透くまぼろしの断片

花曇の告白する前の話

 それは幻のようだったからもうほとんど覚えていないけれど、やさしくて幸せな夢だったと思う。まるで麗らかな春の陽射しのなかで転寝をするような。また春風に揺られ宙を揺蕩うような。あたたかな夢だった。現実であったならよかったのにと、羨ましくなるくらいに。

 幼馴染の春千夜が、クラスメイトの女の子に告白されている瞬間を目撃してしまった。場所は校舎裏のテニスコートに続く道の端っこの、ちょうど日陰になったところだった。珍しいところで春千夜のピンク色が見えたから、気になって声をかけようとしたのだ。校舎の影になったところにいたから、きっと向こうからは見えていなかっただろうけれど、わたしは思わず息を潜めながら後ずさって逃げ出した。
 誰かが春千夜のことを好きだとか、告白したとか、聞いたことはあったけれど目にしたのはこれが初めてだった。わかっていたけれど、胸が締め付けられるように苦しくなって、わたしは走りながら少しだけ泣いた。

 進学先を決めてから高校に入学した現在まで、春千夜がわたしのことをどう思っているか気になって仕方がなかった。同じ高校にしたことを春千夜は拒絶しなかったし、嫌な顔さえ浮かべなかったけれど、本当はうんざりしているんじゃないかって不安だった。教室まで迎えに来てくれるたびに嬉しくなって、けれど家の前で分かれたあとは怖くなって。わたしたちの関係が壊れないで欲しいと、ずっとずっと願いながら隣を歩いていた。
 この日、わたしは初めて春千夜に嘘をついて一人で帰った。少ししか泣いてなかったけれど彼にはバレてしまうだろうと思ったのと、今会っても変なことを口走ってしまいそうだったから。友達と遊ぶとメールをして、急いで帰って、部屋にこもって春千夜のことを考えた。告白していた女の子は、隣のクラスで一番可愛いと噂されていた子だった。背が小さくて、髪がふわふわと綺麗なウェーブを描いていて。すごく、お似合いだった。もしあのまま二人が付き合ったら、わたしはこれからどんな顔をして学校に行けばいいんだろう。祝福なんて、絶対にできる気がしなかった。


* * *


 家に帰り春千夜のことを考えていたら、泣き疲れてそのまま眠ってしまっただなんて、恥ずかしくて誰にも言えないと思った。そして遅くまで窓を開けたまま寝ていたせいか、風邪を引いて熱を出したということも。
 翌朝。わたしの両親は共働きであるので、一人ぼっちの家のなかはがらんとしていて静寂だった。それでも、ブラインドカーテンの隙間から薄らと春の陽射しが差しているので穏やかさはある。
 思ったよりも高熱が出てしまって、わたしはベッドから起き上がるのも億劫だった。いつもはこんなことじゃ熱を出さないのに。高校に入学したばかりで慣れない環境だったのも、本当はストレスになっていたりしたのだろうか。春千夜は今朝、わたしの家まで来ただろうか。あとあと結局二人はどうなったんだろうか。色んなことが頭のなかをぐるぐると渦巻いていく。そうして考えている内に、ベッドに沈んでいくような感覚がわたしを襲った。

 次に目が覚めたとき、視界の端っこにピンク色が見えた。ああ春千夜だ、って思ったら、彼は少しだけ怖い顔をしながらなにかを呟いた。どうしてここにいるんだろう。今朝はいなかったはずなのに。ぼんやりとした頭ではいくら思考しても答えは見つからず、また突然ぴたりと額につめたい衝撃が走ったのでそれも中断された。

「あつ」
「はるちよ」
「飯食った?」
「食べてない……」
「食える?」
「たぶん」

 ぽつぽつと小さな会話が続くと春千夜は、「ん」とだけ言って立ち上がる。どこに行くんだろう。学校はどうしたのかな。そういえばあの告白ってどうなったんだっけ。そんな支離滅裂な思考が一気に浮上して、わたしは気がついたら彼の手を掴んでいた。手を握るなんていつぶりだろう、とまた違うことが浮かび上がる。春千夜は驚いたようにわたしを見下ろしていた。

「なまえ?」
「どこ行くの?」
「お前の飯作りに行くんだよ。おばさんから勝手に使っていいって言われてる」
「お母さんに会ったの?」
「会ったつーか、連絡が来た」
「そうだったんだ……」

 春千夜はもう一度わたしの名前を呼んで、ベッドの横に胡座をかいた。目線がさっきよりも近付いて、彼の透き通った海のようなエメラルドグリーンがよく見える。すると彼は「すぐ作ってくるから待ってろ」と、わたしの髪をくしゃくしゃと混ぜるように撫でて部屋を出て行った。

 春千夜は本当にすぐ戻ってきた。手にはお盆が握られていて、その上にはお粥と綺麗に皮が剥かれたりんごが乗っている。ベッド横にある小さなテーブルの上にそれを置いて、再び彼は胡座をかいた。

「ほらよ」
「ありがと」
「ったく、腹出して寝てるからだろ」
「もうそんなこと、してないもん」

 卵でとじられたお粥は、ふわふわと白い湯気を立たせている。わたしは上体を起こしてから小さな白い器に入ったそれとスプーンを手に取って、ふうっと息を吹きかけてからそっと口のなかへ入れた。

「……おいしい」
「当たり前だろ」

 むかし千壽ちゃんが熱を出したときも、こうやって作っていたのだろう。春千夜の手料理は何度か食べたことがあったけれど、お粥は初めてだった。味付けは少し薄味で、やさしい味がする。けれども今はそれがちょうどよくて、わたしは最後まで綺麗に食べきった。
 お粥を全部食べたらお腹がいっぱいになってしまったので、りんごは春千夜が食べた。大きく口を開けて含み、しゃくしゃくと軽やかな音がなって飲み込む。ぼうっとそれを眺めていると、不意に彼の大きな手が額に触れた。

「昨日、一人で帰ったろ」
「なんで……知ってるの?」
「聞いたから」

 誰に。母だろうか、それとも嘘に巻き込んだ友人からだろうか。けれどそれを聞く前に春千夜の手がわたしの髪に下りて、毛先を指先で遊ぶようにつまんだ。

「なんで嘘ついた?」
「そ、れは……」
「別に、お前が嫌ならやめるけど」
「ち、ちが、嫌じゃない……ちょっと、あの、その、」
「なんだよ」
「どんな顔していいか、わからなくて」

 言ってからすぐに後悔した。春千夜はその言葉で勘づいたのか、「見たのか」と驚いたように固まってわたしを見やる。元々大きな目がもっと大きくなって綺麗な海が零れそうだった。わたしはこくりと小さく頷いて、毛布を握りしめる。変なことを口走ってしまいそうだったから嘘をついてまで一人で帰ったのに、これじゃあ結局意味がない。
 すると彼はガシガシと頭をかいて、それからわたしの額にこつんとデコピンをした。けれど加減してくれているのかそれは全然痛くない。

「いたい」
「痛くねーだろ」
「うん、痛くない」

 沈黙がわたしたちを包んで、それからしばらくすると春千夜は「なんもねーよ」とだけ言った。わたしは「うん」とだけ返事をして、もう一度毛布を握りしめる。けれども内心わたしはほっとして、突然眠たくなるほどの安堵が降ってきた。

「寝てろよ」
「うん……春千夜、もう帰る?」
「……お前が寝たら帰るよ」

 横になるとすぐに睡魔は襲ってきた。うとうとと微睡み始めピンク色がぼやけていくと、春千夜の大きな手がわたしの目を覆う。突然視界が暗くなったけれど、春千夜が傍にいると思ったら安心して、わたしはすぐに眠りに落ちた。

 春のようなあたたかな夢を見た。春千夜の手がやさしくわたしの頭を撫でる夢。もう片方の手はやわく繋がれて、けれどしっかりと指は絡んでいた。


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