いびつの結晶化
世の中には知らない方が幸せだということもある。いや案外、そちらの方が多いのかもしれない。
右手にある大きな硝子窓から、無数の光の粒が瞬いている。それは自然のものであったり、人工的なものであったり、様々だ。しかしそんな美しいはずの景色も、普段嫌というほど見慣れているせいか心が揺さぶられることはない。
「おつかれ、なまえチャン」
左手からそう声をかけたのはボスである白蘭であった。しかしその出で立ちはいつもの隊服姿ではなくスーツ姿。全身真っ白ということには変わりないけれど。
「お疲れ様です」
「上手くいったんじゃない?」
「……そうだといいですけど」
他ファミリーとの会談。一見地味な仕事のようであるが、ここまでミルフィオーレファミリーが大きくなった理由の一つにはこういう部分も含まれている。この時代、情報を一つでも多く持つことが今後の未来に繋がっていくからだ。
そして白蘭はとりわけそういうことが上手かった。他人に興味がなさそうであるのに、どうすれば人が喜び、また怒り悲しむのかがわかる。変化に敏感なのだろう。また彼自身の本当の部分が見えにくいというところも、相手を翻弄する要因の一つなのかもしれない。
会談が行われたのはこの地域で一番名の知れたホテルの一室であった。そして今わたし達がいるのはその最上階にあるバー。相手ファミリーの者がいる可能性だってあるのにもかかわらず、白蘭は特に気にする様子もなく「少しだけお喋りしてから帰ろうよ」と言ってわたしをここに誘ったのだ。
目の前に一つずつグラスが置かれる。そういえば白蘭がお酒を飲むところを見るのはこれが初めてかもしれない。そもそも飲めるのだろうか。少しだけ不安になったがどうやらそれは杞憂だったらしく、彼はすぐさまそれに口を付けた。こくり、と彼の喉仏が上下に動く。
「なあに? そんなに意外?」
「え……あ、すいません」
「ううん。むしろこのままずっと僕だけ見てくれていいんだよ」
白蘭は左手で頬杖をついてわたしの顔を覗き見た。そしてその瞳が緩やかな曲線を描いた時、たまらず目の前に置かれたお酒を流し込む。喉の奥がひりひりとしたが、これはおそらくたった今飲んだアルコールのせいだろう。むしろ、そうでなくちゃいけない。
時々このような瞳で見つめられる時がある。それは仕事の時も、そうでない時も。
「今日の格好、いつもと雰囲気違うね」
「こういうのを指定したのは白蘭様でしょう」
「プライベートの時は気軽に呼んでくれていいのに……。うん、綺麗だよ」
はたして今日ここにわたしを誘ったのは一体なんのためだったのだろう。誘われた時点で仕事の話ではないことはわかっていたが、それにしてもこの熱は耐え切れそうにない。紛らわすように再びグラスに腕を伸ばせば、それさえも把握しているかのように繋がれる手のひら。そして指の腹をなぞる爪。その指先は酷く冷たい。
「たくさんアプローチしてるのに、なまえチャン全然反応してくれないから寂しい」
「……わたしには、応えられないです」
「どうして?」
「あなたはボスで、わたしはその部下だからです」
あまりにも弱すぎる盾だ。案の定白蘭は「そんなのはただの言い訳だよ」とわたしの言葉を否定する。他人に興味がなさそうな彼が、どうしてわたしにそんな眼差しを向けるのか。
「僕の言葉、嘘だと思ってる?」
「そ、れは……」
ない、とは言いきれなかった。だってわたしは白蘭の本当の心を知らないから。だからこそ、理由がわからない。甘い言葉の意味も、焦がすような眼差しも。
じりじりと逃げ道が塞がれていく。白蘭は困ったようにため息を一つついたが、表情はどこまでも涼やかだった。そしてそれは正しいのだと思う。わたしが彼の部下である時点で、また嘘か真かわからなくても彼の隣にいるという事実だけで、逃れられることなど出来ないのだから。
「そもそも、このファミリーに所属している時点で、わたしは白蘭様のものです」
彼はなにも答えることなく、残り僅かになったグラスに手を伸ばす。そうしてカラリと氷が音を立てて、透明な液体が彼の中に消えていくと、僅かに熱が灯った瞳でわたしを射抜いた。
「なまえチャンはギリギリのところで逃れようとしてるから、だめ。僕は形だけの君が欲しいんじゃない」
指先が、わたしの頬に触れる。先ほどまでグラスを持っていたからか、その温度は更に冷たく感じられた。途端に背筋が震え、くらくらと目眩を起こしそうになる。
「僕は君が思ってるより君のことを好きだよ。どの世界でもね。だから、君の全てを手に入れないと気が済まない」
「……」
「たとえば、そうだね。手に入らないのならば……殺したいくらい、君が好き」
甘い声で囁くには、あまりにも暴力的すぎた。白蘭が紡ぎ出す一つ一つの言葉が、注がれる視線が、鋭利な刃物のようにわたしに突き刺さる。手足をもいで、傷だらけになって、冷たいそれが心臓に触れるように。
「……暴力、ですよ、その言葉は」
「うん。でも、それくらいなまえチャンが欲しい」
これは、恋ではないのだろう。しかしずっと前から注がれ続けていたその視線に、不快な気持ちは一度だって抱いたことはなかった。それが明らかにいびつだとわかっていても、毒に犯され感覚が麻痺していくように、少しずつ曖昧になっていく。
白蘭はカウンター越しのバーテンダーにお酒を一つ頼んだ。その間、わたしは氷で薄まってきたグラスに手を伸ばし、乾いた喉を潤していく。アルコールのせいだろうか、なにもかもが熱い。脳みそが、どろどろと溶かされていくような感覚がする。
しばらくして白蘭の目の前に差し出されたのはショートカクテルだった。それはほんのりと乳白色をした、まるで隣にいる彼のように美しいカクテル。
「ん」
「え? わたしに、ですか」
「これね、XYZって言うんだけど……意味、知ってる?」
「……いえ」
花言葉と共に花を送られることはあったが、カクテルを送られるのは初めてのことだった。しかしあの暴力的とも言える言葉のあとである。意味を知るのが少し恐ろしいと思った。
「知りたい?」
断ることなど出来ないくせに、白蘭は甘く柔らかい口調で尋ねた。そして垂れ下がった横髪をわたしの耳にかけ、そっと唇を寄せる。おそらく彼は笑みを浮かべているだろう。唇から漏れる吐息が、ほんの少しだけ揺れていたから。
「永遠に君のもの」
「え、」
「ああ、あとはこれ以上ないとかそういうのもあったかな」
少しだけ屈んで、わたしを見上げる。そうして白くて細い睫毛がゆっくりと上下に動いた時、たまらなく息苦しくなった。白蘭は「どう? 少し、ときめいた?」なんて言って微笑む。この人は本当にどこまでもわたしを逃してはくれないらしい。
「ねえ、なまえ。僕のことだけ考えて、そして僕の隣だけで息をして。僕も、同じようにするから」
「びゃくらん、さま……」
「様は、やめてよ」
もう一度、今度は敬称を付けずに彼の名前を呼んだ。すると白蘭は満足そうに口元を緩める。ああもう駄目だ、耐え切れそうにない。少しずつ、少しずつ、感覚が鈍っていく。
わたしは彼の視線から一旦逃れ、バーテンダーにお酒を注文した。そのため白蘭の表情は見えなかったけれど、わたしが紡いだ言葉でおそらく全てが伝わっているはずなのでそう難しい表情はしていないだろう。二人の間に流れる沈黙。なんとなく目を合わせていられなくて反対側を向けば、瞬く光の粒に目が眩みそうだった。
そうして目の前に置かれたショートカクテル。XYZ。わたしはそれを、白蘭に向かって差し出した。彼のように、逆上せてしまいそうな言葉を紡ぐことがわたしには出来ないから。
「こっち向いて」
「もうこれ以上は、無理、です」
「だめ。言っただろう? 全部が欲しいんだって」
世の中には知らない方が幸せだということもある。いや案外、そちらの方が多いのかもしれない。しかし一度知ってしまえばもう、知らなかったあの頃には二度と戻れないのだ。
くるりと背後を振り返る。すると白蘭は差し出されたカクテルを口に含むと、人の目を気にすることなく、いやむしろ見せつけるようにして唇を重ね合わせた。隙間から流れ込んだそれはまるで彼のように涼やかであり、また目眩がしてしまいそうなほど甘美であった。
/ Drown企画夢