日々の中に潜むかけらは、幸福なものもあれば不幸なものもあった。募る期待と、不安と、怒り。それらは酷く私を苦しめて、憎悪を煽っていった。そうしていつしか沸き上がるそれらを塞き止められるものがなくなっていって、私はついにその憎悪に手をかけようとした。選択する答えを、導き出したのだ。なにもかもを許せなくなった。この世の善悪の理は誤りだと気づいた。けれどもその瞬間、私の脳裏を過ぎったのはなまえの存在だった。
慈しむようにそっと私に触れるてのひら。向けられる眼差し。その姿は息を呑むほど美しくて、うんと大人びて見えた。心を掴まれたような心地になって、思わず見蕩れてしまうほど。
「傑さん?」
「なんだろう。なまえが急に大人びて見えた気がして……。いや、なまえは元から大人びているけど……」
「なにかありましたか?」
「ううん、ごめん。なんか急に、なまえが遠くに行ってしまうような気がしたんだ」
不安を零すと彼女は私の頭を一度撫でて、「どこにも行きませんよ」と言って柔らかく微笑んだ。数年前の春から夏。酷く焦燥感に襲われていた日々。思い返せば今でもあの蝉の音と情景が簡単に浮かぶほど、あの嫌な記憶は私の中で鮮明に残っている。けれどそれでも、それでも今私が呪術師として生きているのは他ならぬなまえがいるからだ。彼女がいる世界を守るために。二人の少女を守るために。呪術師を続けることを決断した。
「だから傑さんも遠くに行かないでくださいね」
「うん……約束。それじゃあ帰ろうか」
「はい」
この大きな公園の付近には学校がいくつかあって、もうしばらくすれば最後の授業が終わるころだろう。彼女はこれから来るそれらから私を遠ざけるように、手を取って公園を抜けていった。穏やかな秋晴れの下に咲く、鮮やかな秋桜に見送られながら。
* * *
「ちょっと買いすぎましたかね……」
「なまえがあれもこれもって入れるから」
「わたしだけじゃなくて、傑さんもです!」
「ごめんごめん。怒らないで。ね?」
肌寒くなってきたから今晩は鍋にしようと近くのスーパーに寄って食材を購入し、私の家に帰宅した。こうしてなまえは必ず会うときには昼食を作って持ってきて、夕食も私の家で食べる。もちろん彼女に非術師が作ったものを食べたくないとは言ったことがないけれど、あのころ一番近くにいた彼女には全てがお見通しのようで、近ごろ外食をすることはほとんどなくなっていた。
頬を小さく膨れさせる彼女の顔を覗き見る。はじめのころと比べると彼女の表情はとても豊かになった。つんとした表情からころころと、笑ったり、泣いたり、怒ったり。喜怒哀楽を見せるようになった。しかしそれは全員ではなく限られた人間のみで、特に泣いたりだとか怒ったりだとか、そういう感情は私以外にはあまり見せないようだった。それが少しだけ、私には心地よい。私しか知らない表情があるというのはやはり嬉しくて、可愛くて仕方のないことであった。
「なんで嬉しそうなんですか……」
「怒ってるなまえ、ちょっと珍しいから」
「喜ばせたくて怒ってるんじゃないんですって、わ、もう、傑さんっ」
瞼や頬に口づけを落とすと、彼女は不満そうに言葉を零しながらも少しずつ表情を和らげていく。私も大概なまえに甘いけれど、彼女の方がよっぽど私に甘かった。「許してくれる?」と尋ねれば、こくんと静かに頷かれる。本当に、なんでこんなに可愛いんだろう。
「もう……夕食作りますよ」
「はぁい」
私は寮生活をしていたころから、なまえの料理姿を見るのが好きだった。彼女自身は料理が得意ではないと言っていたけれど、家事は一通り出来るし、手際もいいし、なにより彼女の料理が好きだからだ。育った過去、母に教えてもらったのだと話す姿から目の前に出来上がったそれを口に含むまで、彼女がもらった愛を、そして彼女からの想いを感じることが出来るから。幸福を分け与えられた気持ちになるから。
「このお皿使いますね」
「うん。切った野菜、ここでいい?」
「はい。こっちももうすぐ出来そうです」
準備したものたちをローテーブルに置いて、カセットコンロの火をつける。そうして切った食材を鍋にいれ、蓋をし、ぐつぐつと湯気が上がるまでしばらくそのときを待った。テレビは一応あるけれどほとんどつけることはなく、コンロの音と、水が沸く音、それと時折なまえが作業をする音だけが部屋に響いた。
* * *
やはり食材は少し買いすぎたようで全て食べ切ることは出来なかったけれど、切った野菜などはまた翌日別のもので使うことにし、最後にうどんを食べた。そうして二人で片づけをしたあと、並んでソファに座る。するとなまえは不意にカーテンの隙間を覗いて、「外、綺麗ですよ」と窓の外を指差した。
「本当だ。今日は一日ずっと天気が良かったから、月も星もよく見えるね」
「ちょっとベランダまで出てみませんか?」
「夜は少し冷えると思うけど……」
「お鍋食べたら体があたたまったので少しなら大丈夫ですよ」
なまえに連れられるようにしてカラカラと窓を開け、ベランダに出る。やはり外は昼間よりも少し肌寒かったため、部屋の中から彼女のカーディガンを持ってきて肩にかけた。そうして暖を取るように後ろから彼女を抱きすくめ、二人で星空を眺める。つめたくて空気が澄んでいるからか、夜空は綺麗によく見えた。
ちらりと下を盗み見れば、彼女の瞳には空に浮かぶ月を映しきらきらと輝いていた。その姿は出会ったころの幼さを隠し、昼ごろに見せた穏やかで端麗なもの。ときが経つにつれ成長していく彼女を見るたびに、私はどこか彼女に導かれているような気持ちになっていた。抱えこむようにして抱き寄せればほのかに香る甘い匂い。もうほとんど彼女自身の匂いと混ざりあったそれは酷く落ち着くものだったけれど、はじめて出会った新しい彼女でもあった。
「傑さん……? 寒いですか?」
「ううん。なまえがいるからあったかいよ」
「……綺麗ですね」
「うん。綺麗だ」
いつかの冬の日を思い出した。クリスマスツリーよりも、真白の世界よりも、いつだって私の目に一番綺麗に映っていたのはなまえだけだった。眩しくて、美しかった。もちろんそれは今も。
星に願ったところで全てが叶うなんて思っていないけれど、私は静かに祈った。彼女がこれからも健やかに生きていられるように。私の隣で笑っていられるように。そのためなら私は、なんだって。
「なまえ」
「どうしました?」
「今日、泊まっていって」
「えっ……」
「もう少し一緒にいたい……駄目?」
すると彼女は照れたように俯いて、「わたしも一緒にいたいです」と呟いた。恥じらうように、ほんのわずかな声量で。大人びたと思えばこうしていたいけな姿を見せる。本当に、この子は。
「こっち向いて」
くるりと私に向き合ったなまえの頬に手を添えて、顔を持ち上げさせる。すると潤んだ彼女の瞳は先ほどよりもたくさんの星を集めていて。まるで夜空と共に閉じ込められてしまいそうになって、思わずくちびるを隙間なく重ねた。
「っ、すぐる、さん……」
「なんでだろ……今日のなまえがいつもと違うからかな。もっといっぱいキスして、抱きしめたい」
縋るように力をこめれば、彼女は耳元にくちびるを寄せてもう一度私の名前を囁いた。何度も聞いた心地よい声。包まれる安らぐ甘い香りとあたたかな温度。それらはどこまでも穏やかで、安心感を得られるものだった。
「駄目だな……なまえにはもう弱ってるところなんて見せたくないのに」
「駄目なんかじゃないです。もっと、見せてください。傑さんのことはどんなことでもたくさん知りたいから」
ずっと、なんて、叶えられるかもわからない誓いはかえって彼女を傷つけると思っていた。彼女の過去や心を。けれど今なら。
「……なまえ。聞いてほしいことがある」
「……はい」
「私たちは呪術師だ。なにがあるかわからない。任務先で命を落とすことだってある。だからなまえがそうしていたように、ずっとだなんて約束はするべきではないと思っていた……けれど」
けれどもうあの夏の日に決めたのだ。守るべきものを。歩む道を。それは、この先も違えぬことはない。
「これから先もずっと、私の隣にいてほしい。生きていてほしい。それが、私の願いなんだ」
私はあのころと変わらず臆病なままだ。不安も、焦りも、怒りも、変わらず。けれどそれでもいいのだと、なまえが教えてくれた。完璧などない。正解なんてものもない。失敗して、悩んで、迷って。自分の大切なものだけは見失わぬように生きていけば、それでいいのだと。
「わたしと、一緒ですね」
「……なまえ」
「わたしも、ずっと隣にいたいです。そしてこれからもたくさん傑さんとの思い出を作って、生きていきたいです」
大切なものはとうに見つかっている。守りたいものも選択した。あとはただ、そのためにひとつひとつ紡いでいけばいい。たくさんの変化も、不変も、おそろしいことだけではないから。
全てはもっと単純でよかったのかもしれない。私のこたえは、彼女と過ごす四季のなかに溢れていたのだから。