失光


 視界に映る景色の、世界の、色彩温度が低下していく。フィルターを付けたように冷たくなって、色がなくなって、今まで認識出来ていたものがわからなくなっていくように。
 こうも簡単に自分の世界を、人生を、他人の手によって奪われると、それまでの時間を含め全てが無意味なことのように感じられた。たった今まで自らの意志で道を歩み、生きていたはずが、突然信じられなくなる。そうして最後に思うのだ。世界とは、なにもかもが偽りなのだと。それは恐怖のあまりなまえが自身を守るために選択した思考であったのだが、こんな状況下の中で本人がそれに気付くことはない。


「ずっと僕の側にいて。僕から離れないで。なまえはそのために生まれてきたのだから」

 目の前にいる男は胸やけをしてしまいそうなほど甘ったるい声で囁いた。しかし声音とは裏腹に、首筋をなぞった指先はぐっと強く皮膚を圧迫する。なまえの体は次第に強ばり、心臓に触れられたように息苦しくなっていくのを感じた。
 男──白蘭は、果たしていつからこのような視線でなまえのことを射抜いていただろうか。透き通るようなアメジストの奥に禍々しさを秘めた瞳。振り返ってみてももうはっきりと思い出すことは出来なかったけれど、おそらく出会ってから数年後のことだったと思う。

 それまで白蘭はただの男だった。過去、それなりに若い頃──少なくとも十年以上前──二人は出会い、そして友人として関係を築いていたのだ。確かに出会った当初から白蘭は他人とどこか違った空気を纏ってはいたが、決して今のような雰囲気ではなかったと断言出来る。
 あの出会いですら偶然ではなく必然で、運命だったのだろうか。そして本当になまえは男のために生まれてきたのだろうか。
 白蘭の大きな手がなまえの腕を掴む。その手つきに優しさなどは少しも感じられず、とても無礼で横暴だった。

「ねえ、聞いてる?」
「……聞いて、る」
「じゃあ返事して」

 先ほどの甘ったるい声とは一変して、今度の声音は随分と鋭く凍てついていた。次第に瞳も、ひやりと冷たくなっていくのがわかる。この言葉もやりとりも、もう何度目だろうか。

「今更抵抗するの? はは、可愛いなぁ」

 腕を掴む手が、なまえを呼ぶ声が、纏う空気が、なにもかも冷たくて恐ろしい。自分のものであるはずなのになまえの体はなまえの意思には従わず、頭から爪先までなにもかもが硬直していった。身動きを取ることも、言葉を紡ぎ出すことも叶わない。
 本当にどうしてこんなことになってしまったのだろう。なにが男をこれほどまで変えてしまったのだろう。なぜ自分はこの世界に在るのだろう。しかしなまえがいくら考えたところで、満足する答えなど見つかりはしない。
 白蘭は苛立ったように舌打ちをすると、なまえの顎を掴んで乱暴に唇を重ね合わせた。そうして隙間からぬるりと舌を滑り込ませ、口内を縦横無尽に荒らしていく。理由がわからない。なにも繋がらない。白蘭の行動全てが、なまえとっては恐ろしかった。

「っ、う……」

 泣いてもなにも解決しない。むしろ白蘭を煽るだけだ。いつもいつも男はなまえが泣く瞬間に口角を上げ、目を爛々とさせる。理由は、なまえが生きていると実感するから、だそうだ。もはやなまえには今の白蘭がなにを言っているのかわからなかった。
 そこに愛情などはないのだろう。でなければ、こんな物のような扱いなどするはずがない。自分の思うままになまえを従えさせ、操る。まるで人形だ。

「僕としてはなまえが抵抗しようがしまいが関係ないけど、素直にしていたの方が身のためだってわかるだろう? 君はそこまで馬鹿じゃない。それとも……酷くされたいなら、望み通りにしてあげるけど」
「っ、いや……」
「じゃあ、わかってるよね」

 こくりとなまえが頷けば、白蘭はようやく落ち着きを取り戻したように瞳を和らげた。そうして今度は柔らかな手つきでなまえの髪を撫で付け、後頭部に鼻を埋める。

「大好きだよ、なまえ。好きすぎて、うっかり殺しちゃいそうなほどには」
「……っ、」
「ああ、大丈夫。本当に殺すことなんてないよ、なまえには役割があるからね」

 その狂気的な告白の裏側には、一体どんな言葉と理由が含まれているのだろう。それは白蘭にしかわからないことなのでなまえが知ることはないのだろうが、やはりそこにはなまえが思い浮かべるような愛など一つもないことだけは確かだ。
 そうして少しずつ色が、光が、失われていく。元の感覚を忘れていく。

 しかしなまえの心が擦り減り感覚が麻痺していった頃、男が求めた全ての戦いが始まり、そして白蘭の敗北という名で終戦する。なまえが元の世界を取り戻す大きな機会が訪れたのだ。その時なまえを知る者は白蘭以外ほとんどいなかったが、彼らは確かに救いの手を差し伸べた。
 けれどなまえは白蘭の言葉通り、男の側を離れなかった。そこに愛などはなかったが、おそらく二人は長い時間を共に過ごしすぎたのだろう。摩耗し続けたなまえは既に色鮮やかな元の世界を忘れていたし、この世界に未練などなかった。
 そうして白蘭となまえは共に最後の光を失った。それが男にとって後の支えになるのだが、この時の二人はまだ知らない。



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