないが、こういう話をするたびに微笑ましい目で自分たちを見てくる。

「張り切って作ってたわよ」

 そう言ってなまえの母親はソファの方へと戻っていった。張り切っていた、と言ってもそれは単純に成功するようにだとかそういう意味合いだろう。それでも、悪い気はしなかった。

 結局、そのあとはなまえの部屋でガトーショコラを食べた。彼女の母親曰く張り切って作ったらしいそれは、ビターチョコレートが使用され甘すぎず、春千夜好みの味だった。



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