逃避行の夢

花曇のほんのり続きみたいなもの(if) / 梵天軸

 春。土砂降りの雨が降っていた日のことだった。寝支度も済ませベッドに潜り込んだ深夜、突然スマートフォンの画面に知らない番号が表示され、小さく震えた。こんな時間に知らない番号からの着信。思わず恐怖心を抱いてしまうような出来事に、わたしは息をこらして震えるそれをじっと見つめた。ざあざあと窓ガラスを打ちつける雨音が余計に恐怖心を煽るようであった。
 しばらくして音と震えが止まる。しかしほっと息をつく間もなく、それは再び動き出した。画面には同じ番号。もしかしたら誰かが違う番号からかけているのかもしれない。わたしはおそるおそる受話器マークのボタンを押して、そっと耳に宛がった。

「も、もしもし……」

 スピーカー部分から雨音が聞こえる。外からかけているのだろうか。しかし肝心の相手の声は聞こえず、ノイズのような雨音のような、雑音に近い音だけが聞こえて余計に不信感が募る。
 しかし口を開きかけたときだった。その雑音のような音のなかに、確かにわたしの名前を呼んだ誰かの声がしたのだ。たった数文字。けれどわたしにはそれだけでこのスマートフォン越しにいる相手が誰なのかわかってしまった。

「……春千夜?」
「……」
「春千夜、だよね。今、どこにいるの」

 前の公園。たったそれだけ、春千夜は答えた。その瞬間、わたしは潜り込んだばかりのベッドを抜けて傘を引っつかみ、寝間着のまま家を飛び出した。どうして一人暮らしをしたわたしの家を知っているのか、こんな深夜に一体なにをしているのか、そんなことは頭のなかからすっかり抜け落ちていて、ただただ彼に会いたくて夢中で走っていた。


* * *


「は、はる……」

 数年ぶりに再会した春千夜は、傘もささずにずぶ濡れになりながら、まるで感情が抜け落ちてしまったかのように虚ろな目をして公園の入口に佇んでいた。そして地面に落としていた視線を上げてわたしの姿を捉えると、わずかにくちびるを動かして、確かにわたしの名前を呼んだ。
 言いたいことも聞きたいこともたくさんあったのに、わたしの体は無意識に動いて春千夜に駆け寄り、その手を取った。そうして強引に手を引いて階段を上がり、彼を自宅へと押し込む。後ろ手に鍵を施錠したとき、彼はどこかほっとしたような顔をしたように見えた。
 ぴちゃぴちゃと水が滴るほど春千夜は濡れていた。最後の記憶と変わらない、あの春色の髪からもぽたりとしずくが零れていく。しかし震えたりだとか寒がる様子はまったく見られなくて、それが逆に異常さを増幅させていた。

「春千夜、お風呂入ろう」

 まだそれほど時間は経っていないから、湯船に張ったお湯はまだほんのりあたたかいだろう。わたしはひとまず彼を脱衣所へと連れていき、追い焚きのボタンを押した。その間も、春千夜はわたしに導かれるままでなにも言わなかった。

「入れる?」

 返事はない。確かに視線は交わっているはずなのに、まるで心が死んでしまったかのようだった。

「……服、脱がすね」

 どうやら春千夜はわたしの記憶よりもさらに身長が伸びたらしい。背伸びをしながらびちょ濡れになったジャケットを取ると、それは見た目よりもずっとずっと重たかった。わたしはそれを折りたたむように手を添えて、固まる。内側に、鈍く光るシルバーが見えたからだった。
 ひゅっと、息をのんだ。ピストルなんて、生まれて初めて見たからだ。これが本物か偽物かなんて、馬鹿な質問などはしない。明らかにわたしがそれに対して動揺していると気付いているだろうに、彼は警告することも取り繕うこともしなかった。まるで試されているのかと思ってしまうほど、ただじっとわたしを見下ろしていた。
 ジャケットをそっと床に置いてから、ベスト、ネクタイ、そしてシャツに手をかける。途中、様々な薬が入ったピルケースや、折りたたみ式のサバイバルナイフのようなものも見つけたが、見ないふりをして服を脱がせていった。指先が震えそうになったのは、それらの恐怖からなのか次第に見え始めた素肌のせいなのかわからない。春千夜の白い肌には、昔と変わらず傷跡が目立って見えた。
 上裸になったところで、わたしはそっと伺うように春千夜を覗き見た。しかし彼は依然として静寂なままで、わたしは一度目を伏せてから彼のベルトに手をかける。彼の体を見たことは何度だってあった。しかしだからと言って緊張しないわけじゃない。ましてや数年ぶりに再会したばかりなのだ。カチャカチャと金属が触れ合う音が小さく鳴って、奉仕をするように跪きながらスラックスを下ろし、靴下も脱がせる。そうして羞恥心から逃れるように視線を落として、二度、静かに呼吸をしてから黒いボクサーパンツに手をかけた。

「……」

 まっすぐと注がれる視線がどういう意味かだなんて、本当のところはわからない。しかしもう逃げられないと思って、わたしは小さく息を吐き出してから自分の服に手をかけた。もうあとは眠るだけだったのでシンプルな寝間着はあっという間にわたしの体を滑り落ちる。恥ずかしくて、涙が出そうだった。そうして互いに一番無防備な状態になったところで、春千夜はようやく自らの意思で動き、わたしを正面から抱きしめた。
 背に触れた腕はおどろくほどつめたく、無意識に体が震えた。春千夜の感情は読めないけれど、ぴたりと触れ合った真ん中の部分があたたかいことと、かすかに聞こえる心臓の音によっていくらか穏やかになれたような気がした。春千夜が今わたしの目の前にいて、生きている。それはわたしがずっとずっと望んでいたことだった。

 そこそこ広い湯船ではあったものの、二人で入ってしまえばあっという間に窮屈に感じた。わたしは春千夜に向かい合うように湯船に入り、そっと彼の頬に手を伸ばす。しかし触れた刹那、春千夜はぴくりと体を揺らしたのち、わたしの腕を掴み強引に手繰り寄せた。驚く間もなくバシャバシャと水面の波立つ音が響いて、そうして次の瞬間には後ろからきつく抱きしめられていた。思考が追いつくと瞬く間に心臓のあたりが苦しくなって、狭まった喉からかすかに息を吐き出す。

「は、はるっ……」

 零れた言葉はもうほとんど泣きそうな、情けない声だった。すると項のあたりを春千夜のくちびるが掠め、食むようにしてやわくそこに吸い付いたので、わたしはぞくぞくと背筋に走った刺激にさらに情けない声を上げた。思わずきつく目を閉じた瞬間に涙が零れて、喉奥がきゅうっと苦しくなる。わたしの前からいつの間にか消えた春千夜にようやく会えた喜びだろうか。はたまた様子のおかしい春千夜に心配になっているからだろうか。それとも彼が生きているのだと少しだけ安堵したからだろうか。彼がこれからも生きているのかという不安だろうか。自分のなかで激しく渦巻く不明な激情に耐えるように、わたしはお腹に回された彼の腕を掴んだ。
 触れる、食む、吸い付く。それらを繰り返される最中、時折春千夜の歯がわたしの肌を掠める。そのたびにわたしは少しだけ緊張した。春千夜が暴力的なところを過去一度だって見たことはなかったけれど、今の春千夜はもしかしたら違うのかもしれないと思ったから。しかしわたしが知る、やさしくてだいすきな春千夜を疑うこともしたくなかった。息を潜め、体を抜ける快感に身を震わせる。体がのぼせてしまいそうほどあつくなった。
 自分でも名前のつけることの出来ない感情がぽろぽろと涙となって溢れ出る。しかし決してこの状況が嫌というわけではなかった。小さく漏れ出る吐息の間に鼻をすする。すると春千夜はぴくりと体を揺らしてから向かい合わせになるようにわたしを持ち上げると、泣きそうな顔をしてわたしの顔を覗き見た。

「怖いか」

 昔にも、こうして聞かれたような気がした。わたしは大きく首を振った。

「春千夜を怖いなんて思ったこと、ない」

 たとえ離れていた時間があろうとも。わたしは彼の頬に手を添えて、くちづけを落とした。一瞬春千夜はぴくりと肩を揺らして固まったけれど、おそるおそるくちびるを舐めれば、わたしの背に腕を回してきつく抱きしめながら貪るように舌を伸ばした。

「ふ……うっ、」

 下から押し付けるようにくちづけられ、舌を絡め取られる。息継ぎの仕方を忘れたように熱中して、ぴちゃぴちゃと品のない水音と鼻から抜けたくぐもった声だけが響いた。次第に頭がくらくらとしてきて、視界が再び滲んでくる。そのせいか、春千夜も同じように泣きそうな顔をしているように見えた。
 思えば春千夜が泣いているところなんて、ほとんど見たことがない。それこそ本当に幼かったころだけだ。わたしは更に息苦しくなって、もう一度涙を零した。


* * *


「ごめん、なまえ」

 ようやくくちびるが離れたとき、小さな声ではあったが春千夜はたしかにそう言った。縋るようにわたしを抱きしめるその腕が、余計にわたしを悲しくさせた。

「春千夜に謝られるようなことなんてされてない」

 むしろ春千夜になら、なんだってされてもかまわないのに。しかしその言葉は音になる前に彼のくちびるによって阻止された。触れるだけのキスの方がドキドキしたのは、どうしてだろう。

「通話履歴は出来るだけ早く消せ……あとこの家もなるべくすぐに引っ越した方がいい。間違ってもお前からかけたりだとか、探したりはするな」

 ボソボソと話すたびに首筋に吐息がかかる。そうして最後まで言い切ると、春千夜は額をわたしの肌に押し付けて黙り込んだ。

「……今日が、最後なの?」

 ずっと会いたいと思っていたのに。春千夜はやはりしばらく黙り込んで、お湯のなかでわたしの手に指を絡めると「そうだといいな」と呟いた。小さな声であったが狭い浴室ではしっかりと聞き取れて、やがて湿度の高い空気に溶けるように消えていく。
 そんなの嫌だよって言えなかったのは、春千夜がやさしく微笑んでわたしの頬に触れたからだ。まるで愛の言葉を囁かれたような心地になる。けれどそれは別れに近づいている証拠だった。
 悲しくて涙が零れたら春千夜は黙ってそれを拭った。先ほどまで熱かったお湯は少しずつ冷めていって露出した肩がつめたくなる。わたしはぴたりと春千夜にくっついて、首元に顔を寄せた。彼の腕がするりとわたしの腰に回っていく。

「春千夜……春千夜」
「……んだよ」
「もう二度と会えなくても、わたしは春千夜のこと、ずっと待ってるから」

 探してはいけないと言われても、せめて待つくらいは許して欲しい。誰がなんと言おうと、春千夜はわたしにとってたった一人のだいすきな幼馴染で、だいすきなひとなのだから。
 春千夜はなにも言わなかった。けれどわたしの張りついた前髪を横に避けると、顕になった額にキスをした。そのままするすると鼻先がわたしの肌を掠め、視線が絡む。その瞳は、自惚れかもしれないけれどわたしを望んでいるように見えて、わたしと同じ気持ちのように見えたのだ。


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