優しさと温もりに包まれて

 口数がいつもより少ないな、とベルは思っていた。だが思い返してみても、自分が何かをしてしまった記憶はない。無意識に彼女の地雷を踏んでしまったのだろうかとも思ったが、そもそも彼女は穏やかな性格の持ち主であり、自分がちょっとやそっと何かをしたくらいで怒るような人間でも、感情を露わにする人間でもない。それにもしも何かあったとしても、こんなまどろっこしいことなんてせず、直接言ってくる筈だ。では、一体何があったというのだろうか。

 任務終わりに談話室に寄ってみれば、なまえがいた。彼女はこの談話室で一番座り心地の良いソファに(ボスの椅子よりかは負けるが)深く座り、膝にはブランケットを掛けていた。扉が開く音に首だけ動かし、入ってきた者がベルだと分かると、彼女は笑顔で彼を迎えた。

「任務帰り?お疲れ様」

「ん。なにそれココア?」

「うん、作ってもらったの」

「ふーん」

 珍しい、とベルは思った。普段ならカフェラテ一択と言っていい程、彼女はそれを飲んでいたし、今日のような暖かい日であればアイスカフェラテを飲んでいる筈だ。
 普段のなまえであれば、ベルが近くにいると嬉しそうに最近あったことを話し出す。ベルが興味を持てば真面目に返事が返ってくるし、興味のない話題には適当な相槌を打っていた。それでもなまえの話を無視するなんてことは一度も無かった為、適当な相槌であろうが彼女はそれだけで嬉しかった。だが今日の彼女の口からは、ぽつりぽつりと話が出てくるだけであり、何処か気持ちが沈んでいるようにも見えた。そして冒頭に戻る。

 よく見れば顔色も悪いように見えた。そして比較的暖かい日であるのに、彼女の手には暖かいココア。ベルはソファから立ち上がると、なまえの前に立ち、顔を覗き込むように前に屈んだ。

「具合わりーの?」

「えっ……」

 なまえはベルの顔を一瞬だけ見ると、視線を彷徨わせた。ベルの察しがいい事も、なまえには特別優しい事も、彼女は分かっている筈なのに何を躊躇っているのだろうか。

「あの、実は……お腹が痛くて……」

 手元にあるココアを見つめながら、小さな声でなまえが呟くと、そろりと見上げてベルの顔を見た。そしてゆっくりと一度瞬きする。彼女が何故躊躇っていたのか、ベルには分かってしまった。
 なまえの手からココアを奪い取りテーブルに戻すと、ベルはブランケットごとなまえを抱きかかえた。

「えっ、ベル?!」

「部屋戻んぞ」

 なまえが少しだけ抵抗するが、お構い無しに歩みを進め、そのまま談話室から出る。ここから各自室まで遠くも無いが、そこまで近いわけでもない。周りの人間も自分達の関係を知っているとはいえ、所謂お姫様抱っこをされたまま部屋まで向かうのは少々、いやかなり恥ずかしい。だがやはりベルの傍は居心地が良いようで、先程まで感じていた痛みも少しだけ和らいだような気がした。誰ともすれ違わないことを願いながら、さらりと流れる金髪に少しだけ顔を埋めた。
 談話室から近いのはベルの部屋であるが、彼の部屋は恐ろしく散らかっており、ベッドの上も磨き途中のナイフが散らばっていることを思い出すと、自分の部屋を通り過ぎ、なまえの部屋まで向かった。それに気付いたなまえは少しだけ慌てた様子であったが、彼女の部屋は何時だって整理整頓されていて綺麗であるし、何か見られては不味いものでもあるのだろうか。制止の声が掛けられるがベルはお構い無しに彼女の部屋へと入り、寝室へと向かっていく。そして寝室の扉を開けると気の抜けた声が漏れた。

「あり?……オレここに置いてたんだっけ」

「いや……あの……」

 なまえはあからさまに視線を彷徨わせ、見る見るうちに顔が赤く染まっていった。

「はーん……お前、まさか」

 そこまで言って視線をなまえに向けると、彼女は黙りこくって下を向いた。

「えっち」

「えっ?!……っ、だ、だって……」

「だって?」

「ごめんなさい……」

 そう言ってなまえはベルの肩に置いた手を首に回して抱きしめた。なまえのベッドの上にはベルのボーダーのシャツが一枚。いつの間に盗んだのかは分からないが、彼女は案外可愛らしい所があるのだな、と内心ベルは思った。

「てか初めから呼べよ」

「最近、任務で忙しそうだったし……」

「あんなもん楽勝だっつの」

 ゆっくりとなまえをベッドに寝かせ、そのまま後ろから抱き込むようにしてベルも横になった。彼の手は彼女の下腹部に置かれている。

「そういやそろそろだったな」

「知ってるの?」

「当たり前じゃん、だってオレ王子だもん」

 ししし、と笑ってなまえを抱きしめる。彼女は十分強い為、あまり人に頼ることをしないが、こういう時こそ頼って欲しいものだと少しだけ溜息をつきたくなった。
 下腹部に当てられた手からはじんわりと体温が染み渡っていくと共に、少しだけ痛みも軽減されていく。なまえの背後から爽やかな柑橘系の香りの後に甘いホワイトムスクの香りがふわりと香る。昨夜、任務中のベルの部屋からこっそり持ち出したボーダーの服よりも強い彼の匂いに包まれて、なまえは気持ちも解れたような気がした。
 連日任務が入っていたベルも自分の腕の中になまえがいることに酷く安心し、また任務帰りなのもあってか睡魔が襲う。暗殺者として八歳からこのヴァリアーにいるが、誰かと一緒に安心して眠れるようになるとは夢にも思わなかった。そうしてベルとなまえの体温が少しずつ溶けて混ざり合う頃には、二人とも眠りについていた。


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