いちばん甘くて危険な口付け

 風が通ったのかと思い違えるほど、一瞬の出来事であった。
 ふわりと髪が揺れてから、微かに甘く、けれど洗練された香りが通り過ぎたかと思うと、夜の道を通るなまえ以外の人間たちが、一斉に赤い血飛沫をあげてその場に崩れ落ちる。
 何が起きたのか理解出来なかったなまえは、手に持っていたハンドバッグを思わず滑り落としてしまい、地面に落ちた音が鳴り響いた瞬間に、血の気が引いていった。
 しかしそれはほんの一瞬で、地面に広がり続ける赤色が視界に入ると、血の匂いを感じ取ってしまい、今度は一気に汗が吹き出すように体温は上昇していった。心臓は、血管が破裂してしまいそうなほど大きく鼓動を繰り返している。ハンドバッグを掴み損ねた両手を固く握り、突然の惨劇に襲われたこの場を作り上げた、犯人らしき人物を決して見てしまわぬように、震えながら視線を足元へと向けた。目を瞑ってしまおうかとも思ったが、そうしてしまえば、尚更怖くなってしまう気がして何とか堪えた。
 数歩先にいるその犯人がこちらを振り向いたのが足音で分かる。そして何も言わずに一歩一歩、自分の方へと近付いてくるその音に、後退りしたい筈が体は硬直してしまい、足は全く動かない。次第に息は浅くなり、目頭がじわりと熱くなる。

 怖い。

 その感情だけが体の中を支配しているが、声を上げることも、ましてや逃げることも出来なかった。
 足音が目の前まで近付いて、止まる。
 下を向き続けていたなまえの視界に、白いブーツが入り込んだ。既に足元にも血は広がっており、その白いブーツにも、おろしたての綺麗なアイボリーのパンプスにも、流れてきた血が付着している。

「早く死にたい?」

 想像していたよりも随分と若く感じられたその声と、視界に映り込んできた犯人の手に驚いて、思わずひゅっと息を呑んで顔を上げてしまう。しかし、目の前に見えた姿にさらに驚いて、呼吸を忘れてしまったかのように言葉にならない音だけが口から零れた。

「ししっ、いー顔」

 こんな状況で美しいと思うだなんてどうかしているだろう。体の震えは未だ治まっていない上に、足も一歩も動かすことが出来ない。けれど、まるで御伽噺で見るようなティアラに、月と同じ色をした美しい髪、先程までの惨劇とちぐはぐ過ぎる光景に、なまえは一瞬見惚れてしまったのだ。

「ぁ……」

「っと」

 腰が抜け、その場に崩れ落ちそうになったところを、目の前の犯人に支えられる。何故?と疑問に思ったが、最初に感じたあの甘くて洗練された香りがふわりと香ると、心の中はぐちゃぐちゃになって突然泣きたくなった。
 犯人の手にはナイフが握られている。このまま殺されてしまうのかと、なまえは思わず目を瞑った。しかし、訪れたのは唇に暖かい温度と固くも柔らかくもない何か。それが犯人の唇だと理解する前に、舌を絡め取られ、息を奪われるような口付けをされると、何が起きたのか全く理解出来ずに目の前の彼から離れようと肩を押す。
 けれど華奢に見えてしっかりとしている体はびくともしない。口付けを続けながら、抵抗する手を解くように手を取られてしまうと、あっという間になまえは抱き込まれてしまう。先程手にしていたナイフは何処に消えたのだとか、そんなことはもう考えている余裕も無かった。
 一体何が起きているというのか。頭の中で問うても誰も答える者はいない。恐怖と、疑心と、あの甘い香りが体の中でぐるぐると混ざりあっている。けれど、何も考えないという選択肢も出来ずになまえは堪えていた涙を流した。


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