泡沫の国

 傷跡の残った白い指先が、まるで水に浮かぶ泡に触れるようにわたしの頬をなぞる。壊れぬようにそっと。けれどもそれがなんだかおかしくって、わたしは思わず口元にてのひらを添えてわらった。

「なに笑ってんだよ」
「春千夜があんまりにも優しいから、びっくりしたの」

 彼は隠すことなく顔を歪ませた。「うざ」と、言葉も零して、眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をした。しかしそれでもやっぱりわたしに触れる手は繊細で、どこか怯えているようにも感じられた。そんなに優しく触れなくたって、わたしはどこにも行きやしないのに。わたしの幸福はここにあるのだから。

 わたしたちは幼馴染だった。春千夜が生まれたすぐにわたしも生まれて、幼いころからずっと一緒に生きてきた。ちいさくて、柔らかな手も。あたたかくて、滑らかな肌も。どこまでも強くて、勝ち気だった彼を。ずっとずっとむかしから知っていた。たくさんのものを共有して、幸せな国を築いていた。
 唯一知らなかったのは、ずっと前、春千夜がわたしに知って欲しくないと言った、また別のすがたの春千夜だけだった。ていねいな口調で、どこか臆病なすがた。そんな彼はむかし、わたしに「お前だけのオレをあげるから、これ以上オレを暴かないでくれ」と言った。わたしはそのとき素直に頷いた。ずっとずっとむかしから知っていた春千夜のすがたはわたしにくれると言ったから。成長し、新しく芽生えた春千夜は、別の誰かにあげたのだ。
 けれどもその生活も長くは続かなかった。別の春千夜が大きくなったせいで、彼自身がそれを隠しきれなくなってしまったからだ。太陽と人の影から逃れ、夜を生きるようになって。不安をかき消すように薬を飲み、わたしではない違う誰かの名前をひたすらに呼ぶ。そう、確か名前は。

「マイキー」

 思わず、春千夜の目の前でその名前を口にしてしまった。案の定彼は目をこれでもかというほど見開いて、驚いた様子でわたしを見つめている。綺麗な瞳が落ちてしまいそうだ。脈打つ鼓動はみるみるうちに加速していくのに、頭の中はどこまでも冷えていくようだった。

「なんでお前が……なんで、知ってんだよ……」
「春千夜が、よく、言ってたでしょう」
「ッ、言ってねぇよ!!」

 湧き上がる黒き澱み。この感情をわたしはよくよく知っていた。幼いころ、知らぬ女の子たちに向けていたものと限りなく似ていたから。酷く焦り、動揺する春千夜は、わたしを激しく揺さぶって何度も名前を呼ぶ。その手つきは、まるでさきほどとは打って変わって乱暴で、浮かぶ泡はみるみるうちに消え去っていくようだった。嘘をついている様子はない。そういえば、彼がこの名前を口にするときはいつだって薬を飲んだあとどこか浮ついているときだけであった。
 おそらくマイキーという人はわたしが手放したもうひとつの春千夜の、王だ。もしかしたら春千夜はその王が、わたしに取られてしまうとでも思っているのかもしれない。いや、それとも。しかしどちらにしても彼がずっと隠したがっていた真意は間違いなくその人の存在があるからだろう。羨むように、焦がれるように毎晩名前を呼ぶ春千夜のすがたは、正直なところ全く面白くなかった。
 春千夜は血走らせた目でわたしを射抜き、激高した。いつどこで会ったのか。なにを話したのだと。そんなこと、ひとつだって言ってもいないのに。けれども彼はどうしたってわたしが許せないらしく、癇癪を起こしてベッドサイドにあったものを全て壁に投げつけ、枕元にあったクッションを滅茶苦茶に破いた。膨らんでいたそれに詰められていた羽毛が頭上でひらひらと舞う。

「春千夜」
「やっぱり殺しておくべきだったんだ」
「春千夜」
「お前だけは裏切らないって信じていたオレが馬鹿だった」
「会ってないよ」

 春千夜は時が止まったように固まって、今にも泣き出しそうな表情でわたしを見やった。そうして彼のくちびるがわたしの名前を紡ぐ。ようやっと彼の瞳がわたしを映したような気がする。普段よりもそれが艶やかに光れば、急に可愛らしく思えて多幸感に溢れた。

「会ってないよ。ほんとう。春千夜、わたしたちずっと一緒にいたでしょ」
「……そうだよな。なまえがオレのこと裏切るわけがない」

 そう言って簡単に安心しきったように顔を緩ませると、春千夜は両手をわたしに伸ばし、くちびるを重ねあわせた。少しかさついたそれが一ミリの隙間もなくあわさると、今度は厚く湿った舌がぬるりと絡みあう。そうして見知った唾液の味に安堵して、彼の背中に腕を回せば再びわたしたちに幸福が訪れる。

「誰にも見せたくねぇんだよ。オレだけの……」

 はたしてそれはどちらに対して言ったのか。全てはわたしだけの春千夜の瞳が、触れる手が教えてくれる。だいすきな春千夜。かわいいかわいい春千夜。そうしてもう一度くちびるを重ねて。わたしたちはまた、小さなしあわせの国を再構築する。



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